第2話
トレーニングブースの壁に、半透明のゴブリンが再構築される。 推奨レベル1。大ダンジョン時代の恩恵を授かった健太たちなら、鼻歌交じりに一撃で霧散させる相手だ。だが、武器の補正も身体強化のスキルもない僕にとっては、その棍棒の一振りすら、文字通り命を刈り取る必殺の脅威となる。
(……見るんだ。よく見て、観察しろ。それしか道はないんだから)
僕はワイヤレスイヤホンの音量を一段階上げ、激しいビートで周囲の雑音を塗り潰した。 ゴブリンが低く唸り、地面を蹴る。格闘技の経験なんてない。ただ、僕は昔から「目」だけは良かった。いや、良いというより、時折世界が変な見え方をするのだ。
ゴブリンが棍棒を大きく振りかぶった瞬間、僕の視界が不自然に「揺らいだ」。 それは陽炎のようでいて、もっと幾何学的な、空間そのものが波打つような違和感だ。
(……いや、気のせいだ。集中しろ)
僕はその揺らぎを脳のノイズだと断じ、自分の勘だけを頼りに右へ跳んだ。 だが、現実は残酷だった。
「がはっ……!」
ゴブリンの棍棒が僕の左肩を浅く叩く。衝撃で視界が火花を散らし、床を転がった。魔力構成のダミーでなければ、今の一撃で鎖骨が砕けていただろう。 立ち上がろうとする僕に、二撃目が襲いかかる。 また、視界が揺らぐ。今度は右足の踏み込みに合わせて、地面に近い空間が歪んで見えた。
(そんなはず……またノイズだ……!)
僕は自分の常識に従い、正面からナイフを突き出そうとした。だが、ゴブリンの動きは僕の予測を上回っていた。強烈な体当たりを喰らい、僕は無様に壁まで吹き飛ばされる。
息が止まる。痛みが思考を白く染める中、僕は荒い息を吐きながら必死に記憶を辿った。 ――この感覚。この、正解を突きつけられているような奇妙な不快感。 そうだ。実生活でもあった。 中学の登校中、ふと電柱の影が揺らめいて見えたとき。僕はそれを無視して歩き、上から落ちてきた鳥の糞が制服を汚した。 大学の廊下で、角の空間が波打って見えたとき。僕は単なる目の疲れだと思い、曲がった瞬間に教授と正面衝突して盛大に書類を散らかした。 あれは偶然でも、目の錯覚でもなかった。 僕の脳は、ずっと前から「答え」を見ていたんだ。
「……あ、そうか」
不意に、すべてのピースが嵌まったような感覚がした。アハ体験――脳が快感とともに真実を理解する。 三度、ゴブリンが迫る。大きく振りかぶった棍棒。 今度は、迷わなかった。 視界の左端、空間がグニャリと歪む。 僕はそれを「避けるべき壁」として認識し、無意識に体が右斜め後ろへと滑り込んだ。 ブン、と。 鼻先数センチを、ゴブリンの全力を乗せた棍棒が通り過ぎる。
「……見えた」
確信があった。今の僕は、世界が次に何を起こそうとしているのかを、物理現象として「予見」している。 空振りの隙。僕は貸し出し用の訓練用ナイフを、ゴブリンの脇腹へと突き立てた。
ゴブリンは消えない。傷を負ったことでその目は血走り、さらに激昂して力任せに棍棒を振り回す。 だが、今の僕にとって、その暴風はもはや脅威ではなかった。 右肩が歪めば横薙ぎが来る。膝の周りが波打てば踏み込みが来る。 イヤホンから流れる重低音に合わせて、僕は舞うようにステップを踏む。 死への恐怖は消え、代わりに脳の奥が異常なほど冷えていく。 数分後。ゴブリンの首の付け根あたりに、今までで最も大きな「揺らぎ」が生じた。 それは歪みというより、空間に空いた「穴」のように見えた。 ――グシャリ。
訓練用ナイフの刃が、その「穴」――気の淀みを正確に貫いた。 瞬間、ゴブリンの動きが止まる。 ボロボロと粒子になって崩れ去る魔物の背中を見届け、僕はその場に膝をついた。
「……はは、一匹倒すのに、これかよ」 全身の毛穴から吹き出した汗で、Tシャツが肌に張り付いている。 スキルがあれば一瞬。けれど僕には、この泥臭い「観察」と、正体不明の「揺らぎ」しかない。 重い足取りで更衣室を出て、僕は夜の街へと踏み出した。この奇妙な感覚の正体を、どうしても確かめたかった。
向かったのは、大学近くの商店街の端に佇む古書店「一黙堂」だ。 ここは僕の聖域だ。ダンジョンが日常の一部になり、街中のディスプレイがドロップアイテムの相場を表示するようになっても、この店だけは紙の焼けた匂いと、静謐な時間が守られている。
カラン、と古びたドアベルが鳴る。
「こんばんは、おじさん」 「……ああ、泰聖か。また酷い顔をしておるな。まるでダンジョンに食われかけたような顔だ」
帳場に座った店主の老人が、老眼鏡の奥の目を細めた。 高校生の頃、創作活動の資料を探しに来て以来の付き合いだ。僕が「スキルなし」であることを知っても、この人は哀れむことも説教をすることもなく、ただ「そうか。なら茶でも飲め」と、いつも通りのぬるい茶を淹れてくれた。
「少し、新しい資料を。……最近はダンジョン関連の学術書も増えてるし、何か面白そうなものがあれば。小説のネタにでもなれば、と思って」 「ほう。それなら、ちょうどおあつらえ向きの代物が入ったぞ」
おじさんは帳場の足元から、埃を被った紐で厳重に縛られた一冊の和綴じ本を取り出した。 「お前さんが来ると思って取っておいた。ほら、表紙を見てみろ。お前さんの『趣味』にぴったりだろう」
手渡された本の表紙。煤けてはいるが、そこにははっきりと、力強い墨の跡が残っていた。
『蘆屋家秘伝・方術皆伝書』
指先に、痺れるような感覚が走った。 「……僕の、苗字だ」 「ああ。珍しい苗字だからな。偶然だろうが、何かの縁かもしれん」 「これ、どこで……?」 「さる旧家が取り壊される際に、蔵から出てきたそうだ。店に持ってきた奴は『ただの落書きだ』と言っておったが、中を覗くと術式だの文字だのがびっしりと書かれておる。現代の魔導工学とはまた違う、おどろおどろしい空気があったんでな、お前さんなら喜ぶと思ってな」
僕は震える指で、その頁を捲った。 瞬間、頭の奥で火花が散ったような衝撃が走る。
(これ……さっきの……)
そこには、現代のスキル理論とは全く異なる概念図が描かれていた。 万物に流れる「気」の循環。歪み。そして、それを修正、あるいは利用するための術式。 描かれた図説が示す「空間の淀み」は、僕がトレーニング場で見た、あの**「視界の揺らぎ」**と全く同じ形状、同じ性質を帯びていた。 僕は「運」が良かったのではない。 世界に満ちる「気」の乱れを、無意識に、ただ「見て」いただけだったのだ。
「おじさん……これ、いくら?」 「いいさ、出世払いだ。お前さんがいつか書く物語の、一助にでもなれば安いもんだ」
僕は本を抱きしめるようにして、店を出た。 夜風が冷たい。けれど、胸の奥だけがひどく熱かった。 スキルというシステムが定義する前の、もっと古く、もっと根源的な「理」。 蘆屋泰聖という「スキルなし」の透明人間に、初めて確かな色が宿り始めた。




