第十四話 「善意の代償」
「慎重に……ゆっくりと下ろして差し上げなさい」
「はっ!」
ルカドナ城東部、広々とした公園が臨時の野戦病院と化していた。フィリスの空騎士団と斥候部隊が連携し、毒に蝕まれ動けなくなった民――とりわけ衰弱の激しい老人や女子供を、涼しい木陰へと運び込んでいるのだ。
空騎士の瞳に神秘的な白光が宿ると、念動の力が人々を羽毛のように軽々と持ち上げ、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと地面へ横たえていく。一方、小柄な斥候兵たちは、その小さな背に老人を負ってそっと下ろしたり、空騎士と協力して、人々が折り重ならぬよう丁寧に間隔を調整したりと、献身的に立ち働いていた。
「う……ぅ、ああ……」
苦悶の声に、一人の空騎士がはっと顔を上げた。彼女は運びかけていた人間をそっと地面に下ろすと、すぐ傍にいた斥候兵へ鋭く声を掛ける。
「そちらを頼みます! 様子を見てきますわ!」
「はっ!」
斥候兵が短く応じ、仲間と共に迅速に作業を引き継ぐ。その間に、空騎士の少女は一瞬で老婆の傍らへ駆け寄っていた。
老婆は真っ青な顔で、脂汗を絶え間なく浮かべている。少女は己の魔力を、祈るようにゆっくりと相手の体へ注ぎ込み始めた。
「しっかり……!気を確かに持つのです!あなたを待つご家族がいるのでしょう!」
その呼びかけに応えるかのように、枯れ木のような老婆の手が、少女の柔らかな手をかたく、かたく握り返した。必死に持ち堪えようとしている。だが、その呼吸は今にも消え入りそうに弱々しい。 その、時だった。
数条の、紅白を基調とした法衣の影が、音もなく公園に舞い降りる。先頭に立つ、アクアブルーの長髪の少女――アリシアが、苦しむ老婆の姿に眉を顰め、傍らの空騎士へ「ご苦労様、あとはお任せを」と力強く頷くと、 両の手のひらに神秘的なルーン文字を渦巻かせ、蒼い光を凝縮させる。
次の瞬間、彼女はその魔力を地面に叩きつけた。目映い光と共に、巨大な青い魔法陣『生命の泉』が瞬時に展開し、広大な公園のすべてを覆い尽くす。
陣の光が、万物を癒すように降り注ぐ。清冽で穏やかな力が空気に満ち、命そのもののような奔流となって、毒に苦しむ人々の体へと染み渡っていった。
「アリシア様……!」
空騎士の少女は、まるで救世主を見るような眼差しで援軍を見上げた。蒼月魔導団の到着に、張り詰めていた表情が、安堵の色にゆっくりとほどけていく。
アリシアの凛とした声が、公園の隅々まで響き渡った。
「全隊に通達! 第一次治癒として、神聖魔法による解毒を最優先! その後、回復魔法で生命力を安定させなさい! 急いで!」
「「「御意!」」」
統率の取れた唱和が響くと、魔導師たちは一斉に散開した。紅白の法衣が風に翻り、数名が一組となって、淀みなく各区画へと展開していく。彼女たちが詠唱を始めると、柔らかな治癒の光が次々と灯り、公園全体がまるで光の天蓋に覆われたかのようだった。
アリシアが展開した魔法陣――『生命の泉』が治療の基盤となって、衰弱した人々の体に穏やかな力が流れ込み続ける。その上で、魔導師たちが一人一人の毒を丁寧に浄化していくのだ。二重の治癒魔法によって、人々の苦悶の表情は見る見るうちに和らいでいった。
さほど時間を置かずして、あちこちで安堵のため息が聞こえ始め、固く閉じられていた瞼がゆっくりと開かれていく。
死の気配が満ちていた場所が、穏やかな生命力で満たされていく光景は、どこか神々しささえ感じさせた。
人々が意識を取り戻し始めると、魔導師たちは静かに後退し、公園を囲むように一定の距離を保った。その表情に油断はなく、ただ静かに、戸惑いながらも起き上がろうとする民を見守っている。それは、無用な混乱を避けるための、プロフェッショナルとしての配慮だった。
清泉のように柔らかで、それでいて有無を言わせぬ鎮静の力を持つアリシアの声が、人々の中に響いた。
「ご安心ください、皆さん。毒は既に浄化しましたが、体の機能が回復するにはまだ時間が必要です。どうか、無理をなさらず、今しばらくは静かに休んでいてください」
彼女は意識を取り戻した周囲の人々へ穏やかに頷きかける。そのアクアブルーの瞳には、純粋な善意が満ちていた。
「あ……あんたたちは……?」
一人の男が、どうにか半身を起こす。霞んでいた視界が徐々に焦点を結び、彼は目の前の「恩人」たちの姿をはっきりと捉えた――異形の色を持つ肌、額に突き出した角、そして、人間ならざる光を宿す瞳。
男の瞳孔が恐怖に収縮し、芽生えかけた感謝の念は、魂の根源から湧き上がるような畏怖に取って代わられた。
その反応は、静かな水面に投じられた一石のように、瞬く間に波紋を広げていった。
恐慌が、完全に臨界点を超えた。
「ま、魔族だと……!? 罠だ! 奴らの罠に違いない! 毒を盛ったのはこいつらだ!」
「助けてくれ! 伝説の通りだ、俺たちは喰われるんだ!」
絶望の叫びと悲鳴が木霊する。血筋に、物語に、幾百年という歳月に根差した偏見がもたらす恐怖が、人々を狂乱させる。
先程まで斥候兵に背負われて運ばれていた、 衛兵隊長だったと思しき老人が、剣の鞘を杖代わりに体を支え、顔を真っ赤に染めながら、ありったけの声で怒鳴りつけた。
「この化け物どもが……! 一体どんな妖術を使った! 我々をどうするつもりだ!」
敵意に満ちたその問いは、重い鉄槌となって、その場にいた魔族の兵士一人一人の胸を打ち据えた。死の淵から救い上げた結果が、感謝ではなく、化け物としての罵倒。
ある兵士は悔しそうに俯き、ある者は唇を強く噛み締め、顔を背ける。懸命の救助で疲労の色が滲んでいた兵士たちの顔に、今はもう、言葉にできぬ失望と、一筋の哀しみが浮かんでいるだけだった。




