第五話 「総帥セリーヌ」
朝霧が、分厚くも沈黙した灰色の毛布のように、砕石の谷の隅々まで満たしていた。険しい絶壁と、岩肌の荒々しい石柱とを、その内に半ば隠すように。
ここは、地形が複雑で、至る所に危険が潜む天然の隘路だ。無数の鋭い石柱が、まるで巨獣の牙のように谷底から突き出し、互いに入り組んで、天然の迷宮を形作っている。切り立った岩壁には風化による亀裂が走り、脆くなった岩石が、今にも崩れ落ちそうだ。少しでも大きな音が反響しようものなら、致命的な落石を引き起こしかねない。
しかし、その進軍の痕跡を隠す必要のある魔族の大軍にとって、この危険な道こそが、ルカドナ城を奇襲するための、最も理想的な秘密の通路なのだった。
セリーヌは、とある石塊の上に静かに立っていた。その立ち姿は、大地に突き立てられた一本の投げ槍のように真っ直ぐで、力に満ちている。
墨のように黒い長髪は、寸分の隙もなく後ろで結い上げられ、滑らかなうなじを露わにしている。数本、言うことを聞かない後れ毛が、彼女の成熟して意志の強い顔立ちを、そっと撫でていた。 ――その紺碧の瞳には、幾多の風雪に耐え抜いた知性と、この瞬間に特有の重みが、共に宿っているかのようだった。
その身を包むのは、青と白を基調とした精巧な革鎧。無駄なく身体にフィットするよう裁断され、力強さと嫋やかさを両立させた女性的な身体の線を、美しく描き出している。肩には短い純白のマントを羽織り、腰には古い文様が刻まれた銀糸の幅広帯を締めている。膝上まである硬質なロングブーツが、力強い脹脛を包んでいた。 その金属製の留め具が、彼女の、ほとんど知覚できないほど無意識の、地面を軽く打つ仕草に合わせて、ちり、と微かでいて涼やかな音を立てる。
――それは焦燥ではない。むしろ、抑制された、いつでも爆発しかねない、ある種の律動に近かった。
現れたのは、彼女の副官であるカイエンだった。妖狼族である彼は、その中でも一際背が高く、全軍がその勇武を称える魔族の中にあっても、抜きん出た体躯を誇っていた。腰まで届く銀髪は、きっちりと高い位置で一つに束ねられ、頭上では毛並みの良い、直立した狼の耳が彼の動きに合わせて微かに揺れる。その顔立ちは精悍で、輪郭は彫りが深い。一対の琥珀色の瞳は澄み切って揺るぎなく、眉間には凛然たる正気が宿っており、伝説に謳われる高貴な古代の獣王を彷彿とさせた。
その身に纏うのは、軍制式である青と白の軽鎧。肩当てには、狼の頭を象ったトーテムの徽章が彫り込まれている。身体に合った甲冑は、彼の、しなやかで爆発的な力を秘めた体格を、完璧に浮かび上がらせていた。
彼はセリーヌの傍まで歩み寄る。その声は低く、落ち着いており、それでいて、注意深く耳を澄まさなければ分からないほどの気遣いが滲んでいた。
「総帥殿、あまりお休みになられていないのではありませんか?」
カイエンの低い声は、まるで朝霧の向こうから届いた問いかけのように、セリーヌを先刻までの深い思索から完全に引き戻した。彼女は、無意識のうちに固く握りしめていた左手を、ゆっくりと開く。――その掌には、四つの半月状の爪痕が痛々しく残り、白い肌にはその圧痕がくっきりと見て取れた。昨夜、エドがジェイミーに託した知らせは、今なお焼き印のように彼女の心を灼き、一晩中その眠りを妨げ、今この瞬間も、彼女の心を掻き乱していた。
「問題ない」
彼女は手を上げ、眉尻についた湿りを払う。その指先が革鎧の肩をそっと撫でると、精巧に鞣された革が、朝の光を受けて淡い光沢を放った。
セリーヌは再び、遠くで輪郭のぼやけた要塞を凝視し、無意識のうちに眉間に皺を寄せていた。昇り始めたばかりの朝日が、分厚い雲の層をどうにか突き破り、要塞の城壁へと降り注ぐ。その光は、城壁に並ぶ鋭利な金属製の杭に反射し、無数の小さな刃となって眼底に突き刺さるかのような、冷たく不吉な煌めきを放っていた。
彼女はそっと目を閉じる。濃いまつ毛が、蒼白な面差しに二筋の鮮明な影を落とした。喉の奥から、ほとんど聞き取れないほどの溜息が漏れる。それはまるで、心の底に鎮座する巨石が、ほんの僅かに身動ぎしたかのようだった。
――その姿は、カイエンの目に、数時間前の、天幕の中で揺らめいていた燭台の炎を思い出させた。
◇◆◇
豪雨に打たれる天幕の布地が、幽かな青い光沢を放っている。燭台の炎が狂風に煽られて激しく揺れ、天幕の内壁に落ち着きなく揺らぐ光と影を落としながら、セリーヌの、今まさに揺れ動いている胸中そのものを映し出しているかのようだった。彼女の翳りを帯びた瞳は、今この瞬間、果てしない夜の闇のように深く沈んでいた。
「つまり……あの子は」 セリーヌの声は、常よりも低く掠れており、そこには信じられないといった響きがあった。
「街の人間全てを地に這いつくばらせ、我らの為すがままにさせる、と……そう言うのか?」
ジェイミーは燭台の傍に立ち、跳る炎が彼女の固く引き結ばれた唇の線を照らすのを見つめながら、低い声で応えた。
「あれはただの麻痺薬だと。効果は三時間続く、と――」
バン!――
「馬鹿な真似を!」
セリーヌの手の平が、力任せに卓の上を叩いた。薄荷茶の入った銀の杯が、甲高い音を立てて跳ねる。その涼やかな衝突音が、天幕の中に木霊した。 ジェイミーの体が、気付かれぬほど微かにこわばる。
セリーヌは苛立たしげに天幕の中を行ったり来たりと歩き回り、その細りとした指を、まるでジェイミーを指差そうとするかのように上げたが、しかし、最終的には力なく下ろされた。彼女は重々しく息を吐くと、両手で額を押さえ、悔しげに独りごちた。
「もっと早く……あの子の計画の全貌を知っていれば。独断で行動させるのではなかった」
やがて彼女はこめかみを揉むと、両手を背後で組み、もう一度、長く重い溜息を落とした。
「こうなると分かっていれば」 セリーヌはかぶりを振った。その声には、エドのやり方に対する強烈な不満が滲んでいた。
「いっそ兵を率いて正面から防衛線を突破させた方がマシだった。少なくとも、彼女たちを戦場で死なせてやれた。墓石に『薬で倒された愚か者』などと刻まれるより、よほど名誉なことだ! ……ああ」
彼女が、このような卑劣な手段を用いてこの戦争に勝利することを、決して是としないのは明らかだった。
「ですが……」
ジェイミーが、何かを言い募ろうとする。
「だが、何だと言うのだ!」
セリーヌは、はっと振り返った。ジェイミーを射抜くその眼差しは、刃のように鋭い。彼女の信条は、決して揺らぐことがない。
ジェイミーはその鋭い視線に気圧され、声が僅かに震えた。
「……総帥殿、今は時間がありません。我々に、もはや選択の余地はないのです。エドの計画は、確かに本意ではありませんが、あるいは、我々が掴みうる唯一の勝機やもしれません……」
「唯一の、一縷の勝機だと?」
セリーヌの表情は険しく、ジェイミーを射抜く眼差しは、やはり刃のようだった。
「あの子は、我ら魔族の軍が、グランディの防衛線を突破できぬとでも思っているのか!?」
彼女はジェイミーの目の前に立ち、その口調には信条を貫こうとする一途さが宿っていた。
「先日の月蝕の夜、我らは僅か三小隊で、奴らの東部戦線を切り裂いてみせた……。もし、民間人の犠牲を考慮しなかったならば……! 我らが力尽くでこの要塞を攻略しなかったのは、ひとえに、無用な殺戮を望まなかったからに他ならない! 我らが求める勝利は、断じて武力で人を屈服させることではない! 我らが求めるのは民の心だ! 我らが望むのは、いつの日か、人が我ら魔族に対し、偏見を抱かなくなる世界なのだ!」
彼女はジェイミーを見つめた。その瞳の奥に、一瞬、失望の色がよぎる。
「……もういい」
セリーヌは、まるで全てを諦めたかのように手を振った。その声は、ひどく疲れていた。
「下がって、カイエンとフィリスを呼んでこい。私の天幕で軍議を開くと伝えろ……」
ジェイミーは命を受けると、セリーヌに一礼し、天幕を後にした。 後に残されたのはセリーヌただ一人。揺らめく燭台の炎の下で、彼女は胸中に渦巻く波と向き合いながら、再び、深い思索へと沈んでいった。
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初投稿でドキドキしていましたが、読んでくださる方がいるだけで、本当に大きな力になります。
今夜19時には、さらに2話更新予定です。
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