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第一話 「突然の静寂」

第一章 第一話 「突然の静寂」


要塞。本来は魔族を防ぐ最前線であるはずのその場所は、今や爛れた酒の匂いと耳障りな狂笑に満ちていた。


大広間では暖炉の火が燃え盛り、数名の酔いどれの顔を照らし出す。女騎士たちの鎧は半ば脱ぎ捨てられ、胸当てが無造作に転がる傍らで、露わになった絹の肌着には酒の染みと赤黒い血痕がこびりついていた。


「おい、この気色悪いチビを見な!」


短髪の女騎士マーガレットが、目の前の木製テーブルを蹴り倒す。そのまま鉄の鎖を掴んで引きずり出したのは、全身傷だらけの魔族の男だった。頭の一本角は折られ、暗紫色の肌は鞭の痕で埋め尽くされている。だが、その金色の縦長の瞳は、なおも彼女を真っ直ぐに見据えていた。


「まだ私を睨むか?」


マーガレットは口の端を吊り上げて笑うと、卓上の短剣をひったくり、男の肩口へと突き立てた。魔族の男は低く呻き、奥歯を強く噛みしめる。悲鳴だけは、断じて上げなかった。


「ハハハ! 骨のある奴じゃないか!」


もう一人の赤髪の女騎士、リサが酒杯を揺らしながら千鳥足で寄ってくる。そして、男の顔を遠慮なく踏みつけた。


「魔族の血って魔力を高めるんだろ? ちょっと血祭りにして試してみるかい?」


片隅では、数名の女兵士が若い魔族の少年を押さえつけていた。見たところ十二、三歳といったところで、その痩躯には鉄の鎖が食い込み、痛々しい血の痕が刻まれている。 一人の女魔術師が少年の顎を掴み、指先に電光を躍らせた。


「小僧、鳴いてみな。お姉さんの機嫌が良ければ、楽に殺してやるから」


少年は唇を固く噛みしめ、口の端から血を滲ませる。だが、その眼差しは毒刃のように鋭かった。


「ちっ、つまらないな」


女魔術師は舌打ちすると、指先の電光を消し、少年を無造作に突き飛ばした。石壁に強く叩きつけられた少年は、ごぼりと血を咳き込む。それでもなお、燃え盛る無言の怒りをその瞳に宿し、彼女を睨みつけていた。


「リサ、あの小僧、酒を取りに行ったきり戻ってこないじゃないか」


マーガレットが苛立たしげに床の捕虜を蹴りつけ、入り口の方へ目をやった。


「厨房なんて目と鼻の先だろうに。あの小僧、サボってるんじゃないだろうな?」


リサは冷笑を浮かべ、おぼつかない足取りで立ち上がる。


「私が見てきてやろう。もしグズグズしてるようなら、今夜は地下牢行きだ」


彼女は広間の脇扉へと大股で向かう。ブーツが酒の染みと砕けたガラスを踏みつけ、じゃり、と耳障りな音を立てた。


キィィ――


扉が乱暴に押し開けられ――


「ぐっ!」


扉は痩せた小さな人影に激突し、相手は呻き声を漏らして数歩よろめいた。


リサは眉をひそめ、足元を見下ろす。 そこにいたのは、十歳ほどの少年だった。乱れた黒髪。煤のついた顔。明らかにサイズの合っていない粗末な麻の服を身にまとい、袖口には油染みがこびりついている――一目で厨房の下働きをする賤民の子供だと分かった。


少年は俯いたまま、身体を小刻みに震わせている。腕の中の酒樽を固く抱きしめ、その指の関節は白く浮き出ていた。


「何をグズグズしてるんだい!?」


リサは少年の耳を力任せに引っ掴む。


「酒を持ってこいと言っただけだろう! まさか自分で造りに行ってたのかい!?」


少年は痛みに首をすくめ、蚊の鳴くような声で答える。


「す、すみません、旦那様……。あ、あまりにお腹が空いていたもので……厨房に残っていたパンを、ひ、一口……」


「この下衆が!」


リサは問答無用で平手打ちを食らわせた。少年の頬はみるみる赤く腫れ上がったが、それでも彼は酒樽を固く抱きしめ、決して手放そうとはしなかった。


「身の程を知りな! あたしの食い物を食らうなんざ、百年早いんだよ!」


傍らで見ていたマーガレットが、鼻で笑う。


「やめなよ、リサ。雑種相手にムキになったって仕方ないだろう」 彼女はそう言うと少年に歩み寄り、腕の中の酒樽をひったくる。


「酒が零れてなきゃ、それでいい。――失せろ。次に盗み食いでもしてみろ、今度こそ軍用犬の餌にしてやるからな!」


「は、はいっ!ありがとうございます、旦那様!」 少年はぺこぺこと頭を下げながら広間を退出していく。


そして、扉が閉まった、その瞬間。 猫背だった背筋がすっと伸び、目に宿っていた怯えは潮が引くように消え失せる。後に残ったのは――氷のように冷たい、嘲笑の光だけだった。


扉の向こうでは、女騎士たちの狂宴がまだ続いていた。


「おかわりだ! 我らが偉大なるグランディ帝国に乾杯!」


マーガレットが酒瓶を高く掲げると、エールが顎を伝って襟元へと流れ込んでいく。


「あの忌々しい魔族の雑種どもめ……ひっく……大したことなかったな!」


リサがテーブルに片足を乗せると、鎧がガシャガシャとけたたましい音を立てる。その顔は酒で真っ赤だ。


笑い声、杯を合わせる音、罵声。それらが暖炉の火が爆ぜる音と混じり合い、大広間を歪んだ喧騒で満たしていた。


――だがある瞬間を境に、その喧騒が緩慢になっていく。


「あれ……? この酒……後から、くる……?」


一人の女魔術師がぐらりと頭を揺らし、手から杯が滑り落ちた。


「おいおい、もう終わりかい?」


リサが嘲笑おうとした、その時。自分の舌が鉛のように重くなっていることに気づく。立ち上がろうとした膝は力を失い、床に強く打ち付けられた。


ドサッ!


一人、また一人と、鎧姿が刈り取られる麦のように倒れていく。ぐにゃりとした指から酒杯が転げ落ち、酒が絨毯に染み込んでいく中、くぐもった呻き声がいくつか響いた。


最後に、ごとりと鈍い音が一つ。


――そして、大広間は死の静寂に包まれた。




◇◆◇


そっと扉が開け放たれる。


少年は部屋に足を踏み入れ、その靴底で床の酒染みを踏み潰した。散乱する女騎士たちの無様な姿を見渡すと、彼の口の端は、ゆっくりと獰猛な弧を描いた。


「実に無様だな、〝旦那様方〟」


彼はリサの前まで歩み寄ると、その場にしゃがみ込む。彼女の髪を鷲掴みにし、無理やり顔を上げさせた。


――リサの瞳孔は焦点が合っておらず、口の端からは涎が垂れている。息遣いこそ荒いが、身じろぎ一つできない。


パァン!


痛烈な平手打ちが、リサの頬を打った。その衝撃に、彼女の頭が勢いよく横へと跳ねる。 「この雌豚が。――その一発、返させてもらったぞ」


少年は髪から手を放し、彼女が泥のように床へ崩れ落ちるに任せた。彼は身を翻すと、散乱した酒杯や鎧をガシャリと踏み越え、部屋の隅へ。


やがて、あの魔族の少年の前に立つと、ぴたりと足を止めた。


彼は足早に歩み寄ると、懐から取り出した細長い鉄串で、手早く手枷の錠を外した。


「作戦開始が予定より四分遅れだな、エドの坊主!」


魔族の少年は手首をさすりながら言った。声は少し掠れているが、不思議と落ち着いている。頭の角には新しい亀裂があり、暗紫色の肌は鞭の痕で覆われているというのに、その佇まいは鞘に収まったままの刀のようだ。


「厨房の巡回が一周多かった」エドは簡潔に答える。「お前がジェイミーか」


ジェイミーと呼ばれた少年は頷き、酔い潰れた女騎士たちを一瞥すると、にやりと笑って鋭い犬歯を覗かせた。


「随分と効き目の強い薬だな。発症した途端、あのグランディの騎士様方を一瞬で地に伏させるとは。――お前が作ったのか?」


エドは床に転がる人影に目をやり、淡々と告げた。


「地下牢に生えていたものと、厨房にあったものをいくつか調合しただけだ。効果は予想以上だったようだな」


それを聞いたジェイミーは、金色の縦長の瞳をわずかに細め、感心したように眉を上げた。


「大した奴だ。使えるものは何でも使う、か」


エドはもう何も言わず、自ら静かに扉を開けて用心深く周囲を窺う。ジェイミーは即座に状況を理解し、静かに彼の後に続いて部屋を後にした。


二人は道中、用心深く廊下を抜け、要塞の下層を目指した。足音を極力殺し、慎重に身を潜めながら進む。エドは常に警戒を怠らず、出くわす可能性のある巡回兵を避けていく。ジェイミーは彼の後ろに続き、体は満身創痍ながらも、その表情には一抹の緊張が浮かんでいた。


十分ほど進んだ頃だろうか、二人はようやく、地下へと続く狭い入り口にたどり着いた。


「あと十分で衛兵が交代する。急ぐぞ」


エドはジェイミーに目を向けた。その口調は有無を言わせない。ジェイミーも時間の切迫を理解し、こくりと力強く頷いた。


石造りの螺旋階段が、下へ下へと渦を巻いている。それはあたかも、巨大な蛇が地の底へと穿った薄暗い孔のようで、一人、身を横にしてようやく通れるほどの狭さだった。


下から絶えず吹き上げてくる冷たく湿った空気が、レンガの壁に凝結して細かい水滴となる。触れると、肌を刺すような冷たさだ。エドの吐く息は狭い空間で白く濁り、一瞬のうちに、長年積もった黴と湿った土の生臭さに呑み込まれて消えた。


エドは滑る壁に体を密着させ、ほとんど〝潜行〟と呼ぶべき動きで下っていく。その靴底は、音一つ立てず、突き出たレンガの縁を正確に捉えていた。


常人には気づきようもないそれらの足場は、無作為に選ばれたわけではない。三日前に彼が炭の灰で壁の隅に残しておいた印なのだ。――今やその痕跡も、湿気に滲んでぼんやりとした灰色の影と化している。


「ここの排水設備は長年放置されている」


エドは振り向きもせず、石の隙間から滲み出る水滴を指でなぞった。


「ここが唯一、魔法警戒がない入口だ」


彼は声を潜めて付け加える。


「いいか、左の壁には触るな。三番目のレンガ裏は警報ベルの紐に繋がっている」


角の向こうから、不意に足音が聞こえ、二人の動きがぴたりと止まる。


一人の酔いどれ女衛兵が、ズボンを引っ提げながら横道をふらふらと通り過ぎていく。口ずさむのは下品な小唄。その足元を汚水が流れ、嘔吐物の酸っぱい匂いが混じっていた。


ジェイミーの爪が、音もなく掌に食い込む。


「巡回の合間は二分」


足音が消えるのを待って、エドは突如ジェイミーの手首を掴むと、壁の亀裂へと押し付けた。


「飛び降りろ。井戸のある部屋に直通だ」


亀裂の下、三メートル先。錆び付いた鉄格子が、音もなく二本、切断されていた。二人は着地する。足の下は冷たいコンクリートの床だ。湿気は一層濃くなり、だだっ広い井戸の部屋に、ぽた、ぽたと水滴のしたたる音が微かに反響していた。


エドはそこで足を止めると、懐から革製の小瓶を取り出し、ジェイミーの手に押し付けた。彼は井戸の傍まで歩み寄ると、底の見えない、幽かに暗い水面を指差す。そして、声を極限まで潜めて言った


「これを、中に注げ」


ジェイミーの金色の縦長の瞳が、きゅ、と収縮した。彼は愕然として顔を上げる。


「要塞の人間を、全員毒殺する気か!?」

はじめまして、作者の[M—mao]です。

数ある作品の中から『復讐の英雄』を見つけてくださり、本当にありがとうございます!


もし、少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや↓の☆☆☆での評価をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


次回の更新は、今夜19時を予定しております。

どうぞ、よろしくお願いいたします!

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