第一章・第一話 「依頼」
目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。こんな事は年に一度あるかないかだ。
仕事へ行くためにシャワーを使い、朝食兼昼食を摂っている時、自宅の電話が鳴った。誠は頬張っていたトーストを慌てて飲み下し、IDも見ずに受話器を取った。
「俺だ、元気か?」
驚いた事に、電話の相手は兄だ。
三年前に誠がハワイに引っ越してからは、ほとんど電話して来た事はない。時々メールをよこすが、面倒臭がりの誠は五回に一回も返事を書かない。それでも年の離れた兄の悟は怒りもせず、定期的にメールを送って来る。
「どうしたんだよ、珍しいじゃないか、電話なんて」
内心誠は、何かあったに違いないと嫌な気がした。家族や親族に何かあったか。
時計を見ると、午後一時ちょうどを指している。ということは日本は朝の八時だ。今、日本はゴールデン・ウィーク中のはずだが。
誠があれこれと思いを巡らせていると、兄は言いにくそうに切り出した。
「あのな、頼みがあるんだよ。取引先のお嬢さんがハワイに住んでるんだけど、最近連絡がないんだってさ。お前、様子を見てくれないか?」
良くない知らせを覚悟していただけに、少々気抜けしたが、同時に頭に疑問符が湧いた。
「ええと、話がよく見えないんだけど、様子を見るってどういう事?」
ハワイ州の州都、ホノルル市在住の日本人は、様々な「依頼」を受ける事がある。知り合いが行くので案内してやって欲しい、日本では入手出来ない物を買って送って欲しい、など様々だが在住者でないと出来ないことだ。
誠は日本人に人気のブランド店に勤めているので、知り合いが来た際には、まず社員割引をねだられる。しかし今、兄が言っているのは、社割どころの話ではない。
「昨日、お得意の病院の偉いさん達とゴルフに行ってな。そこの院長先生とは初めてだったんだけど、終わって飲んでる時に娘さんの話になって、ハワイに留学中だって言うから、つい俺も弟がハワイにいるって話をしちゃったんだ。そしたら実は、娘さんから連絡がなくて、心配してると来たよ。それで頼み込まれちゃったんだよ」
珍しく兄は、弱った声を出している。
「連絡が取れないって、どれ位の期間?」
「一か月位だって」
「一か月!」
思わず大声が出た。
「そりゃあ、ちょっと様子を見るって域を越えてるだろう。領事館と警察に届けるべきだよ」
兄の声は益々弱くなる。
「そういう届け出は嫌なんだと。まず様子を見て、それからにしたいそうだ。お得意さんだから、俺も駄目ですとは言えなくてなぁ」
誠は困惑した。面倒臭い真似をするのはゴメンなのだが、とても兄に向かっては言えない。引け目は大きい。
「じゃあさ、その娘さんの学校とかアパートに行ってみて、ちゃんと元気でいるかどうか確かめればいいのかな?」
「やってくれるか」
弾んだ声を聞くと、微苦笑が洩れた。めったにしない頼み事をするのを、気に病んでいたらしい。
誠は咳払いを一つした。
「娘さんの名前と住所、電話番号に、学校の名前が必要だね。すぐ本人に会えればいいけど、周りの人にストーカーだと思われないように、家族の手紙があるといいかな」
探偵めいた事をしたことはないが、学校は生徒のプライバシーの保護についてガードが固い筈だ。せめて家族の代理人だという文書でも持っていれば、話は違うかと思ったのだ。本人に会った際に、不審者だと思われるのも避けたい。
本式な物はおそらく、公証人の前で署名した物が必要だろうけれど、とりあえずはないよりましだろう。
手紙に書く内容を伝え、まずはサインしてもらったものをPDFファイルで、後から郵便で送ってくれるように頼むと、兄は「娘さん」について知る限りの事を教えてくれた。
名前は塩田綾、三十一歳でハワイには九か月程前に移り、語学学校へ通っていた。ハワイに来る前は、都内の有名女子大を卒業した後、ずっと父親の病院で事務を勤めていたそうだ。
「ワガママで気紛れなところがあるから、不規則な生活が続いてるだけかもと、院長は言っていた。でも心配はしているよ。何たって昨晩話して、今日連絡欲しいって言われたんだから。それと、バイト代出すって言ったのを俺が遠慮したから、俺がお前にバイト代出すわ」
最初から「金を払うからやってくれ」と言わないところが兄らしい。誠は「じゃあすごい額を請求するよ」と、ふざけてみせた。
調子に乗るなよ、と切り返しながらも、
「手間かけさせて悪いな。俺、営業の仕事は好きなんだけど、家族にまで迷惑かけるのは良くないよな」
と、兄は真面目に言う。
一流大学を出て大手製薬会社に勤めた兄は、今は、ある地方支社営業部で管理職を勤めている。
誠は一昨年の、兄の結婚式を思い出した。想像以上に招待客も多く、特に兄の仕事関係が多かったため、恥をかかせないようにするのに骨を折った。
「こういうのも仕事の内だろ、仕方ないじゃないか。俺の事なら気にしなくていいよ。大した手間じゃないんだし」
兄は再度、生真面目に礼を言って電話を切ったが、直前に、「ルームメイトの彼によろしくな」と言い添えたのに、誠は冷やりとした。
受話器を置いて、誠は煙草に火を点けた。「ルームメイトの彼」は仕事に行ってしまっていないので出来る仕業だ。嫌煙家の彼がいる時は、ベランダで吸う約束になっている。
実は彼がただのルームメイトではない、と兄に告げたらどんな顔をするだろう。想像して誠は、煙と共に溜息を吐き出した。
南を向いて開いている窓から、涼風が吹き込んで来る。ビルの間から僅かに見える海が、美しく光っている。
すっかり冷たくなってしまったコーヒーを啜り、誠は兄の事を考えた。
いい大学を出て、大きな会社に勤める兄。自分が、女性と結婚して子供をもうける予定などなく、日本に帰るつもりもない以上、将来、両親の世話等は兄に頼まなければなるまい。
そういった事を考えると、口には出さないが、兄には頭が上がらない。兄からすると、大学を中退して、ハワイに移り住んだ弟に期待するところは、少ないかもしれないけれど。
女性を愛せないからといって日陰者だと思い込むのは良くない、とはルームメイトでボーイフレンドのジェームスが日々、口にする事だが、兄から来るメールに、五回に一回しか返事を書けないでいるのは、そういう理由もある。
でもまあ、と誠は思い直した。
彼に対して引け目を感じる事は、兄が悪いのではない。自分で役に立てる事があるならば、喜んでしようじゃないか。兄の事は、むしろ好きだ。
ポケットに財布と携帯電話が入っている事を確認し、煙草と鍵を握って誠は部屋を出た。エレベーターで駐車場へ降りる。
誠とジェームスの部屋は二十階建てのビルの十五階にある。ホノルル市内のマキキと呼ばれる地区にあり、誠の店があるワイキキにも、車でせいぜい十分だ。
誠は愛車のニッサン・セントラに乗り込んだ。以前の同僚から買ったものだが、十年落ちの割には故障もなく、いつも機嫌良く走ってくれる。
市街地を東から西へ流れるベレタニア・ストリートを通り、カラカウア・アベニューに車を入れる。中央分離帯の大木が涼しげに影を落とす通りを、真っ直ぐに走る。
アラ・ワイ運河に掛かる橋を越えると、ワイキキだ。道の左右に植えられたレインボーシャワーツリーの花が柔らかに揺れ、華やかな街が目の前に開けてくる。
シャワーツリーの形は、日本の藤に似ていないこともない。小さな花が沢山ふさのように連なって固まりになっている。但し花の色は黄色やピンクだし、一つのふさに違った色の花がついている。
ツル科の藤と違って木が枝を広げているので、藤とは全く印象が異なる。明るい色のふさが風に揺れている様は、花の塊が降っているようにも見え、シャワーツリーという名はそこから来ているのだと思わせる。
今日もその明るい色が、青い空を背景に踊っている。