第四話 「それぞれの道」
遠くで、要塞の城壁の輪郭が、濃い夜霧に呑み込まれつつあった。澄み渡っていた月光もその夜霧に遮られ、空からは低い雷鳴が轟いてくる。
「ちっ、雨が降るな」
ジェイミーは黒々とした夜雲を見上げた。彼の金色の縦長の瞳が、薄暗い光の中で微かに収縮する。遠くで、渦巻く雷雲が見て取れた。
湿り気を帯びた冷たい空気には、間もなく降り出すであろう豪雨の濃密な気配が既に嗅ぎ取れた。風が地面の落ち葉を巻き上げ、沙々と警告のような音を立てる。 エドは彼の背後に、淡々とした様子で佇んでいた。まるで、これから訪れる嵐など意に介していないかのように。彼は夜空を一瞥すると、言った。
「豪雨が本格的に降り出し、巡回兵が異常に気付く前に、要塞へ飛んで戻るぞ」
ジェイミーの口元がひくついた。頭上の角の鱗が、苛立ちに僅かに逆立つ。
「けっ……本当に、人使いが荒いやつだ! こんな天気で飛ぶなんて、冗談じゃないぞ!」だが、文句とは裏腹に、彼は蝙蝠のような翼を勢いよく広げると、エドの後ろ襟を乱暴に引っ掴んだ。
「しっかり掴まってろ! 落ちても知らないからな!」
バサッ――!
両翼が空を打ち、二人は一筋の黒い稲妻となって、再び要塞へと目掛けて飛翔した。
強烈な夜風が耳元で猛り狂う。ジェイミーの翼が低空を滑り、暗紫色の残像を描く。その速度は、空気が甲高い悲鳴を上げるほどだ。
苛烈な逆風が、飛行を酷く困難にしていた。エドは、絶えず変化する気流の中で、自分の体が弓弦のように張り詰めていくのを感じていた。 二人は雨の幕を突き抜ける。遠くの雷雲はますます低く垂れ込め、稲妻が雲間を走り抜ける様は、まるで怒り狂う銀の蛇の群れのようだ。雨粒が、ぽつり、ぽつりと落ち始め、ジェイミーの翼に当たっては、パチパチと細かな音を立てた。
「もっと速度を上げろ!」
風雨の中にあっても、エドの声は変わらず冷静だった。
「黙れ! 俺様はてめえの乗り物じゃねえんだよ!」
ジェイミーは怒鳴り返すが、翼を扇ぐ頻度は更に増し、その筋肉は固く強張る。翼の縁は、高速の摩擦によって微かな赤い光さえ帯び始めていた。
要塞の輪郭が雨の幕の向こうに見え隠れし、城壁の松明が風に煽られ、衛兵たちの人影は滲んで定かではない。
豪雨が、ついに織物のごとく空から降り注ぐ。エドとジェイミーは、城壁にある排水口の窪みに身を縮こませていた。冷たい水飛沫が、容赦なく二人に降りかかる。ジェイミーは翼についた雨水を振り払い、その鱗が薄闇の中でぬらりと光った。
「これから、どうする?」
ジェイミーは声を潜めた。隣に立つエドから、周囲の環境とは全く不釣り合いなほどの冷静さが発散されているのを感じる。
エドはすぐには答えなかった。その視線は雨の幕を抜け、まるで要塞の城壁そのものをも貫いて、遥か遠くを見据えているかのようだ。 「お前はまず、急ぎ戻ってセリーヌ様に報告しろ」 その声は驚くほど平坦で、一言一句が風雨の中でもはっきりと聞き取れた。 「魔族の主力部隊に伝えろ。明日の早朝、ルカドナ城外十里にある【砕石の谷】の外縁に集結させろ、と」
ジェイミーの金色の縦長の瞳が、きらりと光った。【砕石の谷】は要塞に隣接し、地形が複雑で身を隠すには好都合な場所だ。エドがここを選んだ意図は、ジェイミーにも理解できた。だが、彼はなおも問いを重ねた。
「集結した後は? いつ総攻撃を仕掛けるか、どうやって判断する?」
「その心配は要らない」
エドは少し間を置いて、更に声を低めた。
「時が来れば、城壁の上にある狼煙台から、黒い煙が上がる。――それが、合図だ」
彼はジェイミーへと向き直った。その茶色の瞳が、暗闇の中で異様な光を宿して揺らめく。有無を言わせぬ決意が、その眼差しにはあった。
「黒煙が見えたら、直ちに全軍で圧をかけ、要塞の北側から攻撃を仕掛けろ。お前たちに残された時間は二十分だ。その時間内に、必ず要塞の外周防御を突破しろ」
ジェイミーは深呼吸をした。夜明けの光と狼煙台の黒煙が合図――これ以上なく明確だ。しかし、エドが自分を先に行かせ、彼一人がこの場に残るのだと思うと、どうしようもない不安が胸をよぎる。翼を広げようとした、その時、彼はどうしても抑えきれずに、その疑問を口にした。
「お前はどうするんだ、エド。俺を行かせた後、もしグランディの騎士どもが目を覚ましたら……お前はどうするつもりだ?」
エドは僅かに顔を上げた。雨水がその頬を洗い流していくのに、身を任せるように。彼の口元に、極めて淡い、それでいてどこか残酷な光を帯びた弧が浮かんだ。
「俺の心配はするな」
彼の声は、緊張の欠片も感じさせないほどに平坦だった。
「必ず、切り抜けてみせる」
彼はジェイミーを見据える。その眼光は、剃刀のように鋭い。
「お前の任務の方が、遥かに重要だ。合図を正確に伝え、そして、あの二十分という好機を絶対に掴め」
ジェイミーは、雨の幕の向こうに立つエドの背中を見つめた。華奢に見えるが、それでいて異常なほどに揺るぎないその背中を。 彼の胸中には、一言では言い表せない様々な感情が渦巻いていた。拭い去れない不安はまだ燻っている。だが、エドの、まるで骨の髄まで染み渡るかのような冷静さと自信が、ジェイミーに「信じる」という選択をさせた。 彼はもう、迷わなかった。翼を、勢いよく広げる。
「……気をつけろよ、エド」
その声は、風雨の中へと掻き消される。 ジェイミーは一つの黒い影と化し、天へと舞い上がると、あっという間に茫々(ぼうぼう)たる夜の闇へと姿を消した。
エドは一人、冷たい雨の中に佇んでいた。 ジェイミーが去っていった方角を、ただじっと凝視する。 それは、時間を計算しているようでもあり、あるいはただ、復讐前夜の雨と寒さを、静かに全身で感じ入っているようでもあった。 (第一章 第四節完)