第一幕1 『魔を斬る刃』
湿った土の匂いと、ざわめく草木の音を感じ、ゆっくりと彼は目を覚ました。
喉に空気が通ると、思わず小さく咳が出た。
だが、不思議と息がちゃんとでき、胸の重みがない。血を吐く気配も、肺の痛みもない。
「生きてる?」
口にしたその声は、はっきりと音になって響いた。
思わず己の手を見れば、見覚えのあった剣士の頃の手がそこにはあり。静かにおろした指先には、はっきりと分かる愛刀の感触があった。
――菊一文字則宗。
その姿、その重みを忘れるはずがない。
「ははっ……まさか、本当に……」
笑ったのは、いつぶりだっただろうか。
「きゃああああっ!」
あの声は本当にと実感する間もなく、森の奥より少女の悲鳴が響く。
即座に身体が動いた。刀に指をかけ、音の方へ駆け出せば、茂みを抜けた先に、ローブ姿の少女と、彼女に迫る見たこともない異形の化け物の姿があった。
少女は転んだのか、足をすりむいたまま必死に後ずさっており、目の前に立ちふさがるのは、牙を剥いた大型の虎のような魔獣が一匹。
赤黒い毛皮に赤い目。異様に膨れ上がった前肢と鋭い爪。そして鋭い牙を備えている。
考えるより先に、間に滑り込むように、身体が動いていた。
突如現れた長い黒髪の青年に、少女は状況が飲み込めず呆然としている。
「わ……」
「お話はあとで」
声は穏やかで、微笑さえ浮かべていたが、彼の左手は既に刀の鞘を握って。
魔獣が地を這うような低い姿勢から、一気に跳躍してくる。
人間をただの獲物と見なした、殺意むき出しの襲撃。
次の瞬間。空気が、切り裂かれた。
一閃。
視界が一瞬、白くはじけたかと思えば、魔物の体が空中でぐらりと傾き、次の刹那には、頭と胴がまるで別の命のように地面へと転がり落ちていた。
風の音が一瞬止まり、沈黙が辺りを満たす。
沖田は静かに息を吐き、確かめるようにゆっくりと鞘から刀を引き抜いた。
陽の光を浴びた刃が、鋭く、そして美しく煌めく。
細身で腰反りが高く、刃文は一文字丁字。
乱れは八重桜の花びらを置きならべたかのように、柔らかで、なお鋭い。
その手にあるのは、紛れもない彼の刀。
「……斬れる」
思わずこぼれた言葉に、わずかな熱が混じっていた。
忘れかけていた手応えが、掌から腕へと駆け上がっていく。
戦いの最中にしか見えない世界が彼の中に蘇る。相手の呼吸、動き、気配、すべてが手に取るようにわかる。
それは、あの世界で何百と命を断ってきた剣士としての記憶が、今もなお、己の中に根を張っている証だった。
「この世界でも……命のかたちは、変わらないんだな」
ぽつりとこぼしたその言葉には、どこか悲しみにも似た静かな諦観が滲んでいた。
その瞬間、背後から草を踏む音。
振り返るまでもなく、さらに二体の魔獣が姿を現す。
沖田の顔から笑みが消える。
次の瞬間、彼の眼差しが氷のように冷たくなり、重い空気が周囲に満ちた。
沖田の表情から、笑みが消え。刹那、彼の眼差しが氷のように冷たくなった。
「せめて、静かに終わらせます」
彼の足が一歩、地を踏む。
次の瞬間、青年は影のように地を滑り、魔獣の一体に近づいた。
刃は、一切の無駄なく、まるで重力を逸脱したような速さと角度で斬り上げる。
ズバッ。
音が遅れて響き、魔獣の身体が、上半身と下半身に分かれて倒れた。
残る一体が逃げようと背を向けた瞬間、
「逃がしません」
言葉とともに、青年の身体がふわりと宙を跳ぶ。
舞い飛ぶように、真上から。
ズ、ドッ!!
刃が、魔獣の脊髄を貫き、地に叩きつける。
屍より刀を抜き、軽く一息。刃を振って血を払い、静かに鞘に戻せば、戦場には、まるで風が過ぎたような静けさが戻っていた。
「……ふう。怖かったですね。お怪我はありませんか?」
振り返った青年は、すでに柔和な少年のような顔に戻っていた。
少女は息を呑んだ。
綺麗な長い黒髪に黒い瞳。それは彼女にとって珍しい色彩。
「もし……」
「あ……あ、ありがとうございます……あの、あなた……お強いんですね、あの魔獣を倒してしまうなんて」
「あれは、まじゅうというのか?」
青年は短く答え、魔獣の死骸を見下ろし。
年の頃は十七、八だろうか。少女はおずおずと立ち上がると、ローブの裾を整えながら頭を下げた。
「……あ、あのっ……あなたは、いったい……?」
ようやく言葉を取り戻した少女は、恐る恐る青年に声をかけた。青銀の髪を揺らしながら、まだ胸の鼓動が収まらない様子で。
その姿に、青年は刀を静かに腰に納め、にこりと微笑む。
「通りがかりで、たまたま声が聞こえたものです。お怪我がなくて、何よりでした」
礼儀正しく、少し古風な言い回し。
けれどその所作には、不思議と貴族階級に通じる品があった。
「えっと……ありがとうございます。私は、イサミ・ブレイヴハートといいます。ルーヴェル・ウルフェン魔法学院の生徒で……課題の実習でこの森に来てて、そしたら魔獣に襲われて……」
「そうでしたか。私は沖田総司――いえ、ソウシ・オキタと申します」
「ソウシさん……助けていただいて、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私は今ごろ……」
「ご無事で何よりです。しかし、こんな森に、女性が一人で入るとは……危険すぎますよ」
記憶にあるイサミという名の響きに密かに動揺しながら、ソウシは眉をひそめた。幕末の武士としての感覚からすれば、少女一人を森に送り出すなど言語道断だ。
だがイサミはその言葉にむっとしたように、腰に下げた杖を握り直した。
「ち、違います。私、魔法学院の生徒ですし、ちゃんと訓練も受けてます! 本当はもっと強いんです。ただ今日は……少し動揺して、詠唱を間違えただけで……!」
そう言って、彼女は杖を振ると、杖先から淡い光が弾けた。
宙に浮かぶ氷の結晶が、すうっと空中に舞い上がる。
それは即興で放たれた、攻撃と防御を兼ねた『氷華の盾』魔法――知る人が知れば、中級以上の扱いだった。
「……!」
ソウシの目が、わずかに見開かれた。
凍てつく風と光が空気を震わせ、彼の目の前に確かな『術』として展開される。
「これは……いったい……目に見える力が、形を伴って……」
彼の中で、剣技でも術理でも説明できない理が交錯していた。
この世界は、何か根本から違う。これが転生というものなのかと。
見えぬものを研ぎ澄ませてきたソウシにとって、それは驚愕と共に、直感的な理解を含んでいた。
「……なるほど。見事なものでございます」
彼は顔に笑みを浮かべながらも、その目には警戒と探求の色がにじんでいた。
イサミは頬を紅潮させ、少し誇らしげに言った。
「だから、こんな森くらい、私一人でも平気だったんです……たぶん。今日だけ、ちょっと運が悪かっただけで」
その強がりに、ソウシはどこか懐かしさを覚えた。
道場で、強がって立ち上がろうとしていた若い隊士たちの顔が浮かんだ。
「そうでしたか。それでは、私はただ、少しばかり幸運だった、ということにしておきましょう」
柔らかな声でそう返すと、イサミはふっと笑って、小さく頷いたが、次の瞬間、彼女はわずかに表情を歪め、足元を庇うように身を引いた。
「どうなさいました?」
「ちょっとだけ、足をひねっちゃったみたいです。魔物に追われたときに、転んだ拍子に……平気ですけど」
彼女は強がってみせるものの、歩くたびに小さな痛みが走っているのがわかる。
ソウシはすぐさま一歩踏み出し、彼女の肩にそっと手を添えた。
「でしたら、送らせていただきます。これも、剣士として当然の礼儀でございますから」
「……ありがとう。でも、無理しないでくださいね? 私、そんなに重くないと思うけど……」
「それは心配いりません。では、どうか道をご案内ください」
イサミは少し頬を赤らめながらも、小さく「うん」と頷いた。
「私の家、学院の近くにあるんです。実は、貴族街の端のほうで……お礼に、よければ休んでいってください。あなたのおかげで、私は無事ですし……本当に、命の恩人ですから」
「それは光栄なことでございます。お招きいただけるのであれば、喜んで」
そうして、二人は森を抜け、丘の上に続く道を歩き始めた。
一人は、幕末を生き、異界にたどり着いた剣士。
一人は、魔導を学び、誇りを胸に秘めた令嬢。
異なる時代と世界が交わる、その始まりの一歩だった。