第一幕2
午後の光が斜めに差し込む頃、イサミの案内でたどり着いたのは、丘の中腹に広がる白亜の屋敷だった。
王都アルステリア郊外、丘の上の貴族邸宅。
高い鉄柵に囲まれ、手入れの行き届いた庭には色とりどりの花々が咲き誇っている。中でも中央の桜に似た木が、ひときわ優雅な枝を広げていた。
「こちらが、私の家です」
「あの樹は……?」
懐かしさを感じる桜のような樹に、ソウシは思わず足を止めた。
「珍しいですよね。あの木はサクラといって、母が異国で見つけ植えたものなんです」
「桜、ですか……見事な庭でございます。花々も美しく、空気も澄んでいる」
ソウシはまるで屋敷を訪ねる道場生のように、正面でぴたりと立ち止まり、庭を一瞥したあと、丁重に一礼し、僅かに戸惑いを見せた。
造りは違えど、それが立派な屋敷であるということはソウシにも分かる。
「その、このようなお屋敷に、足を踏み入れてよろしいものでしょうか。私は、どこぞの者というわけでも……」
「構いませんよ。命を助けていただいたのは、事実ですから。それに、足を痛めておりますので、支えて頂いた方が助かります」
イサミはくすりと笑って足元を見せた。確かに、微かに引きずっていた。
「では……イサミ様、貴家へのご招待、まことに恐縮に存じます。門をくぐる前に、ひとつだけ。身なりの粗末をお詫び申し上げます」
ぼろついた羽織、土に汚れた袴。刀は帯に差したままで恐縮はしたものの……。
だが、その立ち居振る舞いには、一切の乱れがなかった。まるで刃が収まる鞘のような、静けさと気品をまとっていた。
「そんな……あなたは、私の命の恩人です。あなたが助けてくれたことを、心から感謝してるんですから」
イサミはそっとソウシを促し、玄関へと導いた。迎えに出た老執事が一瞬、ソウシを警戒するような眼差しを向けたが、イサミの「この方は恩人です。応接間をご用意して」との一言で、何も言わず深く頭を下げた。
屋敷内は静かで、豪奢で、それでいてどこか暖かい。
応接室に案内され、上質なソファに腰を下ろす。ふわりと香る紅茶と菓子が運ばれた。
「どうぞ、召し上がってください。ここのお茶は、結構評判なんですよ。王都の貴族たちにも人気らしくて」
「それは楽しみでございます」
ソウシは一口、湯気立つ紅茶を口に含んだ。
「……香り高く、やわらかな甘みがございますな。まるで春の朝霧のようです」
それを聞いたイサミは、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「そ、そんな風に言ってくれる人、初めてです……! なんだか詩人みたいですね、ソウシさんって」
「いえ、私はただ……思ったままを口にしただけで……」
言葉に照れはなく、静かな誠実さがあった。
しばしの休息ののち、イサミがふと立ち上がった。
「……ふふっ、あなたの口ぶり、どこか古風で丁寧ですね。改めて、自己紹介しますね。私はイサミ・ブレイヴハート。ルーヴェル・ウルフェン魔法学院の二年生です。父は辺境伯で、ここの領主をしています」
「辺境伯……領主ということは大名みたいなものか……」
辺境伯というのは、聞きなれない呼び名ではあったが、領主と言われれば何となくソウシにも想像がつく。
ありがとうございますと、深々と頭を垂れるイサミにソウシは軽く肩をすくめた。
「あの、それでソウシさん――あなたは魔導士でも、冒険者でもないのですよね? まさかあの程のお力を独学で……?」
少し身を乗り出すように問いかけてくる彼女に、ソウシは小さく笑った。
「独学じゃないさ。……ずっと、超えたい兄弟子や仲間が居たんだ。誰かに手取り足取り教わったわけではないが、彼らと切磋琢磨していたよ」
「つまり、高名な魔術師に指示されていたのでしょうか?」
その問いには、ソウシは少し考えてから、頭を横に振った。
「……いや、鬼みたいなとんでもない人だったよ。試衛館という道場で一緒に。でも、習ったというわけではなかったかな……しごかれていたわけだし……」
こうして誰かと話せるようになったおかげだろう。鮮明に、ソウシはがむしゃらに木刀を振るっていた少年時代を思い出した。
ソウシは少し目を細める。
──まだ背も低かった頃、試衛館の朝稽古は井戸水の洗礼から始まった。冬でも容赦なく、木刀を握る手がかじかむ中、声を張り上げて振り続けた。
畳の匂い、汗のにおい、仲間の笑い声。
叱咤する先輩たちの声に、ふざけたり茶化したりする共の声。皆で笑いながら倒れるまで稽古した。
それが、彼の原点。
「しえいかん……?」
イサミが聞き慣れぬ響きに反応し、復唱し。ソウシの思考は戻った。
「それは、どこの魔法学院ですか?」
ソウシは目を瞬かせた。
「魔法学院……では、ございません。剣を振るう者たちが、武を磨く場でした。魔法の“ま”の字もなかったと思います」
「じゃあ……あの森で、どうやってあんな魔物を倒せたの? 魔法も使っていなかったのに、あの身のこなしと一撃……」
「我が身一つで、刀を振るってきただけです」
「魔法なしで? 刀だけで?」
「はい」
「……」
イサミの顔から、次第に驚きが抜けなくなっていく。
椅子を少し引き寄せるようにして、ソウシの顔を覗き込む。
「あの、ソウシさん。では、その……この国の名前は、わかりますか?」
「国ですか? 大変申し訳ありませんが、存じません」
「じゃあ、この地方の名前、通貨、教会の戒律、歴史の大戦、三大魔導士の名前、それから……」
ソウシはひとつひとつ首を傾げたり、眉を下げたりして答える。
「……いずれも、聞いたことがございません」
「ソウシさん、まさか……本当に何も知らないんですか?」
イサミはついに絶句し。
ソウシは困ったように、けれど静かに頷いた。
「はい。この森で目覚めたときには、すべてが初めて見るものばかりでした。……貴女の放たれた魔法を目にしたのも、生まれて初めてのことでした」
「……っ! 初めて……? でも、それって――魔法を見たことがなかったって意味ですよね? この国に住んでて、それは……」
そこまで言って、ふと口をつぐむ。ソウシの静かな目が、まっすぐに彼女を見つめていた。
「生まれたのは、ここじゃないんです」
ぽつりと落とされたその言葉に、イサミの目が見開かれる。
「……別の世界で生きていました。体が弱くて、ずっと寝たきりの身でした。……やがて、死んで。でも気づいたら、ここにいたんです。この身体で、生きていました」
イサミは何も言えず、ただ息を飲んだ。
「不思議ですよね。でも……嬉しかった。ちゃんと立てる。歩ける。息ができる。世界が広いって思えた。……だから、これはきっと、生きる機会をもらったんだって、そう思ったんです」
彼の言葉には、淡々とした語り口の中に、確かな熱がこもっていた。
イサミは言葉を失い、数秒の沈黙のあと、小さく息を吸って、真っ直ぐに彼を見つめた。
「――もしかして、ソウシさん……あなた、こっちの世界の人じゃないんですか?」
その問いに、ソウシはゆっくりと、黙って頷いた。
やっぱりと、イサミは息を吐き、表情を引き締めた。
「まだ信じられませんが、分かりました。でも、それなら、やっぱり学院に来てください。知識も、この世界の常識も、魔法も、全部そこにあります。今のままじゃ、危険ですから」
彼女の声には、どこか使命のような気迫が宿っていた。
ソウシは少しだけ目を細め、その誠実な眼差しに向かってゆっくりと頭を下げる。
確かに、今のままでは、この世界のことを知らなすぎるのは事実だ。
「見学でもいいんです。先生たちにも、きっと見てほしい。……あなたのような人が、そこにいるべきだと、私は思います」
ソウシは少し目を閉じて思案する。だがすぐに、顔を上げ、微笑を返した。
「見学だけでも、というのであれば。是非、見せていただきたく存じます」
「ほんとですか……! 良かった……!」
イサミは安堵と喜びの入り混じった笑顔を浮かべた。
こうして、剣士と魔導の令嬢は、魔法学院という舞台に向かって歩みを共にする。
それは、時代も文化も異なるふたりの、交差のはじまりだった。