第一幕3
翌朝、陽光が斜めに差し込む客間の床で、ソウシは無言で刀の手入れをしていた。油の香りと布が擦れる音が、静寂の中に淡く響く。
そこへ、ノックの音と共に扉が開いた。
「おはようございます、ソウシさん、。お早いですね」
「おはようございます、イサミさん。そうですか……私はこれが普通でしたので」
姿を見せたのはイサミ。制服のような深緑のローブに身を包み、肩にかかる亜麻色の髪が朝日を受けてふわりと光っている。
「そうなんですね。あの……準備はよろしいですか? そろそろ学院へ向かう時間です」
「分かりました。行きましょう」
ソウシは布をたたみ、静かに刀を鞘に収めて立ち上がった。
イサミの案内で玄関を抜けると、屋敷前には黒い御者付きの馬車が待っている。
ソウシは少し緊張した様子で乗り込み、イサミに習ってその隣に腰を下ろした。
車輪が石畳を叩いて走り出したころ、ソウシはふと昨夜のことを思い出していた――
× × ×
重厚な扉の奥、壁一面の書架と高窓に囲まれた書斎。
大理石の机の向こうで、ブレイヴハート辺境伯が書類を置き、視線を上げた。
「――で、イサミ。頼みというのは、彼の後見人になってほしいという話で間違いないのだな?」
ソウシは背筋を正し、浅く頭を下げる。
イサミが一歩前に進み出た。
「はい、お父様。ソウシさんは辺境の出身で、王都の制度にも言語にも不慣れです。けれど……私の命を救ってくださった方です」
辺境伯の眉がわずかに動いた。
「……あの魔獣騒ぎの恩人が彼というわけか」
「はい。あれほどの術の遣い手は、そうそう現れません。ルーヴェル・ウルフェン魔法学院で正式に学べれば、王国にとっても大きな力となるはずです」
イサミは敢えて剣術を術とだけ、称して父に伝えた。
辺境伯はソウシをじっと見つめたまま、しばし沈黙する。
そして、静かに口を開いた。
「ソウシ殿。私からも一言、礼を言わせていただこう。私の娘を――イサミを、守ってくれたこと。その行いは、何より重い」
真摯な声だった。軍人として、貴族としてではない――一人の父としての言葉だった。
「私にとって、イサミはたった一人の娘だ。もし、あの夜に何かが違っていれば、今ここに彼女は立っていなかったかもしれん。……ありがとう」
ソウシは一拍、静かに頭を下げる。
「……その言葉、過分に存じます。救えた命であったこと――私にとっても、何よりの報いでございます」
辺境伯は椅子に深くもたれ、指を組む。
書斎には静寂が満ち、油を差した時計の針が小さく音を刻む。
やがて、口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「……よかろう。娘の命を救ってくれた恩――それを返さずに済ますような真似を、ブレイヴハートの名において、私は決してせぬ。
田舎者であろうと、その腕が本物だとイサミが言うのならば、後見人の件、私が引き受けよう」
「恐れながら、私は……礼を求めて助けたわけではございません。ただ、助けるべき命を、助けたまでで――」
「……それ以上言うな」
辺境伯の声音に、重みが宿る。
「それが貴殿の矜持であろう。だがな、私にも――守るべき誇りがある。返すべき恩に背を向けることは、私の在り方には反するのだ」
ここまで言われたら断る理由はない。ソウシは目を伏せ、深く一礼し。
イサミの顔がぱっと明るくなる。
「……そのご厚意、ありがたくお受けいたします」
「ありがとうございます、お父様!」
× × ×
馬車が石畳を曲がり、王都の中心部へ向かって進んでいく。
遠くには、学院の尖塔が朝日に照らされて白く輝いている。
ソウシはその塔を見据えたまま、静かに息をついた。
この目で見る。斬るべきか、斬らずに済むのか――それは、まだ分からない。
だが、立ち止まっている暇はない。
こうして一緒に愛刀も世界を超えて、共にやってきたのだから。
ソウシは自然と、刀へと手をかけしっかりとその存在を確かめ。
隣でイサミが、どこか楽しげに彼を見つめていた。