第5話 朝桐護斗
翌朝の枸櫞は、まだ引っ越しの段ボールもろくに片付いていない社宅奥の暗がりへ声をかけた。
「いってきます……、父さん」
返事は、ない。
*
予鈴がなる前、別のクラスからヘンな奴がやってきて、絡んできた。
「お前が、天充枸櫞だったか?」
「初対面の人間にお前呼ばわりされる趣味はないですかね。
名乗っていただいても?」
「朝桐護斗」
「――」
「なんだその顔は?」
いや、失礼か実直かどっちかにしてくださいませんかね。
そんなひとの席前で両腕組んで仁王立ちとか、クラスメイト達に何事かと思われるじゃあありませんか。
「いいか、そらみつ――なんかもっと呼びやすい名前にならんの?」
「それはなんに対するクレーム?」
「じゃあ柑橘類と呼ぶことにする、よぉ、柑橘」
勝手にあだ名をつけられた挙句、略された。
いま教室の端で何人か噴き出しているんだが、あとで覚えとけよお前ら。
「……人の名前を早速いじるとはいい度胸だなぁあんた、尻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯がたがた言わせたろうかぁン?」
「ほぉいい啖呵切れるじゃん、俺はそういうの好きだぜ、カンキツ」
(どうしよう、俺こいつのことすげぇ苦手だ)
取り敢えず関西人テンプレエミュで乗り切ったが、そうまであたりが強い理由は聞いておかなければなるまい。
「要件は、なんです?」
「釣れねぇな。ま、同じ共鳴者のよしみで忠告しといてやるよ」
「!」
そうだ、昨日の今日だったから名前だけは憶えがある。
囲んでいた鮫人に誰が乗ってたか聞いたとき、五号機だったかのがそういう名前だった。
「……お嬢に迷惑かけたら、俺がお前を殺す」
「おー、こわ。
美岬さんのこと?」
「お前ごときがお嬢を名前で呼べると思うな!」
「躾のなっていない狂犬だな。
それこそ美岬さんの品位を汚すことじゃないの。
あのひとが俺を脅してくるようにわざわざきみを嗾けたわけ、回りくどいことするんだね?」
「そんなわけないだろう!?」
(マジで反証可能性とか頭になさそうなやつ、めんどくさい。
いやこの場合は、自分の行動がもたらす影響をわかっていないだけなんだけど)
「じゃあ美岬嬢の犬、ご主人に伝言頼んでいいかな。
あとで本人に一言一句確認するから。
そうさな、『手駒にはもうちょっと、マシな奴を使ったほうがいいよ』……うん、以上」
「っ、覚えてろよ、お前!?」
(なんだこの三文芝居――)
あっさりと護斗を追い返した枸櫞のところに、男子生徒たちがやってくる。
「すげぇな、天充くん。
あいつ昔から情緒がおかしいとこあって。
あの威圧に怯まないなんて」
「なに、虚勢だよ。
実際腕力でかかられたら、僕なんて即ばたんきゅーだし。
とはいえ、ここだってそんなに治安は悪かないんでしょう?
あいつ、泉客さんのこと好きなんかな」
「どうだか。昔っから距離の近いふたりには、違いないけど」
「ふぅん……」
*
同日の夕刻。
浜辺で、水に濡れた裸の童女が打ち上げられていた。
地元の老婆がそれを見つけ、急ぎ介抱をはじめる。
*
ただいまと呟く自分の声は、ひどく空虚だった。
まだ父さんはいるはずなのに、あのひとは生きたままに死んでいるようなものだ。愛娘の死とともに意気消沈してしまい、引っ越しの手続きは僕が自分で調べて、金に関すること以外の多くをやるしかなかった。
姉さんの部屋や私物の多くは処分するしかなかったし、まぁそれでもどうしてもというものは賃貸倉庫に置いてきて、しばらく。
いずれは戻って都内へ取りに行くつもりだった――殆ど、芸能活動に関するものだ。
「――」
(今日は一日、家にいるって……)
部屋は暗すぎて、静かすぎた。
父の寝室はかび臭い、が、一応戸を叩いて中に入る。
一番いやな予感が、当たってしまったらしい。
それは天井にかかった首紐にぶら下がる、ただの肉塊だ。
椅子が倒れているということは、それを用いたんだろう。
「結局逃げちゃったのね、この人は。
……あーあ、もうちょっと遊べるかと思ってたんだけど」
暗がりの部屋を見上げる枸櫞には、《《おもちゃをひとつ失った》》、程度の薄い感慨しか湧いてこなかった。
*
「先生、天充くんはどうしたんですか?
今日ずっといないですけど」
「あぁ美岬さん、さっき連絡が入りましてね、忌引だそうですよ」
「それって」「……ここだけの話にしといてくださいね」
廊下で周囲にほかの生徒がいないのを確認し、最近編入してきたばかりの少年と懇意にしている理事長の娘へ、情報を融通する耳打ち。
「彼の、お父様です」「!」




