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第六話 「最後の平穏」

太陽は既に完全に昇り、エドは高くそびえる城壁の胸壁に立っていた。夜明け前の風が涼気を運び、彼の、疲労の色は濃いながらも、なお警戒を解いていない横顔を撫でていく。


エドが高くそびえる城壁の胸壁に立っていた。 夜明け前の風が涼気を運び、彼の、疲労の色は濃いながらも、なお警戒を解いていない横顔を撫でていく。


彼は、眼下に広がる、次第に眠りから目覚めていくグランディの市街を見下ろしていた。市場の喧騒、石畳を軋ませる車輪の音、衛兵の交代時に響く金属の衝突音――


「存分に味わうといい……。この、最後の平穏を」


その時、冷たい朝の風が、彼の意識を数時間前の、あの屈辱に満ちた瞬間へと、引き戻したかのようだった……。


◇◆◇


パン――!

リサの平手が、一人の男の使用人の顔を打った。

「このゴミを地下牢へ引きずって行け。重刑に処しな!」

男の絶望の叫びが遠ざかっていく中、リサは部屋の中央へと向き直り、全体重をかけて、どさりと腰を下ろした。


不意に、彼女は尻の下の『椅子』が、ごく僅かに揺れるのを感じた。顔を顰めると、踵で容赦なく、後ろを蹴りつける。

「あんたも、あの屑と一緒になりたいのかい? この雑種が」


「うっ……!」

抑えきれぬ苦悶の声が、その下から漏れた。

「ふん、聞き分けはいいようだね」

リサの口調には、嗜虐的な残忍さが滲んでいた。

「なら、背筋を伸ばしな。あたしが立つまで、もう一声でも震えを感じさせたら……本物の『重刑』ってやつがどういうものか、あんたの体で教えてやる」


その下の『椅子』は、すぐさま硬直して石のようになり、彼女の体重を必死に支えた。この沈黙した、卑しい『椅子』こそ、痩躯のエドだったのである。


「あたしの慈悲に感謝することだね」

リサの声には嘲りが混じっていた。

「あんたが聞き分けのいい方じゃなかったら、あの魔族の雑種を逃したってだけで……」


彼女の口元に冷たい笑みが浮かぶ。そして、そのしなやかな両脚で、跪くエドの、固く強張った腿の筋肉の上へと、安定して、立った。

エドの体は激しく震えたが、彼は固く拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、気を失いかねないほどの拷問に対抗した。


リサは、生きた人間が己の足元で苦痛に身を震わせながらも、必死に崩壊しまいとする、その極限の頑強さを愉しんでいた。彼女は満足げに鼻を鳴らすと、そのままエドの腿を踏み台にして立ち上がり、彼を見下ろした。

「悪くない。あんたみたいな小僧は、あの屑どもよりよほど面白い」


頸椎と背中への圧力が不意に消え、エドの意識は一瞬、空白になった。だが、生存本能が、彼を瞬時に覚醒させる。顔を上げ、リサの美しい顔に向け、素早く、そして正確に、崇拝と恍惚の入り混じった笑みを『作り上げた』。


その表情は、明らかにリサを喜ばせた。彼女はエドの体から降りると、その汗で湿った黒髪に、優しく指を通す。

「よしよし ねぇ、これからはあんた、あたしのペットになりなよ」


エドは喉の奥から込み上げる吐き気を抑えつけ、極めて従順に顔を仰向け、自らその頬を彼女の手のひらに寄せた。

「それは、わたくしにとって……至高の栄誉にございます、リサ様」


彼の「感激」に震える声を聞き、リサは満足の頂点に達していた。

彼女はクスクスと笑い、ゆっくりと足を上げると、そっと、エドの後頭部を踏みつけた。

それは一つの烙印。主権の宣言。

このモノは、魂も肉体も、ただ私一人のものなのだと。


◇◆◇


屈辱の記憶が、潮が引くように遠ざかっていく。骨に纏わりつく疽のように、冷たく、深い痕跡だけを残して。


エドは再び胸壁に身を寄せていた。

「アタナディ……」

獣のような低い唸り声が、彼の喉の奥から漏れた。爪がとっくに掌に食い込み、血を流しているというのに、痛みは感じない。


憎しみよりも、もっと濃密で、どろりとした何かが、胸の内で発酵していく。

それが、あの雨の夜の、炎の匂いを思い出させた。


甲高い、悲鳴。

燃え盛る梁が、轟音と共に崩れ落ちる音。

そして、伸ばした己の手が――掴んだ、ただの灰。


エドは、血の滲む掌を、ゆっくりと開いた。

朝の風が、その肌から最後の温もりさえも奪い去っていく。彼の口元が、まるで生者のものとは思えぬ笑みの形に、ぐにゃりと歪んだ。


「存分に味わうといい……この、最後の平穏を」


彼は懐から狼煙の筒を取り出すと、静かに火を灯した。


一筋の黒い煙が、空高く、昇っていく。

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