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第五話 「統帥セリーヌ」

朝霧が、分厚くも沈黙した灰色の毛布のように、砕石の谷の隅々まで満たしていた。


セリーヌは、とある石塊の上に静かに立っていた。その身を包むのは、青と白を基調とした精巧な革鎧。墨のように黒い長髪は寸分の隙もなく後ろで結い上げられ、紺碧の瞳が、霧の向こうにあるルカドナ要塞を凝視している。


副官である妖狼族のカイエンが、音もなく彼女の傍らに立った。銀髪を高く束ね、狼の耳が微かに動く。その琥珀色の瞳には、主君への気遣いが滲んでいた。


「セリーヌ様、あまりお休みになられていないのではありませんか?」


カイエンの低い声が、彼女を深い思索から引き戻した。セリーヌは、無意識のうちに固く握りしめていた左手を、ゆっくりと開く。

――その掌には、四つの半月状の爪痕が痛々しく残っていた。


「……問題ない」


彼女は短く答え、眉尻についた湿りを払った。だが、掌の爪痕がもたらす鋭い痛みが、昨夜の激しい感情を鮮明に呼び覚ます。まるで、昨日のことのように……いや、つい先程のことのように。

あの、卓を叩きつけた、己の手の痛みと共に――


……


バン!――


「馬鹿な真似を!」


セリーヌの手の平が、力任せに卓の上を叩いた。薄荷茶の入った銀の杯が、甲高い音を立てて跳ねる。その涼やかな衝突音が、天幕の中に木霊した。 ジェイミーの体が、気付かれぬほど微かにこわばる。


「もっと早く……あの子の計画の全貌を知っていれば。独断で行動させるのではなかった」


やがて彼女はこめかみを揉むと、両手を背後で組み、もう一度、長く重い溜息を落とした。


「こうなると分かっていれば」

「いっそ兵を率いて正面から防衛線を突破させた方がマシだった。少なくとも、彼女たちを戦場で死なせてやれた。墓石に『薬で倒された愚か者』などと刻まれるより、よほど名誉なことだ! ……ああ」


彼女が、このような卑劣な手段を用いてこの戦争に勝利することを、決して是としないのは明らかだった。


「……統帥様、今は時間がありません。我々に、もはや選択の余地はないのです。エドの計画は、確かに本意ではありませんが、あるいは、我々が掴みうる唯一の勝機やもしれません……」


「唯一の、一縷の勝機だと?」


セリーヌの表情は険しく、ジェイミーを射抜く眼差しは、やはり刃のようだった。


「あの子は、我ら魔族の軍が、グランディの防衛線を突破できぬとでも思っているのか!?」


彼女はジェイミーの目の前に立ち、その口調には信条を貫こうとする一途さが宿っていた。


「先日の月蝕の夜、我らは僅か三小隊で、奴らの東部戦線を切り裂いてみせた……。」「もし、民間人の犠牲を考慮しなかったならば……! 我らが力尽くでこの要塞を攻略しなかったのは、ひとえに、無用な殺戮を望まなかったからに他ならない! 我らが求める勝利は、断じて武力で人を屈服させることではない! 我らが求めるのは民の心だ! 我らが望むのは、いつの日か、人が我ら魔族に対し、偏見を抱かなくなる世界なのだ!」


彼女はジェイミーを見つめた。その瞳の奥に、一瞬、失望の色がよぎる。


「……もういい」


セリーヌは、まるで全てを諦めたかのように手を振った。その声は、ひどく疲れていた。


「下がって、カイエンとフィリスを呼んでこい。私の天幕で軍議を開くと伝えろ……」


ジェイミーは命を受けると、セリーヌに一礼し、天幕を後にした。 後に残されたのはセリーヌただ一人。揺らめく燭台の炎の下で、彼女は胸中に渦巻く波と向き合いながら、再び、深い思索へと沈んでいった。

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