第一章・第十一話 「パートナー」
仕事は三時からだ。誠はショッピングセンター内で時間を潰す事にした。
三階の広場に出ているカートでコーヒーを買い、空いていたテーブルを見付けて腰を下す。アラモアナ・ショッピングセンターは全面禁煙なので、煙草は吸えない。
コーヒーを啜りながら、塩田綾の事とその報告について考え始めた。
誠が見た写真からいって一番考えられるのが、塩田綾にはボーイフレンドがおり、ほぼ同棲に近い生活になってしまっているという事だ。服や靴が見当たらない事も説明が着く。
金銭的に余裕のある彼女の事だから、化粧品等は新たに購入したのかもしれない。
ただ腑に落ちないのは、部屋の様子がいかにもちょっとした外出の風になっていた事だ。塩田綾の生活習慣を知らないので何とも言えないが、普通、服をベッドに掛けたままにしたり、冷蔵庫の食品を一月も放置したりするものではない。
もっとも彼女が、そんな日常の些事など気に留められない程、ボーイフレンドとの関係に有頂天になっているのなら話は別だ。
あるいはアメリカ国内で旅行にでも出てトラブルに遭ったか、という考えは、一瞬誠の頭に浮かんで、直ぐに打ち消された。
確かに彼女のスーツケースが一つとは決められないし、国内の旅行なら原則として日本のパスポートは要らない。しかし旅行なら、それこそ部屋をあんな風にしては行かないだろう。
それにパスポートが必要でない、というのはあくまで原則だ。飛行機に乗る搭乗手続きでは必ず身分証明が必要だ。
誠はボーイフレンドの線が濃厚だと、頭の中で再確認し、次にすべき事を考えた。
今日、塩田綾の部屋に入った事を兄に報告し、警察や領事館に届けるかどうかを尋ねる。ついでに彼女を捜す事自体も、続行して欲しいか聞いておこう。部屋代の請求もしなくてはならない。
塩田綾と連絡を付ける事については、まず浅井友子と話すべきだろう。それとも、と考えて誠は写真立てから抜いて、ポロシャツのポケットに入れておいた写真を取り出した。
塩田綾の肩を抱いて笑っている男は、彼女と同じくらいに見える。三十歳前後か。ナイトクラブかどこかで撮ったらしい写真を見ながら、誠は二日前に会った語学学校の女の子達を思い出した。
ピンクのTシャツが言っていた、ナイトクラブに行ってみるのも一つかと思う。
今後の展開を適当に想定した所で、誠はコーヒーを飲み干した。立ち上がって紙コップをゴミ箱に放り込み、ぶらぶらと歩き出した。
その夜も、思いの外に忙しかった。
ゴールデン・ウィークの前半に働き、後半からその後にかけて休みを取る人もいるのだろう。
忙しかった分売り上げも上々で、誠が機嫌良くアパートへ帰ると、ベッドルームからはドアを閉めているというのにジェームスの鼾が聞こえた。これ程の大音量なのは、疲れてストレスが溜まっている証拠だ。もっとひどいと歯ぎしりが加わる。
誠はユニフォームを脱いで、カウチの背に掛けた。
まずベランダに出て一服しつつ、兄に電話する。携帯電話に掛けるとすぐに繋がった。
誠が塩田綾の部屋の状態を報告すると、兄もさすがに溜息とも唸り声ともつかない声を出した。相手が兄なので、写真の一件も包み隠さず伝える。
「その男がボーイフレンドかどうかは分からないけどね、どう院長先生に報告するかは、そっちで決めてくれ」
「そんなこと確証がない限り言えないよ。帰っていないらしいと伝えよう。それと家賃の件は、出して貰う事にしよう。領収書をスキャンして送ってくれ」
「警察や領事館には、やっぱり届けないのかい?」
兄の返事には僅かに間があった。
「俺も聞いてはみたんだが、届け出ても別に、人員を割いて捜査してくれる訳じゃないだろうって言うんだな。領事館も同じ事だ」
「でも万が一って事もあるぜ。兄貴だから言うけどさ、『実は身元不明の死体になってました』だったらどうすんの?」
昼間思い付いたボーイフレンドの線でなければ、誠の手にはどう考えたって余る。
「そういう事も、絶対ないとは言いきれないかもな。よし、もう一回言ってみよう。ところで、話は変わるがな」
口調ががらりと明るくなった。誠は逆に兄が何を言い出すかと、少し緊張した。
「お前、彼女はいないの? お前の年だと、結婚てんじゃないだろうけど。この間お袋と話していて、将来お前が、目や、肌の色が違う嫁さんを貰いたいって言っても、いい人なら構わないよねって話になってさ。今度みたいな事があると尚更だよ。俺達はお前の嫁さんがどこの人でもいいから、姿を眩ますような真似はしないでくれよ」
全く自動的に、誠は乾いた声で笑った。自分でも驚く程の流暢さで嘘が流れ出る。
「そりゃ、嬉しいな。実は好きな子はいるんだよ。店の同僚でさ、日系二世なんだ。美人だぜ。時々、飯食いに行ったりしてるんだけど、競争率高くてさ」
兄は全く理解があると思う。しかしそれはあくまで「嫁さん」という範疇でだ。肌の色が違って、ついでに「婿さん」だったらどうするのだ。
今の誠には、到底それを言ってのける勇気はない。適当な事を言って誤魔化し、将来家族が遊びにでも来る事があったら、美人で日系二世のトレイシーに芝居を打って貰うしかない。
「そうか、頑張れよ。日系なら日本人を好きになってくれるかもしれないぞ」
弾んだ声で、兄は誠を励ました。
電話を切り、誠はベランダの手すりにがっくりともたれた。
自分が女性を愛するタイプではないと覚り、その為の努力を止めたのは、ハワイに来る少し前だ。
もっと若い頃には、奥手なんだろうと自分を慰めていた事態が深刻化し、どうにも動かし難い状況になっていた。
変われる筈だ、変わろうという努力はした。女の子とも付き合ってみたし、それなりの行為もしたが、違和感は否めなかった。
もう仕方がないだろうと見切りを付けて、日本を出たのだ。
ゲイでいる事は悪い事ではない筈だ。少なくとも法律には触れない。しかし、世の中にはそこらの犯罪者より質が悪いと思っている人間も大勢いる。
自然の摂理というやつに反するのは大変な悪らしいが、誠にとっては同性に恋愛感情を抱く事が自然なのだ。男と生まれたからには、必ず女性と付き合って結婚し、子供を作るべきだとは感じられない。
そんな正直な気持ちは、他人に向かってなら言えるのだ。受け入れられなければそれ迄だからだ。「そうですか、俺もあんたなんか嫌いだよ」と言えるからだ。ところが身内はそうはいかない。
同性愛を容認出来なければ、そういう息子なり、弟なりを持ってしまった事で不愉快だろうし、縁を切るの勘当するのと言ったところで、赤の他人と絶交するのとは違う。
誠は頭を振り振り、キッチンへ行った。濃い水割りを作る。
毎日こんな電話があったら、あっと言う間にアルコール依存症になってしまうだろうと考えて、誠は一人肩を竦めた。
日本にいた時は一人暮らしではなかったから、常に嘘を吐きまくっていて、それが当たり前だったのだ。今はどうだろう。大好きな相手と一緒に暮らして、同僚も友人達も何も言わない。
そういう生活だから、たまの電話が堪えるのだ。日本にいた頃の生活を思い返すと、当時はそれ程とも思わなかったのに、実に寒々としていたと感じる。二度と戻れるものではない。
ベランダに出て煙草に火を点ける。
胃にアルコールが染みて来るのを感じながら、塩田綾はどうだったのだろうと考えた。
日本で、妹の言うところの「不器用な」生き方をしていた彼女は、ハワイに来てマシな生活を手に入れたのだろうか。