第九話 「煉獄の記憶」
シュッ、シュッ――
エドの影が亡霊のように要塞内を疾走していた。その顔からは、先程までのリサの部屋で見せた余裕は消え失せ、険しい緊張が張り詰めている。
「急がねば。薬の効果が切れる前に、いくつかの仕込みを済ませておかなければ!」
シュッ——!シュッ——!
階段を軽やかに跳び上っていくが、その焦りとは裏腹に、エドの身のこなしと呼吸は驚くほど平穏で、着地の音もごく微かだ。
「ちっ、遊びすぎたか。さっさとリサを始末すべきだった……くそ、間に合うか?」
エドは内心で自分を罵りながら、最速で城門上部の城壁へと駆け上がっていく。本人は遅れを気にしているが、実際にはわずか一、二分で、彼は目的地にたどり着いた。
「おや?」
見ると、城門の仕掛けを守る数名の衛兵が床に転がっていた。エドは彼女たちが倒れているのを確認すると、安堵したように手首をぶらぶらと振り、口の端が自然とつり上がった。
「運がいい……ここに誰もいなければ、他の衛兵を探す手間がかかるところだった」
エドは意識のない女衛兵の手首を掴むと、躊躇なく起動盤の魔法陣にそれを押し当てた。刹那、紫の光が魔法陣の中心から迸り、起動した魔導回路のように光の紋様が素早く駆け巡ると、やがて柔らかな緑色へと変化した。
ゴゴゴゴゴ……
魔力が流れる低い唸り声と共に、仕掛けが動き出す。エドはすぐさまレバーを掴み、両腕に力を込めた――
「ぐっ……!この仕掛け…一体いつから油を差してないんだ!」
歯を食いしばり、全体重をかけて押し込もうとするが、レバーはびくともせず、まるで彼の非力さを嘲笑っているかのようだ。足元の床が微かに震え、城門の向こう側で歯車が擦れる耳障りな金属音が響く。この装置が長い間使われていなかったことは明らかだった。
「動け……動けぇっ――!」
低く唸り、両足で地を踏みしめ、腰と背を弓なりに引き絞る。やがて、重々しい「ガコン!」という音と共に、ついにレバーがゆっくりと引き下げられた。城門の外の機械が作動を始め、鉄の鎖が巻き上げられ、巨大な門扉がゆっくりと上がっていく。パラパラと、積もった埃が舞い落ちた。
「ふぅ……やっと、終わったか」
エドは大きく息を吐き、ぱんぱんと手を叩いてから、額の汗を拭った。もう少し遅れていたら、本当に手遅れになるところだった――
「次は、狼煙台へ行って魔族の大軍に合図を送らないと……」
エドの影が数回跳躍し、城壁から隣の塔へと飛び移ると、真っ直ぐに狼煙台へと向かった。
彼は壁の松明を掴み取ると、高台の中央にある火鉢へと投げ入れる。乾いた薪が火を得て、瞬時に轟音と共に、灼熱の炎が燃え上がった。
だが、その熱波が顔に押し寄せた瞬間、エドの瞳からふっと焦点が消えた。炎が瞳の中で揺らめき、拡大し、周囲の全てが歪み始める……鉄錆と薪の燃える匂いが、記憶の奥底で、別の、より鼻を突く、血肉の焼ける匂いと重なり合った。
◇◆◇
「タリア姉さん……早く出てきてよ、僕を怖がらせないでよ!ううっ……」
幼いエドは必死に、すでに炎に飲み込まれた木造りの家へと走る。灼熱の空気が皮膚を焼くが、痛みは感じなかった。
ありったけの力で、崩れかけの木の扉を蹴破る。だが、彼が中に飛び込むよりも早く、火の粉を孕んだ濃密な黒煙が、悪龍の咆哮のように扉から噴き出した。
「うわああああっ――!」
視界は一瞬にして奪われ、灼熱の煙が肺を満たし、強烈な眩暈が彼を数歩よろめかせた後、その体は硬直して制御を失い、崩れるように倒れた。しばらくして、体の強張りがゆっくりと解けていくと、今度は引き裂くような咳が始まり、やがて苦い胃液を吐き出した。
燻されて真っ赤になった目をどうにかこじ開け、視界が再び焦点を結んだ時、彼が見たものは、生涯忘れることのできない煉獄だった。立ち上がろうとしても、四肢は地面に縫い付けられたかのよう。叫ぼうとしても、喉は灼けた煙に塞がれ、声一つ出せなかった。
身動きもできず、言葉も発せず。 ただなすすべもなく、あの家を、彼にとって最も大切な人を、村の全てを……燃え盛る炎の中で、黒く静かな灰へと変わっていくのを、見つめるしかなかった。
自分にできるのは、ただ苦悶の涙を流すことだけだった……。
◇◆◇
「……タリア姉さんっ!!!」
掠れた、ほとんど聞き取れない呻き声が、エドの唇から漏れた。
バキッ!――
頬に走る激痛に、彼ははっと我に返った。 いや、頬じゃない。
バキッ!バキッ!――
手だ。 意識が戻ると、自分が機械的に、全力で、右の拳を冷たい石壁に何度も叩きつけていることに気づいた。骨と壁がぶつかり、鈍い破砕音を立てる。彼がようやくその動きを止めた時、右手はすでに血塗れで、見るに堪えない有様だった。
「ちっ……」
エドは軽く唇を噛む。過去の記憶のせいで我を忘れ、気づかぬうちに自分でも理解し難い行動を取ってしまったことに、彼は苛立っているようだった。
ビリッ――
虚ろな目で、彼は汚れた麻の服の裾から、布を細長く引き裂いた。すぐに懐から小瓶を取り出し、栓を抜くと、中の薬粉を血塗れの右拳に叩きつけるように振りかける。薬粉が傷に触れ、ジュッと微かな音を立てたが、彼は眉一つ動かさず、ただその汚れた布で手際よく拳を包帯代わりにした。
包帯を巻いた手首を軽く回し、拳を握り、行動に支障がないことを確かめると、彼の視線は遠くへと向けられた――朝の光を浴びて、偽りの黄金の輝きを放つ、アタナディ家の屋敷へと。
その瞬間、先程まで記憶のせいで見え隠れしていた脆さや迷いの全てが、彼の鳶色の瞳から完全に消え去り、代わりに、氷で焼き入れしたかのような、揺るぎない殺意が宿った。
「アタナディ……」
その名を口にする様は、まるで一枚の死亡判決書に署名しているかのようだった。
次の瞬間、彼の姿は朝霧に溶け込み、要塞の城壁の上から消えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
エドの過去、そして、彼が背負うことになった憎悪の一端を、今回は描かせていただきました。
彼の復讐の旅路は、まだ始まったばかりです。
もし、彼の行く末を、最後まで見届けたいと少しでも思っていただけましたら、幸いです。
次回も、またお会いできることを願っています。