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【証拠はいらない】居場所は、仕事じゃなかった

作者: Wataru
掲載日:2026/01/25

依頼人は、六十代の女性だった。


身なりはきちんとしている。

年季はあるが、だらしなさはない。

ただ、座ってからずっと、指先だけが忙しい。


「定年なんです」


「ご主人が?」


「いえ。私が」


小さく笑う。


「長いパートでしたけど」

「もう……ですよね」


「それで?」


「やめたい」


即答。


「でも、やめられない」


「金?」


「……はい」


視線が落ちる。


「年金じゃ不安で」

「貯金も、足りない気がして」


「実際は?」


「計算上は……大丈夫みたいです」


「“みたい”ね」


少し間。


「聞くぞ」

「明日、やめたら?」


「落ち着かないと思います」


「不安?」


「不安です」


「続けたら?」


「……疲れます」


「身体?」


「心」


俺は軽く頷いた。


「それでも、続ける理由は」


彼女は一拍置いた。


「主人も、定年で家にいるんです」


「ほう」


「朝からずっと」

「テレビ、新聞」


「嫌?」


「嫌じゃないです」


即答。


「でも」

「一緒にいると、息が詰まる」


「理由は」


彼女は、はっきり言った。


「言いたいことが、言えない」


「夫に?」


「はい」


「喧嘩したいわけでも」

「責めたいわけでもない」

「ただ――」


少し迷って、


「“今は一人でいたい”とか」

「“それは嫌だ”とか」


「言えない」


「言えません」


俺は肩をすくめた。


「で、仕事に行くと」


「はい」


「理由は」


「一緒にいなくて済むから」


静かになる。


「働いてれば」

「家にいなくていい理由がある」

「黙ってても、許される」


「なるほど」


俺は椅子にもたれた。


「それは、居場所じゃない」


彼女が顔を上げる。


「避難所だ」


しばらく沈黙。


「あんたは悪くない」

「壊れる前に逃げるのは、賢い」


彼女の肩が、少し下がる。


「でもな」


「……はい」


「逃げっぱなしは、つらくなる」


「じゃあ、どうすれば」


「減らせ」


「全部?」


「そんなこと誰も言ってない」


軽く笑う。


「一つでいい」

「飲み込まない言葉を、残せ」


「一つ……」


「“今は一人でいたい”」

「それで十分」


彼女は、長く息を吐いた。


「……証拠、いりませんでしたね」


「ああ」


「答えも?」


「最初から持ってた」


彼女は立ち上がる。


「まず、仕事を減らします」


「上出来だ」


「主人にも……言ってみます」


「それでいい」


ドアが閉まる。


相棒が言う。


「手厳しいのに、優しいわね」


「優しくするほど、長引くこともある」


静けさ。


仕事が好きだったんじゃない。

家から離れたかっただけだ。


気づいたなら、もう――

証拠はいらない。


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