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ファルコのノート2

作者: 一色靖



  『ファルコのノート2』


            一色靖



   1



 ファルコ夫人アトリスと娘のアネットは米国潜水艦S47に救出された。

 S47に着くまでの間、二人をゴムボートで艦まで案内したヘイフォード少尉が言った。

「言ったように、ここビスケー湾は潜水艦にとって非常に危険な場所です。幸い、ここまで侵入する際には誰にも気づかれることはありませんでした。しかし、危険である場所には変わりありません。

 急ごうとスクリューを回すと、付近にうようよいるUボートに音を察知されてしまう。

 おそらく艦長は引き潮を利用して、潮流に乗ったまま無音潜行で脱出するでしょう。相手のソナーマン(音波探知機の操作者)には、艦内でカップを落としても探知されますから、艦が待避行動に入ったらくれぐれも静粛に願います」

「はい。わかりました」

 波は静かだった。ボートを漕ぐ四人の水兵たちの息づかいが聞こえるくらいだった。

 やがて、夜の闇の中に、沖合に停泊するS47の艦橋が見えてきた。



 夫人がはしごで中に入ると、狭い艦内でひしめきながら水兵たちが様子を窺っていた一区画向こうのドアからは口笛が飛んだ。

 続いてアネットが降り立った時には、「ほーっ」というため息の合掌に変わった。

「こら、てめーら! 持ち場を離れるんじゃねえ!」

 口ひげをたくわえた五十代ほどの黒髪の男が野次馬を怒鳴りつけた。とたんにみんな恐れを成して、ギャラリーのドアは閉じた。

 男はこちらを向くと同じ人物と思えないほどの優しい表情で言った。

「よくいらっしゃいました。特務曹長のドーソンです。艦内ではチーフと呼ばれています。軍艦という性格上、快適とは言えないでしょうから『おくつろぎになってください』とは言いません」

 アトリスは口に手を当てて笑った。

「わたしたちのために来て下さったのですもの、それだけで感謝です」

 そこへ軍帽をかぶった四十代くらいの、鋭い目つきをした男がやってきた。握手を求めた後、

「艦長のケンドリック大尉です。エニグマ暗号を解読する資料を運べるとは光栄です。安心しておくつろぎになってください」

 とたんにアトリスとアネットは吹きだした。

 艦長は狐につままれたような顔になった。しかし、赤くなって咳払いをしているドーソンを見て大体のことは察したらしく、

「チーフ! おれたち二人とも司令室任務を離れるわけにはいかないだろう。さっさと戻れ!」

と怒鳴りつけた。チーフは慌てて持ち場に戻った。

 艦長が指名したシャーウッド伍長が二人を後方の居住区に案内した。



 司令室ではケンドリック艦長が、静かに指示を出していた。

「チーフ、潮流の速度は?」

「7ノットです」

「よし。しばらくの辛抱だ」



 アトリスは与えられた寝台の上で、夫が残した三冊のノートをあちこち開いてみていた。夫ルネの筆跡。

 それはフランスでの逃亡中に、ルネ・ファルコ博士が、独自の記号論からエニグマ暗号を解読する理論をまとめあげたものだった。

 エニグマ暗号器はナチス・ドイツがUボートなどに四十万台以上配備している暗号器で、非常に複雑な過程で暗号を作り出す。ドイツ軍がこれを用いて通信を行っているため、連合国側は通信を傍受しても解読できず圧倒的に不利な立場に置かれていた。

 それを解くための理論をファルコが導いたのだ。これを極秘のうちに知った連合国側は、ドイツ占領下のフランス内にいるレジスタンス組織に、博士一家を国外に脱出させるよう働きかけた。

 これを受け、日本人ながらフランスのレジスタンスに参加している関豊せきゆたからが、密かに博士を米国潜水艦の待つビスケー湾まで連れ出そうとした。

 しかし、簡単な旅行で終わるはずだった任務は、これに気づいた女スパイ、エメによってドイツ軍や秘密警察の知る所となり、壮絶な追跡劇に変わってしまった。この逃亡中に、ルネ・ファルコ博士が元の理論を発展させて、実戦配備されているエニグマ暗号器を解読できるように新たにまとめあげたのが、アトリスに託されたファルコのノートだった。エメも、ファルコが連合国側に重要人物と見られている所までは見抜いたが、具体的に何のために国外脱出させようとしているのかまでは分からなかった。

 そのノートをアトリスに渡したルネは、ドイツ軍が迫る中で、自分と家族は離れなければならないと言った。ルネは捕まっても殺されることはない。何を知っているのか、なぜ連合国側が興味を持つのかを徹底的に取り調べられるだけだ。しかし、家族は身の安全が保証されないばかりか、逆に、ルネに家族の命の引き替えに洗いざらいを白状させられる可能性がある。それを避けるために、ルネは家族だけを国外脱出させ、自分はフランスに留まった。

 ユタカはルネを守るために全力を尽くすと言ってくれたが、それは難しいだろうとアトリスは思った。

 だが、ユタカがいなければ、脱出はおろか、捕まって、この戦争の行方すらどうなっていたか分からない。

 きっと……とアトリスは思った。「ルネは自害したはず」涙が溢れてきた。

 アネットはすやすやと寝てしまっていた。この子は機転が利くし、どんなときも取り乱したりしない。夫のルネの性格を見事に受け継いでいた。

 今は、このノートを連合国に渡すまで守り続けなくてはならない。



   2



 S47はビスケー湾の無音脱出に成功した。そこから北のイギリス本土は目と鼻の先だった。

 だが、行くわけにはいかない。そこにはびっしりとUボート群が待ち構えており、目を光らせている。これまで何隻の貨物船が撃沈されたか。

 ケンドリック艦長はさらに北東に進んで、アイルランド西のトラリーを目的地に据えていた。



 潜水艦はいつまでも潜っているわけにはいかない。潜水艦の動力は、ディーゼルエンジンと蓄電池によるモーターだ。

 海上が安全な時や夜間は浮上してディーゼルエンジンで航行する。その間にその動力を利用して、圧搾空気を作り、また蓄電池の充電を行う。

 戦闘時になると潜水するので、大量の吸気を必要とするディーゼルエンジンは使えなくなる。かわりに充電しておいた蓄電池のモーター動力でスクリューを回す。

 動力原理と水中抵抗の差から、海上では20ノット近い速度を出すが、海中ではせいぜい7、8ノットでしか進めない。これは、海上では時速35キロ程度、水中では競歩の選手と同じ速度という差だ。

 また潜水艦には幾つものタンクがあり、メインタンクをブロー(圧搾空気による空気注入)すれば船は浮上する。その他、前後にトリムタンクがあり、同様の働きで海中での前後の姿勢を保つ。

 潜水するには各タンクのベントを開くと海水の注入が起こり、タンクは海水で重くなり、艦は沈降する。



 最も危険なのが、海中で相手に横腹を見せている時だ。命中角を広く取れる上に、反撃のために艦の先端を回頭させるのには時間がかかる。

 だから、敵潜の位置はいつも注意していなくてはならない。



 ソナー担当のハンター二等兵がソナー室から半分身を乗り出して、司令室の艦長にどなった。一応伝声管や有線もあるが、狭い司令室では叫んだ方が早い。それくらい司令室は狭く、お互い背中や肩をぶつけ合いながら仕事をしている。潜水艦の構造上、仕方のないことだ。

「艦長! 潜行中のUボートです! 方位0-2-5、距離3500フィート(1066メートル)。深度200フィート(60メートル)魚雷発射管の扉を開けつつあります」

 司令室にさっと緊張が走った。

「機関始動! 面舵いっぱい、方位0-2-5」

「アイ・サー」

 艦全体が右傾化し、居住区のアトリスも不安を感じた。

 司令室では矢継ぎ早に指示と報告が行き交った。

 艦長が有線マイクを掴むと言った。

「魚雷室、発射管1番2番用意! 準備ができ次第発射口の扉を開けろ。続けて3番4番も用意」

 魚雷発射管は外に露出しているので、普段は発射口扉を閉じて、海水を遮断しないと管への魚雷の装填ができない。魚雷を装填して密閉したら、発射口扉を開けて、海水を呼び入れる。これで発射準備完了だ。

「艦長、ソナーです。魚雷が来ます。二本。雷速(魚雷の速度)35ノット」

「こちらも応戦する。標的深度200フィート、発射角3度」

「こちら魚雷室、艦長、準備完了です」

「よし1番2番、発射」

 艦体に腹にこたえるような重い発射音が鳴り響いた。

 チーフがストップウォッチを見ている。

「本艦の魚雷が敵に届くのにあと45秒。敵魚雷の来襲まで30秒」

「回頭を続けろ。全員衝撃に対処せよ!」

 直撃を避けたとしても、距離が分かっていれば時限信管によって敵艦のごく近くで爆発させることができる。これによる衝撃で相手に損傷を与えることが可能だ。

 S47は回頭を続け、魚雷はかわしたが、艦の左側二十メートルの距離で爆発した。

 艦は激しく振動し、多くの者が床に転げた。操舵員の前の操舵計のガラスが飛び散った。

 そのとき海中を大きな衝撃音が伝わってきた。S47の放った魚雷だ。

「命中だ」艦長の言葉に、狭い司令室内が活気で沸き立った。

 しかし新たな緊張が襲ってきた。機関を始動し魚雷を発射したことで、他に潜んでいるUボート群に位置を特定されてしまったのだ。

「艦長ーっ! 魚雷が来ます。左右から四本同時にです。

 二本が0-8-5から距離3200フィート(975メートル)、もう二本は2-8-8から距離4000フィート(1220メートル)。雷速はいずれも35ノットです」ソナー員が叫んだ。

 艦長は命じた。

「急速潜行。メインタンク、前部トリムタンクに注水! 手の空いている乗組員は大至急前部居住区へ」

 前部のトリムタンクに注水して空気を追い出すと、艦の頭が下がり、急速潜行を助ける。

 また、慌てふためいた水兵たちが全力疾走で区画をまたぎ越えて艦の前部へと走っているのは重心をずらせて艦の前傾を助けようと言うことだ。

 魚雷の深度は発射される前に相手の深度をソナーで探知して、それに合わせてセットされる。

 したがって、発射された後に、急速潜行すれば、直撃は避けられる。

「現在ダウン角32度」艦は急激に前方に傾斜して、もう何かに掴まっていないと立っていられない。

 水圧がかかったせいで、艦内のあちらこちらから、軋む音がした。

 水深計は320フィート(98メートル)を示している。

 チーフがストップウォッチを見ながら言った。

「最初の魚雷の来襲まで35秒、次が50秒」

 艦長が、

「潜行急げ。残り時間が10秒を切ったら、後部トリムタンクにも注水。艦に重さを与えろ」

 S47は急速に沈んでいった。

 その頭上、30メートルほどで、第一波の魚雷が爆発した。

 艦は大きな衝撃を受け、各所で破壊音や管の漏水が発生した。みな、自分の仕事を放り出して、バルブを閉めたり、テーピングをしたり応急処置に当たった。

 そこへ第二波の魚雷二本が頭上で爆発した。

 応急処置の乗組員たちも衝撃で飛ばされ、廊下の電球が何個か破裂した。新たに出来た浸水箇所に、別の乗組員たちが駆けつけて手当をした。

 操舵員だけは持ち場に残っていた。

「ソナー、何か聞こえるか?」

「爆発音の余韻と水中の無数の気泡で何も聞き取れません」

「よし。敵も同じだろう。進路を0-9-2に取り、最初に攻撃してきた方の側面に回り込め。

 機関室、両舷半速」

「アイ・サー」操舵員が答えた。

 この修羅場をくぐれば、ひと息つける。ケンドリック艦長はこの海域でのUボートは三隻だろうと予想していた。

 S47は回り込みに成功した。

 ソナー員が言った。

「敵艦はアイドリングしています。本艦正面3100フィート(944メートル)。む……本艦に気づきました。微速前進しながら面舵でこちらに回頭しています

「よし、面舵を想定して、発射角の修正右に3度。3番4番発射」

 重い音と共に魚雷が射出された。

 チーフが時間を計る。

 ソナー員が嬉しそうに叫んだ。

「魚雷は二本とも敵が回頭した軌道に先回りするように進んでいます」

 やがて海を揺るがすような衝撃音が伝わってきて、命中を知らせた。

 司令室内に歓声が上がった。

 しかし、休む間もなく、打って変わったソナー員の悲痛な叫び声が聞こえた。

「三隻目のUボートから魚雷です。前部で四本! 雷速35ノット、距離は……1500フィート!(457メートル)」

 チーフが

「接触まで三十秒ありません!」

 艦長は逡巡することなく言い渡した。

「急速浮上。メインタンク緊急ブロー(空気を注入すること)!

 落ち着け! 敵が発射した時点ではわれわれは深深度にいた。さっきの魚雷の衝撃音で現在位置は掴めないから、魚雷の深度も元のそれに合わせてあるはずだ。前部トリムタンクもブロー。艦を後傾させる。できるだけ上に行ってかわすんだ」

 S47は海面に向けて、急上昇した。

「魚雷到達時間です!」チーフが言った。

 激しい爆発が艦の下の方で起こった。

 全員、壁や計器板に叩きつけられ、配電盤からは炎が吹き出して、司令室は停電で真っ暗になった。

 その中で艦長の声だけが響いた。

「ソナー、動くか」

「はい。大丈夫です。ただ、爆発の気泡で敵の三番艦を見失いました」

「それは敵も同じだ。敵は確実にわれわれを仕留めようと、近距離から魚雷を放った。当然自艦にも損害が出る恐れがあるから、発射と同時に機関に逆進(スクリューを逆回転させて後退すること)をかけているはずだ。

 前進から逆進へのタイムロスも計算に入れて最後に探知した位置から現在位置を割り出せ。そこを狙う。

 後進中は前進中と違って、魚雷を避ける回避行動が限られる。また、潜水艦は機関を停めてもすぐには止まらない。仕留めるには格好の状況だ。

 チーフ、一緒に計算しろ」

「はい」

 答はすぐに出た。その頃には非常用電源への切り替えも終わり、司令室内は明るさを取り戻していた。だが、床に散乱する様々な機材の破片が見る者の不安を煽り立てる。

「俯角12度、方位0-0-5、距離4200フィート(1280メートル)、深度230フィート(70メートル)という結果になりました」

「ごくろう、だが、これは予想だからな。保険をかける必要もあるだろう。全門発射だ。

 魚雷室」マイクで呼びかけた。

「はい」

「発射管、1番から4番まで全門準備。距離4200フィート、雷速40ノットで時限信管をセット。深度230フィート、発射角は3度。準備ができ次第報告せよ」

「はい」

 艦長は操舵員に後ろから声をかけた。

「艦を0-0-5に回頭。さらに前部トリムタンク注水、後部トリムタンク・ブローで俯角12度に艦を保て」

「はい」

 艦は前傾姿勢になった。

 マイクの呼び出しコールがかかった。艦長が取ると、

「魚雷発射管室です。準備整いました」

「よし。全門一斉に発射だ」

 これまでにない大きな発射音がして、魚雷は全門発射された。

「到達まで一分」チーフが時計を見ながら言った。

 一分が過ぎた頃……爆発音が聞こえてきて、艦もぐらりと揺れた。

「やった!」

 司令室は沸いた。

 その中でひとりソナー員だけがヘッドフォンを当てて耳を澄ませていたが、やがて安心してそれを外した。

「艦長、付近にエンジン音はありません」



 艦長はひとしきり乗組員たちと喜びを分かち合っていたが、やがて、真顔に戻り、マイクを手に取った。

「艦長だ」各スピーカーからその声が発せられた。

 艦内中の歓喜の嵐は急に静まりかえった。

「われわれはアメリカからここまで戦闘を繰り返してきたが生き残った」

 アトリスは艦長の声の調子から何か不安なものを感じ取っていた。

「とくに今回、Uボートを三隻撃沈したのは大きな戦果だ。

 だが、われわれは任務を忘れてはならない。今回の任務は勝つことではない。ファルコ御一家と、戦争の行方を左右するかも知れない極めて貴重な資料をイギリスまで運ぶことだ。これまでのすべての戦闘も、そのためだったと考えろ。

 しかし、わたしは今、重大な事実を諸君に告げねばならない。

 S47は今回の戦闘で全魚雷を使い果たした。もうわれわれには戦闘能力がない」

 ざわめきが起こった。

「しかし、任務は全うしなければならない。それには諸君全員の一致団結した協力と努力が必要だ。

 わたしは目的地まで行く。どうか、それを全員で支えて欲しい」

 アトリスは動揺を抑えられなかった。魚雷を持たない潜水艦など、ただの鉄の箱だ。もちろん占領下のフランスから脱出するには潜水艦しかなかったのだから、選択の余地はなかった。しかし……。

 そこへ、チーフが通りかかった。アトリスは尋ねた。

「チーフ、イギリスは目と鼻の先でしょう。海上航行にして、全速力で直行するわけにはいかないんですか?」

 チーフは困惑した顔で首を振った。

「無理です。本艦は海上航行で機関全速にしても17ノット。ドイツの駆逐艦は30ノットから35ノットは出ます。イギリス本土に着く前にレーダーで発見され、追いつかれて餌食になります。

 でも大丈夫。艦長にとって魚雷を使い果たすというのは初めてではないんです。どんな窮地も乗り越えてくれますよ。

 それにしても、そのノートの重大性を知っていれば、ドイツ軍は攻撃せず拿捕しようとするはずです。お構いなしに撃ってくるというのは、まだ機密が保たれているという証拠ですね」

 なるほど。ドイツはこのノートの価値はおろか存在すら知らない。



 夜も更けてきた。

 艦長は浮上を命じた。動力を重油ディーゼルエンジンに切り替えて、換気と蓄電池の充電を行う。艦内被害の修復も終わり、主電源も回復した。

 艦長はハッチを開けて艦橋に出た。やはり外気はうまい。見渡す限り、何もない大海原だった。多少波があるが、静かな方だ。

 そこでファルコ母娘のことを思い出した。

 潜水艦の中は、蓄電池を積んでいるせいで、潜行中は中の硫酸がわずかに気化して亜硫酸ガスを発生している。このため、体質によっては慣れないうちは頭痛に苦しむ者もいる。

 ファルコ母娘にも外気を吸わせてやりたいと、艦長は思った。

 司令室に通じるラッパのような伝声管から、乗組員に命じ、母娘を呼んだ。はしごを上がってきた夫人と娘は怪訝そうな顔をしていた。

「どうしたんですの?」アトリスが尋ねた。

「いえ。潜水艦の中の空気は汚いんですよ。せめて海上にいる時くらい外の新鮮な空気を吸って頂きたくて」

「それはお心遣いありがとうございます。たしかに良い空気ですね」

 艦長は満足した。

 ただ月が出ているのが気に入らない。こんな明るい夜を浮上航行していたら発見されやすいからだ。

 こんなにイギリスが近いのに、無線が使えない。極秘任務のため無線の使用を禁じられているのだ。

「あ、煙!」アネットが叫んだ。

 艦長はさっと緊張した。

「どこに?」

「あそこよ」

 アネットが指を指すが、双眼鏡で覗いている艦長にも見えない。

「見間違いじゃないのかい?」

「いいえ煙よ」

 そのとき伝声管から、

「艦長、レーダーに艦影! 東北東です」浮上中はレーダーが使用できる。

 アネットの言う方角に一致している。

「くそっ。見つかったんだ」

 アトリス母娘を艦内に降ろし、続いても自分もどかしそうに降りてハッチを閉めた。

「艦長、これです」とレーダー員が呼んだが、

「見ている暇はない」と答え、マイクを取った。

「各区、全吸気口を閉じよ。急速潜行する。メインタンク、全トリムタンク注水。機関室、エンジンをバッテリーに切り替え」

 マイクを外すと、チーフに、

「潜横蛇を下降に切れ」と命じた。

 チーフは操舵員に、

「潜横蛇ダウン30度」

 操舵員は復唱した。



 艦は急速に潜航した。艦内の至る所から、ハンマーで叩いているような音がした。水圧で押しつけられているのだ。

 ソナー員が叫んだ。「ドイツの駆逐艦です」

 駆逐艦――潜水艦の天敵だ。

 艦長が操舵員に尋ねた。

「現在の深度は?」

「300フィート(91メートル)です」

「三十秒で350フィート(107メートル)まで着け」

 マイクを取った。

「総員、これより艦内静粛に入る。咳払いひとつするな。機関室機関停止」

 艦内は完全に沈黙した。

 やがてソナー員が小声で言った。

「真上です。敵はエンジンを停止しました」

「ピンが来るぞ」ピンとはピンガーのことで、こちらから発信音を海中に向けて出し、その跳ね返ってくる音で、敵の位置を探知する、ソナーの一つの方法だ。

 コーンという小さな音が上の方でした。発信音だ。

 やや遅れて、艦内にとどろき渡る大きさで同じ音がした。これでS47はピンを反射し、敵はS47の位置を知った。

 艦長が叫んだ。

「メインタンク、全トリムタンクブロー。エンジン停止のまま。潜横蛇をアップに転じろ。急速浮上だ。

 敵は爆雷の準備に入った。個々の爆雷にいまのピンを元に爆発深度をセットするから少し時間がかかる。

 その間に浮上して、被害を軽減する。大至急200フィート(60メートル)まで浮上だ」

 艦は浮き上がった。居住区のアトリスにも、耳に感じる気圧が変化しているので、急速浮上をしていることが感じられた。爆雷とはどのようなものなのか、それを避けることは出来るのか。



 ソナー員が言った。

「着水音、爆雷です。全部で八つ来ます」

 艦長が、

「爆雷だ。各員、衝撃に対応しろ」

 ソナー員はヘッドフォンを外した。敵も爆雷攻撃と共にソナーを切っているはずだ。それでなければ鼓膜が破れる。

 この海のどこかを八個の爆雷が落下していく。100フィート、150フィート……。

 チーフが時計を見た。

「まもなく爆雷は350フィートです」

 それは突然やって来た。

 直撃を食らったのかと思うほど激しい爆発音が下の方で起こり、掴まっていなかった者は全員床に叩きつけられた。アトリスはベッドから転落して悲鳴を上げた。

 それは、二回、三回と起こり、艦内のあちらこちらで火花が散りぼやが出た。近くの乗組員が消火器で消した。消火剤の鼻を突く臭いが漂った。

「負傷者はいないか?」艦長が艦内マイクで尋ねた。

 ソナー員が言った。

「八発全部爆発しました。敵艦はエンジン停止」

 艦長が

「敵駆逐艦は、撃沈による爆発を確認するために、ソナー効力を最大に上げて、海中の様子を窺っているはずだ。艦内静粛だ」

 しばらく沈黙が続いた。

「敵も馬鹿じゃない。われわれが生き残っていることを知った。またピンが来るぞ」

 果たして駆逐艦も怪しいと思ったのだろう、ピンが来た。

 今度は浅いだけに艦体に響き渡るのも早かった。

 艦長が叫んだ。

「敵艦、微速前進します」駆逐艦は、自分も前進しなければ、自ら放った爆雷の衝撃を受ける。すなわち微速前進は、これから爆雷が来るという合図だ。

「急速潜行。メインタンク、全トリムタンク、注水。潜横蛇ダウン、目標深度は600フィート(180メートル)だ」

 これを聞いたチーフが言った。

「危険です。以前、500フィートまで潜水しましたが、漏水量にポンプが追いつきませんでした」

 艦長はチーフの肩をがっしりと掴まえて睨み付けながら言った。

「それは分かっている。だがチーフ、爆雷を避けるために深度を変えてかわしていることは、相手も気づいている。次はランダムに深度をセットした爆雷を落としてくるだろう。そのためには潜るしかない。これは命令だ」

 チーフは艦長の目を見ていたが

「アイ・サー、深度600フィートまで潜行」と復唱した。

 艦は再び水圧による軋み音が鳴り出した。

「現在深度350フィート」

 艦は沈降を続ける。

「現在深度400フィート」

 すると、

「機関室です。艦内パイプから浸水が始まりました。防水作業に入ります」

「第二居住区です。浸水が始まりました。復旧に全力をあげます」

と、各区から報告が入った。水圧により、漏水が始まったのだ。

 ソナー員が言った。

「来ました。爆雷の着水音です。数えるのは無理です。おそらく二十以上だと思います」

 ランダムな深度に設定した爆雷を大量投下してきたのだ。

 さっそく爆発音が聞こえた。浅い深度に設定された爆雷だろう。

 続いて次々と設定深度に達したものが爆発し、それはS47にだんだんと近づいてきた。

「現在深度480フィート(145メートル)」

 もう、全区画から浸水が始まっていた。艦長は艦底の排水ポンプの作動を命じた。

 そのうち、取り分け大きな衝撃がきた。司令室のパイプからも激しい浸水が起こり、乗組員が元のバルブを閉めて浸水を止めた。

 かなり近かったようだ。

 負傷者の報告や調理室からの火災などが相次ぎ、艦内は騒然となった。

 それでも爆発は続く、艦体を破壊するのではないかと思えるほどの衝撃が何度も襲い、倒れるものもいたが、もはや全員が復旧作業に当たっており、構っている暇はなかった。

 司令室の計器類もいくつか衝撃で破損し、使えなくなっていた。



 アトリスはアネットを抱きしめながら居住区の隅でうずくまっていた。ルネのノートも大切に胸に抱えていた。しかし、これだけの攻撃が続いたら艦が保たないというのは、素人のアトリスにも想像できた。

『ルネ……助けて』生死も分からない夫に願った。閉じたまぶたの中に静かに微笑むルネの顔が浮かんだ。

 アネットは怯えを見せながらも「お父さんがいれば、絶対助けてくれるのに」と呟いた。

 アトリスは思わず抱きしめる腕に力を加えた。

 心臓は激しく脈打ち、心の中では恐怖と理性が戦っていた。アネットの言葉が不思議と頭蓋の中で反響していた。『お父さんがいれば、絶対助けてくれるのに』……。

 お父さんがいれば――、はっとして胸の中のノートを見下ろした。

 ルネはここにいる。ルネなら助けてくれる。

 アトリスは、アネットの顔を見て、上目遣いで言い聞かせた。

「アネット、お母さんは艦長さんに話があるの。大事な事よ。ひとりで待っていられる?」

 アネットは健気に頷いた。

 アトリスは高鳴る胸を落ち着かせながら、司令室へと向かった。途中、生きているのかも分からない水兵の体をまたいだり、衝撃で床に叩きつけられたりしながら進んだ。

 司令室は何か余計なことを言うとかまいたちのように切られてしまいそうな鋭い空気が張り詰めていた。数え切れないくらいの箇所から浸水していた。

 アトリスは勇気を振り絞って叫んだ。

「艦長! ケンドリック艦長!」

 びしょ濡れの艦長が、アトリスを振り返った。

「何をしているんです! ファルコ夫人、ここはあなたの来る場所じゃない!」

「大事な話があるんです!

「後にして下さい! いまは聞いている暇はありません」

 アトリスは肺一杯に空気を吸い込んで、今まで出したことの無いような大声を出した。

「この艦を救うたった一つの方法です!」

 全員がアトリスを見た。



「敵艦を追い払う? 魚雷もないのにそんなことができるわけないでしょう!」

「できます! そのためにはここから離れることが必要です! 気づかれても構わないから、全速力でここから移動して下さい! 怒鳴り合っていては相談ができません」

 艦長はしばらく考えていたが、マイクを取って命令を下した。

「機関室。機関始動。全速前進。チーフ、この爆雷の中だ、向こうは何も聞こえん。いくら音を出しても構わない。4000フィート(1220メートル)離れたらタンクをブローして300フィート(90メートル)まで浮上だ」

 S47はスクリュー音を響かせて前進し始めた。爆雷源が後方に遠ざかり始めた。敵はソナーを切っているからS47が移動したことを知らない。

 約五分後、4000フィート進んだ艦は全タンクをブローして浮上を開始した。次第に浸水が収まっていき、やがて止んだ。

 艦長が命じた。

「機関停止」

 アトリスに向き直った。

「爆雷がすべて爆発して、駆逐艦がソナーでスキャンするまで三分もありません。そうしたらまた同じ事の繰り返しになります。手短にお願いします」

「ドイツ軍に対して、偽の緊急指令を出して、この海域から去らせるのです」

「どうして相手はそれを本当の命令だと思うのです?」

 アトリスはびしょ濡れのテーブルの上を近くにあった雑巾で拭いて、ルネのノートを置いた。

「夫のルネの理論を逆用します。夫の理論は解読のためのものですが、これに利用して偽の命令文をエニグマ暗号に書き換えます。ドイツ軍はこちらがエニグマを解読できるとは知りません。ですからエニグマ暗号で命令を受ければ、それを本当の命令だと信じます」

「少しでも変換にミスが出ると元の平文(暗号化される前の文)がおかしくなり偽の命令だと発覚しますよ。大丈夫ですか?」

「ルネの建てた理論は、まだ検証ができていません。そう言う意味で、これは賭けです。

 しかし、魚雷もない今、こうして狩り立てられ続ければ、いつかは終わりが来るのではないですか。わたしはルネを信じます」

 艦長はしばらく考えた。やがて口を開いた。

「無線を出す為には潜望鏡深度の40フィート(12メートル)まで浮上しなければなりません。この局面で潜望鏡深度まで浮上するということは自殺行為に等しい。爆雷どころか、艦砲射撃を受ける恐れがある。

 一方で、反撃手段がない以上、このまま深度をごまかしながら爆雷から逃げ回っても、いつかはやられる。もうすでに上の駆逐艦は近くの僚艦に応援を要請しているだろうから、それが合流するといよいよおしまいだ」

 彼はチーフの目を見た。チーフもこのままではじり貧でいつかは撃沈されると思っているようだ。

「よし。やろう」艦長は言った。

 アトリスが、

「ドイツ語はわたしができます。艦長、命令文を作っていただけますか」

 艦長はしばらく上を向いて考えた。

「そうですね。


 ――総統より直接指令


 偵察部隊より、北緯○○西経××において三隊に別れた輸送船団を発見したという情報が入った

 合わせると五十隻以上の輸送船になる。これは連合国側の補給船団である。

 イギリス・アイルランド南部海域並びに北アフリカ西部海域に展開中の艦艇・潜水艦は現在行っている作戦行動の一切をただちに中止し、当該海域に向かい、同船団を殲滅することとする。

 連合国側が、わが軍による同船団の発見を知ったとする別情報もあるため、この件に関する無線問い合わせは固く禁じる。

 これは総統からの直接指令であることを留意すること――


これで行きましょう」

「わかりました」

 アトリスはこれをドイツ語に訳し、ルネのノートに従って、暗号化していった。

 艦長は自室に戻り、極秘文書である、ドイツ海軍が使用している無線周波数表を持ってきた。各国に散った連合国側の諜報部員の努力の賜である。

 チーフが「そろそろピンが来そうです」と言った。

 案の定、ピンの発信音が小さく聞こえ、しばらくたってから艦内にピンが反響した。これで駆逐艦はいつの間にかS47が4000フィート前方に離れていることを知った。

「駆逐艦がエンジンを増速しました。こちらを追撃に入ります」とソナー員。

 艦長はマイクを手に取ると、

「機関室。機関始動、全速前進」と命じた。

「できました」アトリスが紙に書いたエニグマ暗号を艦長に渡した。どこがどうとは言えないが、確かに今まで何度か見たエニグマ暗号の雰囲気がある。問題はこれが通用するかだ。

 彼はそれを通信士に渡した。

 艦長は、狭い司令室内の面々を眺め回した。みな必死の形相をしていた。次に艦長が命じる浮上が、最後の浮上になるかもしれないのだ。だが、それぞれが、それぞれのやり方で覚悟を決めているようだった。

 彼は低いが力強く言った。

「メインタンク、全トリムタンク、ブロー、潜横蛇アップ。潜望鏡深度に着け」

 みな一斉にそれぞれの作業にかかり始めた。艦首が上がり、S47は海面に向け、浮上し始めた。

「左後方から駆逐艦。3000フィート(914メートル)に接近しました」とソナー員。

「現在深度100フィート」チーフが言った。

 いよいよだ。

「深度40フィート(12メートル)潜望鏡深度です」チーフが告げた。「タンクのブローバルブを閉鎖。潜横蛇水平。深度を固定する」

 艦長は潜望鏡を上げた。回転して後方を見る。駆逐艦が左斜め後方から迫ってくる。前方甲板の主砲が首を上げるのが見えた。

「通信士、暗号文を打電しろ!」彼は叫んだ。

 司令室の一角で通信士がエニグマ暗号文を打電し始めた。

「一巡目終わりました。二巡目に入ります」通信士が報告した。

 潜望鏡の中では主砲がこちらに旋回し始めている。これは間に合わないか。

 チーフがもどかしそうに尋ねた。

「どうですか、敵は違う動きを見せましたか」

「いや」

 通信士が「三巡目に入ります!」と叫んだ。

 チーフが言う。

「だめです。駆逐艦との距離は2000フィート(610メートル)を切りました。再び潜行しましょう!」

「……」艦長は潜望鏡に片目を当てたままにらみ続けている。

「艦長! 潜行です! 主砲を撃たれ始めたらおしまいです」

「いや、待て!」艦長が叫んだ。

 後を追うようにレーダー員が「駆逐艦が進路を変えました! 増速しています。全速のようです」

 艦長も叫んだ。

「舵を切っている。西へ舵を切っているぞ!」

 アトリスが手の甲で目を拭った。涙ぐんでいた。(ルネ、あなたの理論は正しかったのよ)

 いまや駆逐艦は遠ざかりつつあった。偽の命令に騙されたのだ。

 念のため、同じ深度で三十分待った。駆逐艦の新たな進路に変わりはなかった。

 艦長はマイクを取り、

「これより海上にでる。機関室、動力をディーゼルに切り替えろ。各区、吸気口を開いて換気を行え」

 振り向いて、

「メインタンク、ブロー。浮上する」

 彼は潜望鏡を下ろした。

 はしごを登りハッチを開けた。外の風が入ってくる。

 アトリスはいつの間にかアネットが横に来て腰の辺りに抱きついていることに気づいた。

「アネット、お父さんが救ってくれたのよ」アトリスはそう言って、アネットの肩を強く引き寄せた。

「ファルコ夫人、アネット、一緒に艦橋の上に出ましょう」

 二人は艦長に誘われるままに洋上に上がった。

 風が気持ちよかった。

「あ、また煙!」アネットが水平線の一箇所を指さした。駆逐艦が煙突から煙を吐きながら海原の向こうに消えていこうとしている。

「そうだ。でも、今度は近づいてくるんじゃなくて遠くへ行くんだ。きみのお父さんのおかげだよ。

 だから近道もできそうだよ」

 そう言って彼は、伝声管に叫んだ。

「進路を2-0-0に取れ。目的地をイギリスのプリマスに変更する」

「アイ・サー!」

 がなり立てるような司令室の乗組員たちの声が聞こえてきた。

 アトリスは目を閉じた。あの、フランスでの逃亡中ですら、一心不乱にノートに数式を書き続けた少し背の丸い夫の姿が浮かんできた。

 別れ際の、ユタカの「かならずファルコのノートを活かしてくれ!」という叫びも聞こえてきた。

 いまこうして生きていることが、彼らへの報いなのだと、強く感じた。

 


    (了)


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