船出
真夜中の港にその船は時間通り寄港した。
月明かりが闇夜に薄く滲む中、全く明かりを灯していない船は真っ黒く、不気味に海の上に浮かんでいた。
舘崎は船が停泊している所まで車を近づけてヘッドライトをパッシングさせ、甲板員に合図を送った。
「今なら、まだ引き返せますよ。」
舘崎は助手席に座る明也に一応聞いてみたが、返事は返ってこない。聞いたって彼の決意が固まっていることはわかっていた。
明也は爛々とした目で船を見つめている。よほど、この時を待ち焦がれていたのだろう。
「この船に乗れば、来週には中東に着くんだね。」
舘崎の問いに答えることなく、明也は淡々と船出の準備を始めた。後部座席からバックパックを引っ張り出し、荷物の確認をしている。やはり後戻りする気はないようだ。
「私にはわかりかねます。」
支度をする明也を側目に舘崎は呆れ声で漏らした。
「あなたには担うべき責務があります。お父上の後を継ぎ、地盤を継承していかなければならないのに、何故に突然旅に行きたいなどと言い出すのか。遊学するわけでもなく、援助活動に参加するわけでもなく、一切キャリアに関係ない形で・・・。あなたはもう学生の身分ではないのですよ。」
時より声を荒げて説教するように話していたが、明也を直視しようとはしなかった。うつむきながら、こうして苦言を聞いてもらうことが舘崎の精いっぱいだった。
「舘崎には感謝している。船を手配してくれたこと、それから親父にも黙っていてくれたことも。」
顔を顰める舘崎とは対照的に明也の表情は晴れやかだった。
「誰の人生にだって何かを乗り越えなきゃならない時がある。みんな何かになろうとして必死に奮闘して、がむしゃらになって、そうやって成長していく時期があると思うんだ。だけど、俺の場合は生まれた時から既に敷かれたレールの上に人生があったからそんな境遇が全く無くて、変な話だけど羨ましくってさ。何をするにしても手応えがない人生に面白さを感じないんだ。生きる実感を見つけるためには、そのレールを自分で壊すしかないんだよ。」
明也なりの単純で率直な主張だったが、舘崎に納得した様子はない。
「向こうに着いたら何をするつもりなのですか。何かあてがあるのですか。」
「行ってから決めるさ。」
「帰ってきた時はどうするつもりですか。お父上は迎え入れてはくれませんよ。」
「その時考えるよ。」
もはや明也とわかりあえないことは十分なくらい覚っていたが、今一度、舘崎は食い下がろうとしていた。
「実は、私は昔、あなたの父上と選挙で争ったことがあります。」
「へえ、初耳だな。それが何で今は親父の秘書をやっているのさ。」
「絶対に勝つことができないと悟ったからです。選挙では何よりも駒の数が重要です。しかし、私みたいな十人並の志を持った人間が細々と演説を繰り返したって、集まる数は知れています。だけど、あなたのお父上は違う。あの人は生れながらにして強力な地盤を持っていました。財界の有力者とのパイプもありました。さらには他の候補者から票を買うことだってできました。私はあの人と対峙して惨敗することで世の中の実情を知り、いかに自分が無知無力かということも痛感したのです。」
再び舘崎は語気を強めて、今度は明也の目を見て話を続けた。
「良いか悪いかが問題ではなく、政治とはそういうものなのだと悟りました。持つ者か持たざる者か。勝者は既に決まっていたのです。それ以降は、私は無駄に足掻く事はやめました。ただ、少しでも自分の意思が政に届くよう、強者のそばに就くことにしたのです。あなたの父親に、そしてゆくゆくはあなたに仕えることが私にできる最大限のことなのです。」
舘崎の渾身の説得だった。少しの間、車内に静かな空気が張りつめた。わずかな月明かりは雲に隠れ、暗闇が二人を包み込む。お互いは顔を合わせていたが表情はわからなかった。
「・・・俺は、後汚い時代の片棒を担ぎたくない。」
そう言うと、明也は静かにドアを開けた。
「じゃあ、行ってくるよ。」
簡単に別れを告げて明也は振り返ることなく船へと足を進めた。若い、全身の弾力を漲らせて堂々と歩いて行った。船体の側面には明也を迎え入れるようにタラップが降りていた。
若さ故の愚行だと舘崎は思った。ずっと昔、自分にも昂るものがあった。情熱があった。そして、感情のまま愚直に闘った。けれども、今は情熱も闘争心もすっかり枯れ果てた。この若さ漲る青年と話していても込み上げてくるものはもう何もない。
人間老いて傍観に徹す。
自分の力を見限り、社会を達観しきっている舘崎にとっては挑戦と愚行はもはや同意義でしかない。
そんな老いぼれの気にかかることといえば、この温室育ちのお坊ちゃんがおめおめと帰ってきた時、魔王のごとき父親にどう利用されるのか。あるいは、二度とこの国の土を踏まず最果ての地で野垂れ死ぬのか。そしてその時、父親はどんな顔をするのだろうか・・・。
「まあ、せいぜい楽しませてくれや。」
そう呟いて舘崎は港から遠ざかる船を見届けていた。




