第二章・第一話 「過去」
電話の音で覚醒しながら、誠は二日酔いの頭を抱えた。
昨晩、自分の事や塩田綾の事を考えていたら取り留めもなくなり、つい飲み過ぎた。マットレスからよろよろと立ち上がり、キッチンカウンターの電話を取る。「ハロー」と言った声はひどく掠れていた。
「May I speak with Mr. Makoto Sakurai?」
尋ねた声には明瞭な日本語のアクセントがあったが、誠は頭が働かず、うすぼんやりと答えた。
「This is him speaking. How may I help you?」
言ってから店ではないのにと気が付いたが、相手は気にしていないようだ。
「あの、日本語でいいですよね。私、浅井です。一昨日、綾さんの事でお電話しました」
まるで予測していなかった事に加えて二日酔いで、誠は「ああ、ええ」としどろもどろの応対になってしい、やむを得ず平手で自分の頬を叩いた。音は浅井友子にも聞こえただろう。
「すみません、寝起きなものでちょっとぼんやりしまして。お電話ありがとうございます。塩田綾さんの事なんですが、事務のユウコさんからは、どの程度お聞きになっていますか?」
何とかいつものセールス口調が出て来た。
「ええと、綾さんの家族が彼女と連絡が取れないって事と、綾さんが学校に出て来てないって事ですけど」
高めの声だが甲高くはないし、語尾を伸ばす甘ったれた喋り方でもない。しかし、話題のせいか、見知らぬ人間との会話のせいか、浅井友子の声は何処かおどおどしている。
「そうなんです。浅井さん、塩田さんの居場所を御存知じゃありませんか? 彼女はコンドミニアムにも帰っていないようなんです。僕に塩田さんの居場所を言う必要はないんです。御家族に連絡するように伝えて頂ければいいんです」
「それが、あの、私も綾さんにはずっと会ってないんです」
力説する誠の口調とは対照的に、浅井友子は蚊の鳴くような声で答えた。言われた方は「そうですか」としか答えようがない。落胆は隠せなかったが、気を取り直して尋ねる。
「分かりました。それでは塩田さんのお話を伺いたいので、時間を取って頂けませんか?」
多少躊躇の声を出した浅井友子に、どうしても必要だから、と誠は頼み込んだ。やや間があってから、やっと浅井友子は承知した。
「UHまで来てくれますか? 明日の昼過ぎなら丁度いいんです」
今、浅井友子が通っている、ユニバーシティ・オブ・ハワイだ。
「行きますよ、勿論」
スケジュールは珍しく覚えていた。明日は休みだ。島の反対側だって行ける。浅井友子は構内のカフェテリアの場所を伝え、誠は礼を言って電話を切った。
テレビセットの上の時計を見ると、まだ十時だった。
リビングルームのマットレスを畳み、キッチンへ行く。冷蔵庫からオレンジジュースを出して扉を閉めると、マグネットで貼ってある二週間分のスケジュール表が目に入った。
時々目覚ましをセットし忘れる誠を、遅刻させない為に、ジェームスがそうしている。スケジュールは、店の全員の分が一覧になっている。
誠のすぐ上の欄にあるトレイシーのを見ると、今日が休みで明日はナイト・シフトだ。浅井友子に警戒心を与えないように、明日はトレイシーを引っ張って行こうと思った。
浅井友子が塩田綾と連絡を取っていなかったのは意外だったし、落胆もしたが、塩田綾に辿り着けなければ、それはそれで仕方がない。出来る限りの事をして、そう報告すればいいのだ。
自分の職業はセールスで、探偵や興信所ではないと開き直る気持ちも出て来た。
明るい気分で仕事に行き、ジョージが同じフロアで一階に回されたのをいいことに、軽口を叩き合いながら仕事をした。それで平穏に一日が終わってくれるかと思ったが、閉店ぎりぎりに異変が起きた。
夜十一時という閉店時間は、世界中のどの都市に比べても決して早いとは思われない。その閉店五分前に滑り込んで来た白人カップルが、長々と店内を物色し始めた。
全く馬鹿々々しい規則だとは思うが、会社では一度客が店に入った以上は「閉店です」と追い出してはならないと言う。
そういう下らない規則を作る側は、いつだって守らなくてよい立場に立っている。
十二時を回ってマネージャーの顔色も変わったが、当のカップルは全く気にした様子もなく、十二時半になってようやく靴二足を決めた。
全スタッフが愁眉を開いたのは、ほんの束の間だった。
彼らは当たり前の顔をして、ディスカウントを要求した。ブランドにもよるだろうが、誠の勤める会社では、ディスカウントはない。
マネージャーがそれを説明したが、彼らは納得せず、揉めに揉めた挙句、「二度と来ないぞ」というお決まりの捨て台詞と共に、何も買わずに店を出て行った。
後には、口には出せないが「二度と来るな」という雰囲気を滾らせたセールス達が残った。
誠も腹立たしい気分が残っていたし、ジョージとアンジェラがどうしてもと言うので、異例の事だが、ユニフォームの儘でナイトクラブへ繰り出した。やはり怒っていた警備員のジョシュアも付いて来た。
空きっ腹にアルコールを流し込んで、ダンスフロアでヤケのように踊り、ついでにアンジェラに言い寄ろうとした白人を、男三人で小突き回すようにして追い払うと少し気が晴れた。
「さっきの客さぁ」
大分柔らかい顔つきに戻ったアンジェラが、話しかけて来た。
「きっと本当は、あんまりお金持ちでもないんだろうね。バケーションに来て、高級ブティックでちやほやされてみたかったんじゃない?」
「接客は丁寧にしてるよ。普通の営業時間内に来て欲しいな」
「とっくに閉まってる事に気がついたのが遅くて、さっと店から出られなくなったんじゃない? ディスカウントねだったのだって、本当は買う気がなかったからかもしれない。いつもと違う場所に来て、違うことしたら、わけ分かんなくなって暴走したんじゃない?」
「そんなもんかな?」
アンジェラの言う事は分かる。旅先にいる解放感から、普段ならしない事をしてしまうというのはありそうだ。
「いくつになっても、自分の中に知らない部分って、多分あるわ」
微笑んだアンジェラは、誠よりも精神的に遥かに大人に見えた。
ナイトクラブを出たのは三時過ぎだった。アパートのドアを開けて、誠はジェームスを起こさないように、いつもより静かに行動した。ジェームスは誠が飲んだ後に運転するのを恐ろしく嫌がるからだ。
疲れてもいたし、すっかり汗臭くなってしまったユニフォームを脱ぎ捨てると、マットレスを敷いて、歯も磨かずに横になった。
眠りに落ちる寸前、思い出して目覚ましをセットしたのは上出来と言えた。
目覚ましの音で目を覚ますと、案外頭はすっきりしていた。
昨夜、飲むには飲んだが、やたらと元気良く踊っていたのでアルコールは抜けたようだ。その代わり無闇と体が汗臭かった。冷蔵庫に飲む物を探しに行くと、ジェームスからの伝言が目に入った。
「飲酒運転は良くない。君が捕まっても身柄を引き取りには行かないぞ」
昨夜の所業はばれていたらしい。コップ一杯のアップルジュースを一息に飲み干して、シャワーを使った。時計を見ると、十時少し過ぎだ。
浅井友子との約束は十二時半で、トレイシーも待ち合わせ場所に直接来る事になっている。UH迄は車で精々十分だし、キャンパス内で待ち合わせ場所を探す手間を考えても、十二時に出れば余裕で間に合う筈だ。
誠はジェームスの書斎に入り、自分のメールを開けてみた。塩田綾関係で何かメールが入っているかと思ったからだが、思った通り兄からと、塩田文美からの二通が入っていた。
兄の方はともかく、前回のメールに返事を書いていなかっただけに、塩田文美からのメールを開くのは苦痛だった。兄からは、家賃等の経費は院長先生から頂く事にしたとあり、更に警察への届け出はもう少し待つようにとあった。
そういえば、まだ塩田綾の家賃の領収書を兄に送っていなかった。ヒラタ氏にもらった領収書をスキャナーで読み取り、メールに添付して送る。
それだけでもう既に一仕事済ませたような気分になったが、塩田文美からのメールが残っていた。
今回は挨拶程度でも、返事を書かなくてはと思いつつメールを開けると、前回よりも長い文だった。重ねて迷惑を詫び、さらに父親はやはり警察への届け出を嫌がっているとあった後に、塩田綾がハワイに来た理由があった。
前のメールでは、書かなかったことがありました。実は、姉がハワイに行くことになったのには、理由があります。
姉は不倫をしていました。二十六か七の頃からです。
関係が相手の奥さんに知られて、奥さんが家に話しに来ました。
姉は土下座もさせられましたし、念書も書かされました。
相手の方が父の病院に勤めるお医者様だったので、仕事を続けることも難しくなりました。何より父が怒って、しばらく日本を離れることになったのです。
片方だけが悪かったはずはありませんけれど、田舎では何でも女性に不利な考えばかりが通ります。
姉が器用な人ではないと前に書いたのは、そういった事があったからです。姉に会ったら、どうか厳しい事を言わないでやって下さい。
本当なら、こういうことは興信所にでも頼むべきなんでしょう。でも、父は世界中の人が自分を知っていると思うような、変な錯覚を持っています。興信所なんて怪しげで、後で何を言われるか分からないと言うのです。
実際、うちの町では父は有名人なので、そんな錯覚を持ってしまうのでしょう。こういうのを田舎者と言うんですね。
金銭的にも負担をお掛けしたとも、少し聞きました。そういうことまでご迷惑をかけては、あまりに申し訳ありません。父はその点ではけちな人ではありませんし、必要なだけ出すと言ってますので、どうぞ遠慮せずに言ってやって下さい。
本文中、主人公が飲酒・酒気帯び運転を行っていますが、そういった行為を推奨、認可するものではありません。