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第二十一話 「憎悪の奔流」

スレイアはベッドで昏睡するファリナを見つめていた。その金色の瞳には、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいる。

(あの少年……狂気に満ちていた。だが、その叫び……『タリア姉さん』……まさか、ルーシーの……?)


スレイアは信じられないといった様子で呟く。彼女の視線がファリナから外れ、床に広がる巨大な血溜まりへと落ちた。その瞬間、極めて残酷で、そして大胆不敵な一つの推測が、稲妻となって彼女の脳を撃ち抜いた。


(コモフ侯爵は四年前、聖ポカドス山脈に駐留していた……あの事件の主犯格の一人! ならば、あの少年が次に狙うのは……事件の最高責任者であるはずの……!)


「アタナディ公爵邸は何処です!?」

彼女は勢いよく振り返り、部下の一人に鋭く問いただした。

「私たちの部隊は、そちらの封鎖に向かいましたか!?」

「王宮の北西方向にあります! ここから、直線距離でおよそ二十数キロかと!」

「二十数キロ……」

スレイアは頷くと、即座に命令を下した。

「ここを封鎖しなさい! 犯人の速度を考えれば、まだ公爵邸には到着していないはず――あたしの速さなら、追いつける!」


言い終わるが早いか、彼女は窓へと跳躍し、一筋の緋色の流光となって、空の彼方へと猛スピードで飛び去っていった。

緋色の流光が空を裂き、スレイアは最高速度でアタナディ公爵邸へと突き進んでいた。

だが、今この瞬間、彼女の胸中を渦巻いているのは、殺意ではなかった。それは、未だかつて経験したことのない、「葛藤」という名の混沌とした感情だった。


真実を知る前まで、事態は極めて単純なはずだった、と彼女は思う。


身の程知らずの凶賊が、魔族がルカドナを占領したこの機に乗じて事を起こし、大局を乱している。自分がすべきことは、事態が制御不能に陥る前に、そいつを捕らえ、審問し、処刑すること。見せしめとして、そして、魔族に殺戮の意思がないことを、人間どもに証明するために。


だが、今は……。

あの犯人は、その全ての所業は、復讐のためだったというのか……。

それも、自分がよく知る、あの無邪気で心優しい、一人の教え子のための、復讐……。


◇◆◇


小柄な、いつも自分より背の高い薬学書を抱えていた、あの後ろ姿が、何の脈絡もなく、彼女の脳裏に浮かび上がる。その子の、鈴を転がすような声が、今も耳に残っている。


「スレイア先生、見てください! 止血剤の処方を改良したんです。ちっとも痛くないんですよ〜」


「うわぁ……料理って、難しいですね……スレイア先生」


「先生、戦争が終わったら、私、人間の世界を見て回りたいんです。ずっと遠くの大陸には、薬を使わずにどんな病気でも治せる、不思議な医術があるんですって。ふふっ」


◇◆◇



無垢な笑顔、希望に満ちた言葉。


それらが今、毒を塗られた刃となって、スレイアの心を何度も、何度も突き刺す。


彼女は、胸が締め付けられるのを感じた。これまで彼女を支えてきた、氷のように冷たい殺意と決断力が、その温かな記憶を前に、ぐらりと揺らぐ。


自身の飛行速度が、知らず知らずのうちに、落ちてきていることさえ、彼女は気付かなかった。


(どうすればいいというの、この少年を……)


不意に訪れた葛藤が、スレイアの緋色の瞳を一瞬、彷徨わせる。


だが、その足がアタナディ公爵邸の前庭に広がる、血でぬるりと濡れた大理石を踏みしめた時、個人的な迷いは、地獄の如き光景によって、跡形もなく砕け散った。


庭には、数十の衛兵の死体が、無造作に折り重なり、散乱していた。どの傷口も、まるで外科手術のように正確無比だ。

スレイアの瞳孔が、きゅっと、針の先のように収縮する。

――手遅れ、か……。


◇◆◇


時を同じくして、公爵邸の最も奥。巨大なタペストリーが飾られた一室で、空気は、まるで固形物であるかのように張り詰めていた。


アタナディ公爵夫人が、見事な防御の構えで長剣を握り、背後の金髪の少年を固く守っている。

そして、その後ろでは――年の頃、十五、六といったところか、金髪の少年が――片膝をついていた。彼は、血が溢れ続ける太腿を必死に押さえ、前方を固唾を飲んで見据えている。


彼らの正面、エドは、陰と燭光の境界に立っていた。

彼は、血に濡れた短剣を、まるで弄ぶかのように指先でくるくると回している。

とうに元の色が分からなくなった彼の服は、幾重にも塗り重ねられた粘つく血液に覆われ、まるで、血で織り上げられた外套のようだった。

そして何より、見る者を慄然とさせたのは、彼の腰に吊るされた一連の「戦利品」――切り落とされて間もない、数多の生首が、彼の呼吸に合わせて、ゆらり、ゆらりと揺れていたことだ。


エドの視線が、眼前でなおも抵抗を続ける金髪の女戦士へと注がれる。紙やすりのように乾いた嗄れ声が、張り詰めた室内に響き渡った。

「流石は『グランデ帝国の戦乙女』、アタナディ公爵。四肢が麻痺しているというのに、これほどの力で立ち続けられるとは!」

アタナディは激しく肩で息をし、剣先は、意思とは無関係に震え続けている。


彼女は困難そうに顔を上げ、少年の腰に吊るされた、血滴る生首の束を見て、瞳孔をきつく収縮させた。

「貴様、一体何者だ!? よくも、この私の屋敷に押し入り、無辜の民を殺め、あまつさえ、この息子の命まで狙うとは!」


「無辜……を、殺める?」

その言葉を聞いた瞬間、エドの顔から、人間味のない氷のような冷たさが、ガラスのように砕け散った。代わりに現れたのは、より深く、より灼熱の、憎悪という名の闇だった。


水源に投げ込まれた、毒……。


杭に磔にされて、惨殺された、師匠の姿……。


炎に包まれた小屋の中で、もがき、泣き叫んでいた、タリア姉さんの声……。


一幕、また一幕と、地獄の光景が、赤熱した鉄印のように、彼の記憶の奥深くに焼き付けられていく。


「は……ぁ……」

声にならない吐息が、エドの唇から漏れた。

アタナディ公爵は、びくりと、全身を震わせた。眼前の少年から放たれる気配によって、この場の空気そのものが、粘性を帯び、焼け付くように熱くなったのを感じたからだ。それは、もはや単なる殺意ではない。魂ごと焼き尽くさんばかりの、純粋な憎悪の奔流だった。


その氷の如き双眸が、今や、二つの復讐の業火と化し、彼女の姿を、ただ、ひたと捉えていた。

少年は、短剣を握りしめ、一歩、また一歩と、ゆっくりと彼女へと近づいてくる。

歴戦の勇士、帝国の至宝と謳われた『戦乙女』が、生まれて初めて、魂の最奥から湧き上がるような、戦慄を覚えた。彼女の体は、本能に突き動かされるままに、無意識に、一歩、後ろへ退いていた。

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