廃アパート二〇三号室
私が住んでいるのは築五十年以上のオンボロアパート。そろそろ修繕をしたほうがいいんじゃないかと毎年思うのだが、大家はなかなか取り掛かろうとしない。ごうつくばりといううわさは本当かもしれない。
あまりにボロボロなので、近所の子供たちが幽霊アパートだなんだと噂しているらしい。夏になると勝手に肝試しにやってくるのは本当にやめて欲しい。空き家だからって勝手に入ったらダメなんだよ。急に悲鳴が聞こえたりするんだもん。本当に迷惑。
長年の雨水に晒されて錆で元の色が分からない外階段を注意して上ると、目の前にある二〇三号室が私の部屋。二階には私の他に二人、一階にはひとり住んでいる。少し前にはもう少しいたんだけど、いなくなっちゃった。まぁオンボロアパートだから仕方ないよね。
木製のドアは風化で色が剥げているし、開けるたびに軋む音がする。ドアを開けるとすぐ右手は小さな台所があり、左手にはトイレとお風呂がある。真正面はガラス戸があり寝室兼リビングの部屋がある。この引き戸になっているガラス戸も、地震などで建物が歪んでいるせいか建て付けが悪いのでほぼ開けっぱなしになっている。今のところ不便はないけど、たまに来客があると全部見えちゃうのが困りもの。
常に綺麗にしておけばいいんだけど、たまにくる彼氏が散らかしちゃうんだよね。もう本当に別れようかな。でも平身低頭で謝られちゃうとつい許しちゃうんだよね。押しに弱い自分が情けない。
この前も、私が仕事中に女の人を連れ込んでたんだよね。休み時間に忘れ物を取りに来たらバッタリ出くわして……あれは修羅場だった。思い返しても腹立たしい。本当に殺してやろうかと思ったわ。
嫌な音がするドアを開けると台所がある部屋が散らかっていた。隅に大きなゴミ袋が置かれている。また彼が置いたのかもしれない。
開けっぱなしの引き戸を見れば誰かが部屋の中を歩き回っていた。ガラス戸に映った影は二人分。
ああ、またか。早く出て行ってもらおう。
うんざりしたため息を吐いて、私は一歩を踏み出した。
隣の町に有名な幽霊アパートがある。
小さな町工場の裏手に建ち、隣には畑と公園がある。まるで切り離されたようにぽつんと建つアパートには町工場の従業員が住んでいたらしい。社員寮みたいな感じだったんだろう。それも十年以上昔の話で、いまは誰も住んでいない廃墟となっている。窓は何ヶ所か割れているし、壁にも屋根にも草が絡みついているし、壁に落書きもされいている。
「うわ〜、いかにも……って感じ」
「ビビってんの?来たいって言ったのお前だろ」
「はぁ?ビビってないし。いかにも幽霊出そうって思っただけだし!」
「はいはい。そういうことにしといてやるよ」
ムキになって反論する奈緒を無視して入り口を探す。
奈緒は同じサークルの仲間でけっこう仲がいい。今日の肝試しもサークルの仲間四人でくるはずだったが、他の二人は急遽用事ができて参加できなくなった。たぶん、僕が奈緒に好意を寄せているのを知っているからだろう。メッセージで「頑張れ」「男を見せろ」とか送ってきやがった。
アパートの周囲は緑色のフェンスで覆われていて、簡単に中に入れないようになっている。フェンスにも太い文字で「立入禁止」と書かれた紙が数ヶ所に貼られていた。僕らみたいに肝試しをする人が多いのだろう。
「聡司、こっちこっち」
見れば奈緒が左側の小さな公園から手招きをしている。
遊具もない小さな公園は雑草だらけで、ペンキの剥げたベンチと壊れた外灯だけの寂しいものだった。
奈緒は公園の奥にある植え込みの隙間を歩いて、フェンスに近づく。
「ここ入口。先輩に教えてもらったんだ」
植え込みに隠れるようにフェンスに穴が空いている。しゃがめば通り抜けられる大きさだ。ペンチなどで切ったのか、切られた箇所が錆びている。
奈緒に続いて穴をくぐれば幽霊アパートはもう目の前にある。公園よりも雑草が伸びているが、肝試しにやってくる人が多いのか、アパートまでの道が雑草が踏み倒されている。
月明かりがあるとはいえ、足元が危ないので懐中電灯を照らしながら進んでいく。楽しみにしていた奈緒も夜に浮かぶ廃墟のアパートに怖気付いたのか、無意識に僕の服の裾を掴んでいた。指摘すると怒るだろうからやめておく。
懐中電灯に照らされたアパートは当たり前だが灯りひとつも灯っておらず、カーテンもない小さな窓から真っ黒な空間しか見えない。
先に侵入した人の仕業だろう。一階の部屋のいくつかは鍵が壊されて半開きになっていた。人ひとりが通れるほど開いた右端の部屋を外から懐中電灯で照らしてみると、部屋の中は枯葉や土が入り込んでいた。備え付けのキッチンが部屋の中なのだと主張しているようだった。
台所の奥にもう一部屋あるようで、割れたガラスの引き戸が半端に開いたままになっている。ドアから見る限り、部屋の中には大して家具などはなさそうだった。
「入ってみようよ」
止める間もなく奈緒は中に入っていくので、慌てて後を追った。ビビリかと思えば、変なところで行動力があるから予測がつかない。
「こっちの窓も割れてるから外と変わらないね」
家具を残さずに退去したのか、奥の部屋にはほとんど何も無かった。誰かが割ったのか、窓は酷い有様だった。そのせいで吹き込んだ枯葉や土があちこちに散乱している。
「?なにか言った?」
「え?なに、なに!なにも言ってないよっ」
窓を見ているとなにか声が聞こえた気がして奈緒に話しかけたが、収納を覗き込んでいた奈緒ではなかったみたいだ。なにかの音を聞き間違えたのかもしれない。
懐中電灯で周囲を見回すと背後のガラス戸に人影が見えた。
「ぅわっ!」
「きゃっ」
驚きで一瞬心臓が止まりかけた。
暗い室内で動いたような気がする場所を目を凝らしながら懐中電灯を向ける。
「びっくりしたぁ。もお、なんなの」
強気な声だが、僕の服を掴む奈緒の手は震えていた。その手を上から包むように触れる。
「人影かと思ったら、鏡だよ。ほら」
懐中電灯を向けると、ガラス戸に立てかけるように全身が写る姿見があった。他に家具なんてほぼないのに、どうして鏡だけ置いていったのかは分からないが、元住人には文句を言いたい。もしくは、以前の肝試しした奴らが驚かそうと故意においたのかもしれない。
思惑にはまったみたいで悔しい思いをしていると、奈緒が部屋を出ようよと肩を叩いてきた。
「ね、二階も行ってみようよ」
「え〜、階段大丈夫かよ」
「大丈夫じゃない?先輩も行ったって言ってたし」
奈緒のいう先輩とは、サークルの鳥羽先輩のことで、この幽霊アパートの話を教えてくれた人でもある。二週間ほど前に肝試しに来たらしく、話に興味を持った奈緒に色々と教えてくれたようだ。
「先輩が言ってたんだけど、ここの二階で殺人事件があって、それが原因で閉鎖することになったんだって」
心許ない音を立てる錆びた階段をゆっくりと上がりながら奈緒が声を忍ばせて話す。
「マジで?ヤバくないか?」
「大丈夫だよ。みんな行ってるけど、なんにも起こってないから」
「殺人事件って?」
「えっとね、あ、あった。ここだよ」
階段を上った先にある部屋を奈緒が指差す。
部屋の番号は風化したせいか二の数字しか分からなかった。人が出入りしたせいかドアの蝶番は外れて、申し訳程度に立てかけられているだけだった。
廃墟と化したアパートというだけで恐ろしげな雰囲気を醸し出しているのに、殺人事件があったというだけで輪をかけておどろおどろしく見えてしまう。
それでも、好奇心のほうが強いのは僕も奈緒も同じらしい。壊れたドアを横にずらせば、奈緒が少しの躊躇もなく中に入った。
部屋の中は一階と同じ造りになっているが、ここは家具がけっこう残っている。台所には古い冷蔵庫と小さなテーブル、開ききったガラス戸の先には箪笥らしきものが見えた。一階よりも人の出入りが多いのか、足跡やゴミの量が多い。空き缶や菓子の袋があちこちに散乱している。
「こういうゴミがあるとなんか台無しだよね」
「そうか?廃墟っぽいだろ」
「分かってないな〜、総司は」
残念そうな顔で言われても、本当に分からない。まぁ、壁にスプレーで書かれた『リョージ参上』はかなり台無し感はあると思う。
奥の部屋へと移動すると、ここもゴミがある。一度気になると目がいってしまう。
部屋には枠だけのベッドと箪笥、低い書棚と扇風機があった。どれも壊れているが、風化というよりは壊されたような感じがする。
「やっぱり残念すぎる。これじゃ、全然怖くないよ、ね……」
振り向いた奈緒が僕を見て目を丸くした。さっきまでの余裕のある顔ではなく、目を限界まで見開いて半開きの口は細かく震えていた。奈緒の右手がガクガクと震えながら僕の背後を指差した。その指につられるように後ろを振り向くと、人影が見えた。
なんだ。さっきと同じ鏡か。
二回目なので余裕ぶって懐中電灯を向ける。光が鏡に反射するはずだったのに、人影を通り越してガラス戸の前に置かれた書棚を照らした。
「…………なんで」
人影をよく見れば長い髪の女だった。奈緒はショートだし、僕だって短い。服だって、奈緒も僕もパンツスタイルで、事務員みたいなスカートなんて履いていない。
じゃあ、これは誰だ。コレはなんだ。
女の首がカクンと横に倒れ、胸まである髪が揺れた。その髪から水が床にぽたり、ぽたりと滴り落ちている。肩も濡らした水は右半身を黒く染めていく。
女はしゃがれた声で何かを喋っているが、聞き取れない。かろうじて『なんで』という言葉だけが聞き取れた。
生臭い風が漂わせてきた。その中に鉄錆の臭いがした。
まさか、あれは血?
女の頭から髪をつたって落ちる黒い液体の正体を知り、恐怖で後退る。奈緒の手が僕の腕をギュッと掴んだ。
大丈夫。守るから。
そう言って安心させようと、その手に触れようとしたその時、奈緒の悲鳴と共に強い力で前に押し出された。
体制を崩して倒れ込む僕の横を何かが走り抜けた。
それが、僕を置いて逃げていく奈緒の後ろ姿だと気がついたのは、奈緒が完全に見えなくなってからだった。
驚愕と混乱の中にいる僕の目の前で、血まみれの女がニィッと笑ったような気がした。
普段は静かな町に緊急サイレンが響いた。
古びた工場の裏に建つ閉鎖されたアパートの前にはパトカーや救急車が数台停車していた。周囲を囲っていたフェンスの一部が移動され、警察官や消防隊員が出入りをしている。
「なんの騒ぎかしら?」
犬の散歩に出ていた凪沙はいつもと違う様子に眉を顰めた。薄気味悪いアパートが撤去されることになったのかと思ったが、警察や消防が来るものだろうか。
躾のできた愛犬はおすわりをしたまま主人が散歩を再開するのをジッと待っている。
凪沙に声をかけてきたのは散歩中によく会う男性だった。いつも連れていたレトリバーは今日はいないようだ。
「さっき聞いたんですが、若者が行方不明らしいですよ」
「まぁ。行方不明ですか」
「よく肝試しにきている輩でしょう。まったく、朝から迷惑な話ですよ」
男性は近所に住むせいか、朝からサイレンがうるさかったとぼやいている。どうせどこか遊びに行ったり飲んだくれてるんだろうと決めつけていた。
同じ年頃の娘を持つ凪沙は、誰かは知らないが行方不明の若者が早く見つかれば良いと思った。
「連れて行かれたんだわ」
男性の愚痴を遮るように誰かが話した。
見れば、凪沙の横に老婆がアパートを向いて立っていた。灰色の短い髪のせいで老けて老婆に見えたが、実際は六十代か七十代前半のようだった。
「あそこは、カップルで行っちゃうダメなのよ。よくないことが起こるんだから」
「二人とも行方不明なんですか?」
「いや、男だけだと聞きましたよ。女のほうは怖くて逃げ出したらしいが、一緒に行った男が朝になっても帰らないって警察に連絡があったとか」
どうせどこかで遊んでるんでしょう。と男性はまたもボヤき出した。
「かわいそうにねぇ……」
おばあさんはそう言って手を合わせると去って行った。男性とも別れて散歩を再開したが、凪沙はアパートのことが心の隅に残っていた。
その後、この町で生まれ育った夫にアパートの話を聞いてみることにした。夫は気乗りしないようだったが、根負けして話してくれた。
「俺が小学四年生ぐらいだったかな。あのアパートで殺人事件があったんだよ。痴話喧嘩の末に女が男を殺したらしいんだが、子供の前でする話じゃないだろ?だから、後から聞いた噂話と混じってるかもしれないけどな。
アパートに住む女の部屋に男が女を連れ込んで、それを見つけて怒った女が刃物を持ち出して刃傷沙汰になったって話だ。取っ組み合いの末に、浮気相手の女も男も軽傷だったが、アパートに住んでた女だけが突き飛ばされて頭を打って死んだらしい」
「まるで昼ドラね」
「怖いのはさ、浮気していた男と女は、死んだ女をバラバラにしてビニール袋に入れて隠蔽しようとしたんだよ。工場の同僚が無断欠勤した女の部屋を訪れて、台所に放置されたゴミ袋から遺体が発見されてって当時はかなり大騒ぎになったもんだよ」
そんな事件があっただろうか。
凪沙は過去の記憶を掘り起こしたが覚えがなかった。事件が事件だけに、親が見せないようにしていたのかもしれない。
「浮気相手の男も女も捕まって実刑を受けたのさ。事件のせいか借り手が少なくなってアパートは閉鎖したんだが、取り壊そうとすると怪異現象が起こるっていうんで、フェンスで囲ったって聞いてる」
「フェンスで囲っても、出入りを黙認してたら意味ないでしょうに」
「若者の怖いもの知らずというか、管理人もイタチごっこに疲れたんだろう。フェンスに穴をあけられても放置してたみたいだな。肝試しにくるやつは多かったけど、カップルだけで行くと危ない目にあうとは聞いたことがある。女の方が酷い怪我をしたって話が何度かあったらしい」
「だから、私が昔行ってみようって行った時にあんなに反対したのね」
「女性のほうが怪我するって聞いて、連れて行けるかよ」
「はいはい。ありがとう」
「だけど、今回は男のほうか……」
「女性のほうは途中で逃げたらしいわよ」
「ああ、だからか……」
夫は納得したように頷いた。
凪沙は意味がわからず、首を傾げた。
「女が逃げたから、男を独り占めできるからじゃないのか。愛なのか憎しみなのかは分からないけどな」
たぶん、それは永遠に分からないだろう。
時折この事件を思い出すが、行方不明の男性が見つかったという話を聞くことは一度もなかった。
お読みくださりありがとうございます