第六話 「最後の平穏」
太陽は既に完全に昇り、今、砕石の谷に佇むセリーヌは、静かにエドからの合図を待っていた。 谷間では、魔族の将兵たちが息を殺し、遠くに霞む要塞の輪郭を、さながら豹が獲物を狙うかのように睨みつけ、今か今かと待ち構えている。
セリーヌは深く息を吸い、先刻までの回想によってかき乱された心を無理やり押し殺す。その表情は厳粛なものに変わったが、内心は未だ、静かではなかった。
(エド・ウォーカー……。見たところ、ほんの十歳そこらの少年に過ぎない)
セリーヌは胸中で呟いた。あの子に対する複雑な感情が、再び込み上げてくる。
(幼い身でありながら、その手段はあまりに苛烈で、毒気に満ちている……。一体、あの子が今日のような人間になるまでに、何を経験してきたというのだろう?)
セリーヌの表情が、更に険しさを増す。思わず、舌打ちが漏れた。 彼の手段も、そして、その背景にあるであろう彼の過去も、そのどちらもが、彼女に得体の知れない動悸を覚えさせる。
(まったく、恐ろしい子だ!)
◇◆◇
その頃、要塞の反対側では、エドが高くそびえる城壁の胸壁に立っていた。 夜明け前の風が涼気を運び、彼の、疲労の色は濃いながらも、なお警戒を解いていない横顔を撫でていく。
彼は、眼下に広がる、次第に眠りから目覚めていくグランディの市街を見下ろしていた。市場の喧騒、石畳を軋ませる車輪の音、衛兵の交代時に響く金属の衝突音――それらの音は、彼の耳には不快な騒音へと歪み、まるでどこか遠くから聞こえてくる、忌まわしい羽音のようだった。
彼の口元が、まるで生者のものとは思えぬ笑みの形に、ぐにゃりと歪んだ。
「存分に味わうといい……。この、最後の平穏を」
その時、冷たい朝の風が、彼の意識を数時間前の、あの屈辱に満ちた瞬間へと、引き戻したかのようだった……。
◇◆◇
要塞内、リサの部屋。辺りは静かで豪奢なワインレッドに染まっている。微かな光の下、金の地模様が施された壁紙は絹のような光沢を放ち、分厚いベルベットのカーテンが外の朝日を完全に遮断し、室内に昏さと秘密の匂いを留めていた。
床柱、鏡の縁、テーブルの脚に施された緻密な金メッキの彫刻が、その昏さの中で微かな光を反射し、主の身分の高さを、控えめながらも雄弁に物語っていた。
「リサ様、この力加減は……ご満足いただけておりますでしょうか?」
一人の眉目秀麗な男の使用人が彼女の背後に跪き、細心の注意を払いながら、そのこめかみを揉んでいた。
リサは眉をきつく寄せ、二日酔いがもたらす頭痛に、ひどく苛立っていた。
「あんたの手は飾り物かい? 飯も食ってないなら厨房に失せな、あたしの時間を無駄にするんじゃないよ!」
男の使用人は彼女が怒り狂う様を見て、すぐさま頭を下げ、真摯な口調で言った。
「大変申し訳ございません、尊敬するリサ様」
男の使用人はびくりと一つ震えると、慌てて力を込めた。
「あっ……!」
リサは、まるで針で刺されたかのように、すぐさま苦痛の声を上げた。
パン――!
リサは憤然と立ち上がり、男の使用人の顔に、派手な音を立てて平手打ちを見舞った。
「この屑が! あたしを殺す気かい!」
男の使用人の顔は見る間に真っ白になり、すぐさま地面にひれ伏し、額を床に「ゴン、ゴン」と鈍い音を立てて打ち付けながら、支離滅裂に懇願した。
「申し訳ございません! 申し訳ございません、リサ様! この身は万死に値します!」
リサはしかし、一片の憐憫も見せず、金の刺繍が施されたフラットシューズで、彼の後頭部を容赦なく踏みつけ、繰り返しぐりぐりと碾りつけた。
「本当に、屑だね。要塞中の女という女に仕えてきて、どうしてまだ腕がこんなに悪いんだい。あんたみたいな役立たず、一体何のためにいるんだい!」
「誰か!」
彼女は鋭く叫んだ。二人の女兵士が、その声に応じて入ってくる。
「このゴミを地下牢へ引きずって行け。重刑に処しな!」リサは嫌悪に満ちた目で、地に跪く男の使用人を一瞥し、冷たく言った。
「おやめください!リサ様!」
男の使用人は「重刑」の二文字を聞くや、恐怖で正気を失い、なりふり構わず彼女の元へ這い寄り、機嫌を取るようにその靴の甲に口づけた。
「どうか、もう一度機会を……!何でも致します……」
「失せろ!」
リサはうんざりしたように、彼を蹴り飛ばした。男の使用人は女兵士たちに乱暴に引きずられ、その絶望の叫びは、次第に遠のいていった。
「役立たずの集まりが、あたしの気分を害するだけだ」リサは低く罵ると、部屋の中央へと向き直り、全体重をかけて、どさりと腰を下ろした。そして、そばにあった二日酔い覚ましの茶を一息に飲み干す。
不意に、彼女は尻の下の『椅子』が、ごく僅かに揺れるのを感じた。顔を顰めると、踵で容赦なく、後ろを蹴りつける。
「あんたも、あの屑と一緒になりたいのかい? この雑種が」
「うっ……!」抑えきれぬ苦悶の声が、その下から漏れた。まるで、自らの拒絶の意思を伝えようとしているかのようだ。
「ふん、聞き分けはいいようだね」リサの口調には、嗜虐的な残忍さが滲んでいた。
「なら、背筋を伸ばしな。あたしが立つまで、もう一声でも、ほんの僅かでも震えを感じさせたら……本物の『重刑』ってやつが、どういうものか、あんたの体で教えてやる」
その下の『椅子』は、すぐさま硬直して石のようになり、彼女の体重を必死に支えた。そして、この沈黙した、卑しい『椅子』こそ、他ならぬ、あの痩躯のエドだったのである。
「あたしの慈悲に感謝することだね」
リサの声には嘲りが混じっていた。
「あんたが割と聞き分けがいい方じゃなかったら、あの魔族の雑種を逃したってだけで……」
彼女の口元に冷たい笑みが浮かび、その瞳に嗜虐的な光がよぎる。そして、そのしなやかな両脚で、跪くエドの、固く強張った腿の筋肉の上へと、安定して、立った。
エドの体は激しく震えたが、彼は固く拳を握りしめ、爪が掌に食い込み、裂けるほどの痛みで、腿を苛む、気を失いかねないほどの拷問に対抗した。
リサはこの感覚を愉しんでいた――生きて、意志を持つ生き物が、己の足元で苦痛に身を震わせながらも、必死に崩壊しまいと虚勢を張る。
その極限下で抑えつけられた頑強さこそ、彼女にとって最上級の娯楽だった。彼女は軽く笑うと、少年の血肉を踏み台にして立ち上がり、まるで傑作でも鑑賞するかのように言った。
「ふん……」
彼女は満足げに鼻を鳴らすと、そのままエドの腿を踏み台にして立ち上がり、彼を見下ろしながら吟味するように言った。
「悪くない。あんたみたいな小僧は、あの屑どもよりよほど面白い」
頸椎と背中への圧力が不意に消え、新鮮な空気が肺腑へと流れ込み、エドの意識は一瞬、空白になった。
だが、生存本能が、彼を瞬時に覚醒させた。顔を上げ、その美しい顔に向け、素早く、そして正確に、崇拝と恍惚の入り混じった笑みを『作り上げる』。まるで先ほどの拷毒が、至上の恩寵であったかのように。
その表情は、明らかにリサを大いに喜ばせた。彼女はエドの体から降りると、その汗で湿った黒髪に、優しく指を通す。まるで、ようやく飼い慣らされた忠犬を労わるかのように。
エドは喉の奥から込み上げる吐き気を抑えつけ、極めて従順に顔を仰向け、自らその頬を彼女の手のひらに寄せた。まるで、飼い慣らされた、大人しいペットのように、そっと、すり寄せた。
「クスクス……」リサは銀の鈴を転がすような笑い声を上げ、エドの頬を摘まんだ。まるで、目新しい玩具でも弄ぶかのように。
「よしよし♥」
「ねえ、これからはあんた、あたしのペットになりなよ、この雑種が」
その美しい顔に浮かぶ、まるで私物でも見るかのような笑みは、エドの胃腑を掻き乱した。だが、彼は知っていた。僅かでも嫌悪の色を、たとえ一瞬でも口元を強張らせようものなら、取り返しのつかない結末を招くことを。
「それは、わたくしにとって……この生涯における、至高の栄誉にございます、リサ様。この身の全てを捧げ、生涯をかけて、お仕えいたします♥」
エドの声は「感激」に微かに震え、彼は地にひれ伏すと、宗教的な狂信にも似た仕草で、「ゴン!」と音を立て、その額を、リサの靴の爪先へと強く打ち付けた。
リサは、その卑屈の極みとも言える姿に、満足の頂点に達していた。彼女はクスクスと笑い、ゆっくりと足を上げると、そっと、エドの後頭部を踏みつけた。
それは一つの烙印。一つの宣言。そこにいる全ての者(そしてエド自身)に対する、無言の宣告――このモノは、内も外も、魂も肉体も、ただ私一人のものなのだと。
それは彼女の、主権!
◇◆◇
屈辱の記憶が、潮が引くように遠ざかっていく。
骨に纏わりつく疽のように、冷たく、深く刻まれた痕跡だけを残して。
エドは再び胸壁に身を寄せ、思考を明晰にしようと、ただ朝の風に吹かれていた。
遠く、アタナディ家の金鍍金の屋敷が、朝日に照らされて爛々(らんらん)と輝いている。それは偽りの聖光のように、胸糞が悪くなるほどに、眩しかった。
「アタナディ……」
獣のような低い唸り声が、彼の喉の奥から漏れた。爪がとっくに掌に食い込み、血を流しているというのに、痛みは感じない。
憎しみよりも、もっと濃密で、どろりとした何かが、胸の内で発酵していく。 それが、あの雨の夜の、炎の匂いを思い出させた。
炎の、匂い。
甲高い、悲鳴。
燃え盛る梁が、轟音と共に崩れ落ちる音。
そして、伸ばした己の手が――掴んだ、ただの灰。
エドは、血の滲む掌を、ゆっくりと開いた。 朝の風が、その肌から最後の温もりさえも奪い去っていくのを、ただ、感じていた。