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第二十八話 「送別の剣舞」

第二十八話 「送別の剣舞」


その日、セリーヌは既に蒼月魔導団の部隊を整え、密かに彼らを先にルカドナの郊外で待機させていた。


グロリアは、この恩人のために最も盛大な送別の儀式を執り行おうとしたが、セリーヌに笑って断られた。


「その必要はありません」

セリーヌの視線は、遥か彼方の地平線へと向けられていた。

「私が望むのは、次にこの地を踏む時、真に新生したグランディを見ることだけです」


その言葉を聞き、グロリアの瞳に決然とした光が宿った。彼女が手を差し出す。セリーヌもまた、その意を汲んで掌を上げた。



パチン!——一声の、乾いた掌を合わせる音。それは、二人の女性の間に交わされた、無言の誓約だった。


「ご安心ください、セリーヌ様。グランディは、決して、あなたの期待を裏切りません」


セリーヌが身を翻し去ろうとした、まさにその時。その歩みが不意に止まった。


「どうかなさいましたか?」


「いえ、何でもありません」


セリーヌは振り返る。その瞳には、どこか、容易には窺い知れぬ深意が、あった。彼女は、静かな口調で、こう、切り出した。


「ただ、発つ前に、この宮殿の裏庭へ、一度、行っておきたいのです」


「裏庭」という言葉を聞き、グロリアの顔に合点がいったような色がよぎった。彼女はただ、静かに頷いた。


◇◆◇


宮殿の裏庭は、今を盛りと、百花繚乱の季節だった。

色とりどりの花が咲き乱れ、空気には、甘美な芳香が満ち満ちて、心を解きほぐす。


セリーヌは、花咲く一本の木の下に静かに佇み、目の前の墓碑を、万感の思いで、見つめていた。


此度のグランディ帝国への、この、激動の旅路は、彼女に、あまりにも多くの、未だかつてない、骨身に染みるほどの、感慨をもたらした。忠誠の騎士、悔悟の女王、覚醒した民、全てを背負った公爵……そして、憎悪と苦痛を以て、その全てを、強引に、繋ぎ合わせた、あの少年。




「はぁ……」



セリーヌはそっと唇を開く。万の言葉が、ただ、その一声の、尽きせぬほど複雑な嘆息へと、変わっていった。


そよ風が吹き抜け、花びらが、雨のように、はらりはらりと、舞い落ちる。この美しい裏庭に、どこか、詩的な、寂寥を、添えていた。



「やっぱり、ここにいた」


どこか、悪戯っぽい、甘えるような響きを帯びた、語尾の上がった声がした。スレイアが、その、滝のように流れる髪を、指先で、優雅に弄びながら、金色の瞳で、物思いに耽るセリーヌの後ろ姿を、興味深そうに、見つめている。



「ふふっ」


セリーヌは、そっと、笑い声を漏らした。

「見つかってしまったわね」とでも、言うかのように。

「どうして……ここに?」


「あら?来ちゃ、いけなかったかしら?」

スレイアはこてんと首を傾げ、存分に、悪戯心を滲ませて、問い返した。


「もちろん、構わないわ」

「ただ、あなたが、『なぜ』、ここに来たのかと、聞いているの」


「もちろん、我らが統帥様の、その、感傷に浸るお姿を、拝みに来たのよ~あら、そうだわ!」

スレイアは、わざとらしく、ぽんと手を打ち、その顔には、隠す気もない、悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。


「今の貴方は、もう、統帥様では、なかったわね」


「……わざわざ、私を揶揄いに来たのでしょう」

セリーヌの口元に、どうしようもないといった風な、弧が描かれた。


「だって、背中の傷が、まだ、完治してないんですもの~」

スレイアは、さも、当たり前のように言った。


セリーヌは首を横に振る。その笑みには、いつもの、それでいて、どこか温かい、諦観が満ちていた。

彼女の視線は、再び、あの墓碑へと戻される。その下に、二つの、寄り添う魂が眠っていることを、彼女は知っていた。


そっと、顔を上げ、木の上から、ひらひらと舞い落ちる、白い花びらを見つめ、やがて、ゆっくりと、目を閉じる。腰の魔法のポーチから、透き通った、青い小瓶を、一つ、取り出した。瓶の中の液体は、どこか、優しい光を、微かに、放っている。



「ちょっと、出陣前の飲酒は、軍規違反でしょうに」

スレイアは、気だるそうに、そう、注意した。


セリーヌは、目を開けぬまま、平坦な口調で、問い返した。


「お尋ねしますわ、スレイア様。軍規によれば、出陣前の飲酒は、杖刑幾つに当たりますの?」


「軍規によれば、杖刑五十よ!」

滅多にない、セリーヌの弱みを握ったとばかりに、スレイアは、得意満面に、即答した。




「そうですか」


セリーヌはゆっくりと目を開く。その紺碧の瞳の奥に、悪戯っぽい笑みが、きらりと、光った。


「それなら、結構。あなたの、半分ですものね」



「ふんっ!」

スレイアは、不満げに、そっぽを向いた。その、桃色の長い髪が、彼女の動きに合わせて、宙に、可憐な弧を描いた。



セリーヌの指先が、そっと剣の柄を撫でた。その瞳は瞬時に全ての感情を収め、寒星の如き鋭さを帯びる。彼女はその佩剣を墓前の土へと深く突き立てると、身体を後ろへ反らし、その頭を柄頭の上へと預けた。


ポン――


彼女は優雅な仕草で青い小瓶の口を開け、その清冽にして芳醇な美酒を、一息に煽った。


その、洒脱でありながら儀式的な姿を見て、スレイアの口元に全てを理解したかのような笑みが微かに浮かんだ。彼女は、腰帯から一本の精巧な短笛を取り出し、そっと唇へと当てる。


裏庭に、ひらひらと舞い落ちる白い花びらと共に。悠揚として叙情的な笛の音が、スレイアの唇から溢れ出した。


その悠揚たる笛の音と共に。セリーヌの視線が、そっと剣の鞘へと注がれる。次の瞬間、その佩剣は、見えざる手に引かれたかのように、空を切る音と共に鞘から天へと舞い上がった。


セリーヌは舞い上がる佩剣を見つめ、その身は羽毛のように軽く爪先で地を蹴った。空中で、彼女は信じがたいほどの正確さでその長剣を掴み取る。身を一回転させ軽やかに地へと降り立つと、その剣の舞もまた、舞い落ちる花びらと一つに融け合っていった。


その剣の舞は、始め、ひどく、ひどく、悲しかった。

一振りごとに、キャロラインの、あの最後の安らかな微笑みが脳裏をよぎる。剣先は、まるで涙の雫のように、静かに、円を描いた。それは鎮魂の舞。


だが、笛の音が不意に甲高くなる! 剣勢もまた、それに呼応するかのように、烈しくなった!

民衆の怒号、エドの悲鸣、スレイアの暴走……激動の光景が、次から次へと脳裏で炸裂する。剣の光は嵐となり、怒り、戸惑い、そして、自らが下した、あの非情の決断の重みが、その一太刀一太刀に、込められていた。


やがて、笛の音は、再び、悠揚たるものへと戻った。

セリーヌの剣勢もまた、全ての激情を収め、穏やかで、しかし、揺るぎない力強さを取り戻す。民衆の和解の涙、女王の最後の懺悔、そして、自らが民に跪き、交わした、あの新しい未来への約束……。

剣の光と舞い散る花が、一枚の、この上なく美しい絵巻を織りなしていく。


セリーヌの視線が、再び、二つの魂が眠るあの木を優しく掠めた。その胸中では、優しさと揺るぎない意志とが絡み合い、一つの確固たる力へと変わっていった。

彼女が手首を軽く振るうと、銀光が一閃し、長剣が流星のようにその手から放たれた!

随即、彼女は優雅に身を翻し、その剣先が木の幹に触れるまさにその刹那、再びその柄をしかと握りしめる。剣先が樹皮の上を竜が飛び鳳凰が舞うが如く走り、やがて一行の敬意に満ちた大文字がその上に刻みつけられた。


『忠魂、その無二の友と、此処に眠る』



最後の一画を刻み終えた、その瞬間。彼女は、身を旋回させ、地へと降り立つ。長剣は、清らかな竜の鳴き声のような音を立て、正確に、鞘へと、収まった。

彼女はそっと目を閉じ、魔力を練り上げると、星々のような青い光が剣身から溢れ出した。蝉の羽のように薄く、それでいて何ものにも砕けぬ結界が、裏庭全体を俗世から完全に隔絶された、静謐にして神聖な安息の地へと変えた。


空に、雲を穿つほどの竜の鳴き声が響き渡った。一頭の巨大な双頭の竜が、その翼を広げ、裏庭へと静かに舞い降りた。


「セリーヌ様、スレイア様、ご出発のお時間ですわ!」

フィリスは、デストラゴンを駆り、笑いながら、二人に、手を振った。


スレイアは、軽やかに、一足飛びで、デストラゴンの背へと、穩やかに、乗り上げる。


「早くしなさいよ、セリーヌ!~」



セリーヌの視線は、深い敬意と、名残惜しさを帯びて、最後にもう一度、あの墓碑を、見つめた。随即、彼女もまた、一閃し、軽やかに、その背へと、舞い上がった。


デストラゴンは、天を衝くほどの、長嘯を一つ放つと、その巨大な翼を、力強く、一振りした。吹き荒れる風と、舞い散る花びらを巻き上げ、紺碧の空へと、駆け上っていった。



遥か彼方、宮殿の、最も高い場所で、グロリアは、独り、佇んでいた。彼女は、次第に、遠く、金色の光点へと変わっていく、あの後ろ姿を、凝視していた。その眼差しは、どこまでも、揺るぎなく、固まっていた。


「また、会おう、セリーヌ……!」


彼女は、低く、そう、呟いた。


「約束しよう。決して、あなたの期待は、裏切らないと!」

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