序幕 『誠、散る乱』
夏の終わりを告げるように、葉の色がわずかにくすみはじめた。
植木屋の裏庭。手入れの行き届いた小さな庭には、まだ陽の光が優しく降り注ぎ、風鈴の音が時折、静けさを揺らす。
――新選組一番隊組長、沖田総司。
それが彼の肩書であった。
すっかり体力が落ち起き上がれなくなった身体を布団に預けたまま、首だけでかろうじて縁側を眺めている。
咳の発作はすでに枯れたようで、代わりに、呼吸そのものが静かに沈んでいくのを自覚していた。
「……また、来たのか」
足音もなく、黒猫が一匹、庭の苔むした石の上に座っている。
日を受けて、艶やかな毛並みがひときわ際立って見えたが、その片耳だけは、くしゃりと折れていた。
沖田はその耳に視線を落とし、ほんの少し眉をひそめる。
「おまえ、三日続けて来てるな。……又、俺に斬られに来たのか?」
冗談めいた声に、黒猫は小さく「ニャ」と鳴く。
その声には恐れも警戒もなく、ただ静かにそこに「在る」だけだった。
「……片耳、すまなかったな。ま、あれは……お互い様か」
沖田は苦笑し、咳ひとつ漏らす。
あの時、既に病に犯されていた沖田にとって、刀を振るえたことの方が奇跡だった。
沖田の視線が、鋭い金色の瞳と交わる。
その目はまるで、人の言葉を理解しているかのような静謐な光を宿していた。
――もう一度。
沖田の視線が、かつての己を思わせるような鋭さを帯びた。
わずかに左手が、目の前に置かれた愛刀に伸びる。
だが、手は届かなかった。
一筋の咳が、口元から血の味を連れてきた。肺の奥を蝕む病が、着実に刀を重くし、心を弱らせる。
腕の力はもう尽きていた。指の一本すら、動かせない。この病が、剣士からすべてを奪っていた。
「……刀の届かぬところで、猫にまで舐められるとはな」
苦笑の中に、寂しさはなかったが。ただ、静けさとともにあった誇りの残り火が、心の奥でまだ燃えて、痛かった。
だが、沖田の瞼はゆっくりと閉じていく。
薄く開かれた唇が、風鈴の音と重なるように最後の言葉を呟いた。
「……次に目が覚めたら、また……相手をして、やる……今度こそ……」
静かに。極、静かに、沖田総司の胸の上下は止まった。
黒猫は動かず、しばらく彼を見つめていたが、やがて庭の陰へと姿を消し。残暑を憂う蝉の声が、ひときわ高く鳴いた。
× × ×
風の音が止んでいた。
蝉も鳴かない。太陽の眩しさも、もう感じない。
沖田総司は、目を閉じたまま不思議な浮遊感に包まれていた。
死というものは、もっと冷たく、もっと重いものだと思っていたのに、どこか軽い。まるで眠り続けているような、夢の中のような心地だ。
ふと、声が降るように響いてきた。
「大変おつかれさまでした、沖田総司様」
声というより、思考に染み込む音。
男か女かも判別できない、不思議に優しい音色だった。
そこで総司は、思わず閉じていたまぶたを再び開いた。
何もない。
白、白、全てが白い。
空も、地も、天井もなく、ただ白の世界が広がっていた。
「ここは……?」
問いかけに応じるように、また声が落ちる。
「あなたは、先刻、あの世界での使命を終えました。剣士として、短くともまっすぐに見事に生き抜きました」
その声に、沖田は何も言わなかった。ただ、じっと耳を傾け、死んだのかと静かに受け止めていた。
「ですが、予定になかったあまりにも早い死に、運命の輪はあなたを転生させることを決定しました。あなたは、そのまま別の世界で、残りの人生を生きてもらいます」
「……俺が?」
「ええ。この先にあるのは、魔法と異種族が生きる、まったく新しい理の世界。あなたは、そこでどう生きるのでしょうね」
言葉にしては曖昧で、夢のようだった。
だが、総司の中には奇妙な確信があった。これは嘘ではない。何か、大きな力が自分を新たな舞台へと押し出そうとしている。
「……たい……ボクは生きたい……」
初めて口にした本音に、沖田は涙を零した。
死病だと知って、どれだけ我が身を恨んだか。力になれない己をどれほど恥じたか。
そして、一人の青年として、まだ生きたいと強く思っていたこと思い出し。
「転生するにあたって、幾つかの祝福を与えましょう。何か希望はありますか?」
――刀。
「刀は、どこへ行こうと私の一部です。再び、刀が握れるなら、それで充分」
「その心意気、確かに受け取りました。……ようこそ、新たな世界へ」
その瞬間、世界は閃光に包まれた。