第二十話 「魂の残響」
スレイアが物思いに沈んでいた、その時。部下の一人が、ためらいがちに彼女を呼んだ。
「スレイア様……」
「ん?」
我に返った彼女は、目で続きを促した。
「ファリナ侯爵夫人が、先程お目覚めになりました。現在は寝室にて、精神を落ち着かせております。ご主君であるコモフ様の死体は……まさしく、その寝室で発見されたものです。ただちに事情聴取を行いますか?」
その報告は、間違いなく、この膠着状態を打ち破る一条の光だった。 スレイアの、困惑に固く結ばれていた眉が、ようやく解ける。その緋色の瞳に、獲物の足跡を見つけた狩人のような、鋭い光が宿った。
「ええ、話を聞かせてもらいましょうか」
彼女の声は、簡潔で、迷いがなかった。
◇◆◇
ぎいぃ――
重厚な寝室の扉が、軋みを上げて開かれた。
真正面から鼻を突いたのは、窓が開け放たれているにもかかわらず、全く薄まることのない、吐き気を催すほど濃密な血の匂いだった。スレイアの視線が、床に広がる、既に黒褐色へと変色した巨大な血痕を冷ややかに一瞥する。そして、すぐに顔を上げ、大きなベッドの上、布団にくるまって、小刻みに震えている人影へと向けられた。
「ふん、みっともない……」
スレイアはゆっくりとベッドの傍らまで歩み寄り、そこで震える人影を見下ろす。その声には、隠す気もない侮蔑が満ちていた。
布団の中で身を縮こまらせ、白い髪は乱れているが、その皺一つない顔立ちは、あり得ないほどに美しい。七十を過ぎたというこの侯爵夫人の目尻に、歳月は、ごく微かな痕跡しか残せていないようだった。
「普段は民から富を搾り取り、君主の傍らで媚びへつらうことしか能のない小物が、いざ死体を前にして、そうなるのも無理はないか」
次の瞬間、スレイアは彼女の襟首を荒々しく掴み上げ、有無を言わせぬ気迫で、恐怖に怯えるその紫の瞳を睨み据え、低い声で言い放った。
「無駄話はそこまでにしろ。さっさと答えろ、誰の仕業だ!」
「わ……わたくしは……何も、何も存じません……! お願いです、殺さないで……!」
ファリナは完全に理性を失い、支離滅裂に泣き叫ぶばかりだった。
スレイアは「チッ」と一つ舌打ちした。
「時間の無駄ね」
彼女は尋問を早々に諦めた。この精神状態では、もはや道理の通った情報を引き出すことなど不可能だろう。
口が駄目なら、ならば――
彼女は、すらりとした人差し指と中指を揃え、その指先に、魂を覗き込むための蒼白い輝きを灯す。
そして、その指を、ファリナの眉間へと、そっと触れさせた。スレイアの金色の瞳が、一瞬にして深い紫色に覆われ、やがて、彼女は静かに目を閉じた……
◇◆◇
【ファリナ侯爵夫人の記憶】
視野は、霞み。意識は、沈んでいく。
寝室の扉がゆっくりと開かれ、泥に汚れた一足のブーツが、夫コモフの傍らで止まった。
「久しぶりだな……コモフ『閣下』」
少年の嗄れた声には、毒と憎悪が満ち満ちていた。彼はブーツの爪先で、侮辱するようにコモフの顔を蹴り上げる。
「まあ、あんたが俺のことを覚えているわけもねえか。だが……」
ドン!!
鈍器が、骨と肉を砕く、湿った破壊音を立てて炸裂した。
「——四年前! 聖·ポカドス山脈の麓で!」
ドン!!!
再びの一撃。生温かい血飛沫が、壁の豪華な金襴の壁紙に飛び散った。
「水源に毒を! 師匠を殺し!」
ドン!!!ドン!!!ドン!!!
少年の手にした鈍器が狂ったように、何度も、何度も、コモフの下半身へと叩きつけられる。
「――タリア姉さんを、汚しやがったなあッ!!」
少年は動きを止め、激しく息を切らしている。血飛沫を浴びたその顔で、しかし、その瞳だけは、地獄の業火のごとく、冷たく燃え上がっていた。
彼は足元で虫の息になっているコモフを見下ろし、歯を食いしばった。
「てめえみてえなクズには、勿体ねえ死に方だ……何の痛みも感じられずに死ねるなんざ、安すぎるぜ!」
彼は鈍器を仕舞うと、腰の鞘から短剣を引き抜き、一閃させた。一つの首が、絨毯の上を転がった。
◇◆◇
記憶の奔流が、堰を切られたように、止まった。
「はっ……はぁっ……はぁっ……」
スレイアは勢いよく目を見開き、その体は激しく震え、荒い呼吸を繰り返していた。まるで、あの死の淵の恐怖と絶望を、自らの身で追体験したかのように。冷たい汗が、とうに背中の法衣をぐっしょりと濡らしていた。




