由美
深夜二時、真由子はいつ果てるともない山道で車を走らせていた。
車で片道4時間近くかかる友人宅へ出向き、その帰りである。
今日は、正確には昨日は、死んだ友人をその自宅へ参りに行ったのだった。
由美は小学生時代からの友達だった。
しかし30代半ばになった今も、由美の方はまだ友達と思っていてくれるのだろうか。
歳を重ねるにつれ、友達などという意識は遠のいてしまった。
年老いた友人の父は、私に泊まっていくよう何度も勧めてくれた。
しかし、今日は平日である。朝が来れば子供を残して主人は出勤しなくてはならない。
由美の父ー宗治は由美の話をぽつりぽつりと語りながら、なかなか帰らせてくれなかった。
それを振り切って黄色い電球のついた狭い部屋を出た時は後ろ髪をひかれたが、
長く明かり一つない山道をしばらく走る頃には、早く帰りたいという焦燥に変わった。
真由子は由美の葬儀にも通夜にも出席していなかった。死んだことすら知らなかったのだ。
無理もない。
由美とこそ交流があった真由子だったが、由美の父と会うのは小学生以来だった。
もう25年以上も前に会ったきりである。
そして、真由子が実家を離れて隣の県に引っ越したのは18年も前のことだ。
連絡をくれようにも、真由子の居所など分からなかったに違いない。
同窓生からまわりまわって真由子のもとへ連絡が来たときには、由美の死後3週間が過ぎていた。
年老いた宗治を見た真由子はいくらかショックを受けていた。
小学生のころ由美の家に訪ねて行った時、真由子は一回だけ彼を見ている。
由美の父は昼間から家にいた。酒臭い息を吐きながら時々大声で由美を呼び、ろれつの回らない口調で何かを命令していた。
母は離婚している。行方は知らなかった。
由美はすぐに真由子を外に連れ出した。
そして申し訳無さそうに えへへ と笑いながら「うちはお父さんが厳しいからさ」と言った。
その後で、「でも普段は優しいよ。」と付け加えた。
その時の「由美の家の怖いおじちゃん」というイメージはすっかり無くなって、不健康そうに痩せた白髪頭の小さな老人になっていた。
「生前は由美は真由子さんにはお世話になったみたいだからぁ」
宗治は古びた湯のみにお茶をついで勧めてくれた。そして、話の合間合間に痰の絡んだ激しい咳をした。
「由美は薬の分量も守ってなかったみたいです。もうあちこちが悪かったんですよ。どうしようもないやつだ。」
宗治は話を続ける。
「由美が死んでいるのを見つけた時、どこかほっとしたんですよ。」
しばらくの沈黙のうち、宗治が頭を下げた。
「由美は真由子さんにどれだけ良くしてもらったかわからない。手紙の話や、花見に言った話も聞いてます。いつもいつも仲良くしてくれてありがとうございます。」
真由子は酷く恐縮した。
そんなに良い友ではなかったのは、真由子が一番良くわかっていた。
第一、由美に最後に会ったのは何年前のことだろうか。やり取りをしたという手紙も、一体何回出したというのだろう。
この15年で3度。いや、4度だったか。そのうち2回は暑中見舞と引っ越しの通知の端に一言添えただけだ。
由美からはその後も何度も手紙がきた。その話の内容すらはっきり覚えてはいなかった。
ただ、必ず手紙の最後に書いてあった「連絡ください」という言葉だけは心に残って、思い出すたび申し訳ない気持ちになった。
電話がかかってくることはまずなかった。
かけることもなかった。
そして、結局真由子は手紙の返事など出さなかったのだった。
由美の死因は心不全だった。
と言っても、もともと体中が悪かった。自分で悪くしてしまったのだ、と真由子は思った。
薬を飲み過ぎて医者に怒られたよ、と手紙が来たこともあった。
由美は太っていた。
小学生のころから太っていたが、社会人になって一人暮らしを始めるとますます太った。
就職して2年がたたないうちに、由美は体中の不調を訴え、苦労してようやく見つけた仕事も辞めてしまった。
そして由美は嘘つきでもあった。
嘘だとわかりきっていることをさも楽しそうに話した。
真由子は由美との小学生からの思い出をたどる。
由美は小学生の頃から成績が悪かった。
中学生になる前になって、由美は施設で暮らすことになった。
理由は父親の体調不良のため となっていた。
施設で暮らすようになってから成績はますます落ちた。簡単な漢字も計算も危うかった。
真由子は由美の成績を知っていた。他のクラスのみんなも知っていた。
しかし、由美の口からはいつも良い点を取ったという話ばかりだった。
間違いはニアミスであり、たまたま見落としただけだと言っていた。いつもいつも。
実際はアルコール中毒で入院中の父親も、由美の話では遠くに出稼ぎに行っているから一緒に暮らせないということだった。
行方が知れない母も、海外でバリバリ仕事をこなす人だという事になっていた。
真由子も家庭的に特に恵まれていたわけではない。
由美と同じように酒飲みのの父がいた。
父の酒の量は多かった。ほぼ毎晩、最初は機嫌よく飲み始めるが、真由子が寝る頃には険悪な空気を漂わせていた。
朝起きると、父の嘔吐の後が残っていることもたびたびだった。
酔った父が家の壁を叩く音で目が覚めることも何度もあった。
真由子が小さかった頃、父と母はよく喧嘩をしていた。
そして大抵口論の終わりは、父が家においてある何かを壊す音で終わった。
酔った父に少々殴られてもひるみもしない母だったが、物を壊されるほうが堪えるようだった。
あの頃は母の気性も激しかった・・真由子は思い出して苦笑した。
が、真由子が小学3年生になる頃には母は諦めたように父に何も言わなくなった。
ただし、真由子の父が酒を飲むのは仕事が終わってからである。
由美の家のように一日中酒気を帯びた父が居座っているということはなかった。
それでも由美は事あるごとに自分が父にどれだけ愛されているのかを語った。
~~を買ってもらった、一緒にゲームをした、昨日は遊園地に行った。
けれども、後になって聞いてみれば、それはほとんどが矛盾していた。
真由子は父が嫌いだった。
由美は父が大好きだと言った。
由美はこんな父でも好きだった。由美の言葉の中で真由子が信じたのはこれだけだった。
由美のつく嘘は真由子にとってはいつも不思議なものばかりだった。
一度しか会ってない○○さんが、私のことを覚えていて訪ねて来てくれた。
どこどこの偉い人から手紙がきた。
道で困っているおばさんを助けてあげたら、誰々から表彰された。
ある子は、由美の嘘を激しく指摘した。
すると、由美は大きな体を小さくして、べそをかきながらじっとしていた。
真由子は由美の嘘を誰よりも聞いてきた。しかし、嘘はすぐにわかる嘘ばかりである。
真由子には由美のつく嘘が理解できなかった。が、放っておいた。
嘘とわかりきっている以上、議論の余地すらなかった。
そんなに仲のいい友達だと思っていたわけではなかったが、なぜかクラスはいつも同じだった。席替えをした時も、真由子と由美の位置は近かった。
あの当時は、一人っ子というものはわがままの代表のように言われていて、多少は肩身が狭かったのだった。
由美も真由子も一人っ子だったから、なんとなく二人セットで同級生たちからも見られていた。
由美の嘘は、自分がいかに愛されているか、周りが良くしてくれたかと言う嘘ばかり。そして、話の中の由美はいつも優秀だった。
あぁそうか、由美の口から語られる私はきっと無二の親友だったのだ。だから宗治は、私を歓迎してくれるのだ。
中学になってついに由美と真由子のクラスは離れた。
中学三年で再び同じクラスになるまで、中学の一年、2年と真由子は由美以外の友達と遊んだ。
由美は、中学では少し目立って居た。
その体型もさることながら、制服が古ぼけていたからだ。
施設が用意してくれた制服は、みんなの真新しい制服の中でくすんで見えた。
逆にスカートの尻の部分は、こすれてテカテカと光っていた。
女子が噂していた。「あの子が着ると、同じ制服でも違う制服に見えるわ」
しかし、真由子は、由美が自分で繕ったという制服の穴や、綻びを見て多少感心していた。
なかなか綺麗に手直ししてあった。
真由子は学校以外で裁縫道具など持ったことがなかった。ひどい出来の手提げ袋を授業で作ったきりである。
そう言えば、施設に入所したばかりの由美はこんなことを言っていた。
「妹や弟たちがさぁ、『お姉ちゃん直して』って言って、袋やズボンを持ってくるんだよ。
小さい子って可愛いね。」
施設に入れば、みんな兄弟なのだ。
由美はそれが嬉しそうだった。
中学入りたての頃は、学校ではなく家に帰ってから何回か一緒に出かけた。
その日も一緒に出かける約束をしていた。しかし、真由子に用が出来てしまった。
いつもなら真由子が由美の施設の前に出向き、そこで待ち合わせをして出かけた。
ところが、今日は伯母の家に届け物をするために電車に乗っていくように言われていたのだ。
それをすっかり忘れて約束をしていた真由子だった。
家に帰ると問答無用で4時の電車に乗るようにと追い出された真由子は、施設の前で来ない自分を待っている由美を想像した。
由美との待ち合わせの時間も4時だった。
由美のことだ、時間がくれば来ると信じてずっと待っているだろう。
走って駅に着くと、まだ時間に余裕があった。大慌てで公衆電話から電話をする。
電話口には小さい子供が出た。
「牧田由美さんはいますか?」
「はいいます」
「代わってくれますか?外に出てるかもしれません」
しかし、もう電話口に返事はなかった。
電話から中の子供たちのおしゃべりの声や、騒々しい笑い声が聞こえた。
真由子は、しばらくそれを聞きながらボゥとして待っていた。
あの子、ずいぶん幼い声だったけど。
本当に呼びに行ってくれたのだろうか。
しかし、数分がたつと、公衆電話の残り時間が気になりだした。
電話に向かって呼びかけてみたが、誰も気がつかないようだった。
こんなことなら、由美を待たずに誰でも電話口に出た子に伝言を頼めば良かった。
真由子は駅前の公衆電話を握りしめ、人前を多少はばかりながら、大声で受け口に向かって呼びかけてみた。
「誰かー!」
しかし、向こうの子供たちの声はとぎれとぎれに聞こえてくるものの、こちらの声はさっぱり届かないようだった。
財布を開いて10円を探す。けれども、さっきの10円でお終いだった。
由美にかけた電話は繋がらなかった。
その夜由美に電話をかけた。
今回は寮母さんらしき大人の女性の声で返事があった。
電話口で待たされる時間は、やはり長かった。
呼びだされてからわざわざ階の違うロビーまで出向いてくるのだ。
真由子は電話口の遠くなったり近くなったりするざわめきを聞きながら、由美が自分とはまったく違う生活をしている事をふと実感した。
電話に出た由美は怒ってはいないようだった。「たいして待ってないから良いよ」と言っていた。
昼に電話があったことも知らなかったようだった。
そして、消灯時間が近いということで、早々に電話は切られた。
その事があってからもともと由美に対して受け身がちな真由子だったが、ますます受け身になった。
中学を卒業後、由美は定時制の高校に入った。
由美はその寮に入った。
高校に入ったばかりの頃は夜になると、たまに真由子に電話をかけてきてくれた。
その電話は、いつもコレクトコールだった。
その声は寮の雑多な音に幾度となくかき消された。
友達と一緒にかけてきたこともある。
由美の笑い声に混じって、真由子の知らない誰かが電話の向こうで陽気な声をあげていた。
たいてい、唐突に電話は切れた。
寮へと真由子がかけ直すことは無かった。
由美から再度電話が来ることもなかった。
半年後には由美からの電話は絶えた。
真由子は高校でもう違う友人ができていたから、それを気にすることもなかった。
高校を卒業すると、真由子は家を出た。
その後しばらく、二人はお互いの行方を知らなかった。
真由子が県外で一人暮らしをし始めて何年が過ぎていただろうか。歳の暮れに実家に帰るのがその頃の恒例だった。
一人暮らしを始めた数年後の里帰りの際に、由美と会ったことがあった。
由美は真由子が実家に帰ってきているのではないかと、時期を狙って電話してくれたのだ。
真由子は帰っていた。懐かしい気持ちになって、二人は長々と話した。
その里帰り中に、真由子と由美はきちんと約束をして待ち合わせをして食事に行った。
その時は、また来年も会おうなどと約束したものだ。
しかし、翌年真由子は帰らなかった。
さらにその翌年には、帰るという連絡すらしなかった。
その4年後の年の暮れ。
由美は大きく丸いからだを厚手のジャンパーに包んで真由子の実家に近い商店街の長い大通りを歩いていた。
その後姿は間違えようがない。
真由子はその背中に走って追いついた。
「由美!まぁ!なんでここに?」
由美は振り返って笑った。
「真由ちゃん! ・・・やっぱり帰ってたんだ!
なんでって、・・買い物に来たんだよ。」
「電話くれれば会いに行ったのに! でも、こんな遠くまで何の買出し?」
「いや、買い出しはもういいよ。無いみたいだから。」
二人は近況を立ち話のまま報告し合った。
その時、真由子は由美がベストを着ているのに気がついた。
そのベストは、真由子が中学3年の時に編んだものだった。卒業した時にあげたものだ。
といっても、もともと由美のために編んだものではない。
秋も終わるという頃、クラスの女子で編み物が流行った時、真由子は他の友人と一緒に始めた。
黒い制服ばかりの教室に持ち寄られた明るい色の毛糸玉は、ライトが当たっているように明るく見えた。
ある子はピンクのマフラーを。ある子は水色の帽子を。オレンジの小物を編んでいる子もいる。
ある子は、黄色のひざ掛けを。友達同士で色違いのものを編んでいる子達もいた。
みんなは、休み時間のごとに数名のグループを作って編み物に精を出した。
そして、一日ごとにお互いの進み具合を見せあった。
去年も編み物をしていたみっちゃんは、中でもとりわけうまかった。
だから、セーターという大物に取り組んでいた。
真由子は、みっちゃんと仲が良かった。
自分もセーターを編む と宣言すると、見よう見まねで教えてもらいつつ必死で編んだ。
最初の数日は編み棒を動かすことに集中するのがやっとだった。手を動かせば口が止まり、口を動かせば手が止まる編み物だった。
真由子の手ののろさを見て、由美は何度も編み物を取り上げて編もうとした。しかし、由美も編み物などしたことがなかった。
お互いのろのろと棒を動かし、進まない編み物でからかいあった。
3,4日して手が慣れて動き始めると、おしゃべりをしながらあっという間に休み時間は流れていった。
スムーズに動き始めた真由子の手を見ると、由美はおしゃべり専門に切り替わった。
由美は細かい作業は苦手だからと言って、自分で毛糸を用意することはなかった。
真由子や他の子たちがせっせと編み物をしながら雑談している間、由美は明るい色の毛糸や、絶え間なく動く編み棒の先を見つめながら、少し話したりぼんやりしたりしていた。
今思えば金銭的な問題で毛糸が買えなかったのかもしれない。
しかし当時中学生の真由子はそこまで考えが及ばなかった。
自分で作って自分で着る。出来あがったら一緒に編み物をしなかった由美に見せびらかすつもりでいた。
ところが、前身頃を編んでみると自分には大きすぎることが分かった。みっちゃんと真由子の毛糸の太さは違っていた。
みっちゃんは中太、真由子は少しでも手間をかけまいと極太の毛糸を買っていた。
計算して編み目の数を変えていたつもりが、どこか間違っていたのだろう。
かと言って、今までの成果をほどいて編み直すのは癪だった。
セーターを編もうと意気込んでいたが、どうサイズを間違えたものか大きすぎる胴体部のために、袖を編むことなく買った毛糸を全部使い果たしてしまうのも明白だった。
はじめは着々と進んだ編み物は、一気にスピードダウンし、太い毛糸を使っているにもかかわらず卒業いっぱいまでかかってようやく仕上げた。
その大きすぎる初めて編んだ目もそろっていない未熟なベストを、真由子は由美にあげたのだ。
あげる前には散々迷っていた。着ないであろうベストであっても、自分の成果を由美に渡すのが惜しかった。
しかし、卒業式が終わってから、ようやく真由子は出来上がったベストを由美にあげる決心をした。
もちろんあげるときには、さも由美のために編んだかのように涼しい顔をしていた。
当時の小遣いで買った安物の毛糸はポサポサにすすけていた。
そして、ジャンバーの裾から、ほどけたらしい毛糸が何本も垂れさがっているのも見つけた。
真由子は遠慮するでもなく、由美のジャンバーの裾をめくって中を見た。
ベストの横端が擦り切れ、網目のように粗くほどけていた。
「まぁ!このベスト、まだ持ってたの? もう10年も昔のじゃない。
破れてるわ、早く捨ててしまってよ。」
もともと出来の悪い仕上がりだったベストがまだ残っているというのが、真由子には恥ずかしかった。
「でもさ、あったかいんだよ、これ。それにこれだけ体が大きいと合う服も売ってないんだ。」
「また編むわよ! だから、もうこれは捨ててしまってよ」
由美はそれには返事せず曖昧にえへへと笑うとジャンバーの裾から出ている毛糸を中に押し込んだ。
ひとしきり話が終わると、由美は自分の町まで歩いて帰って行った。
バスに乗らないの?と聞くと、「ダイエットだよ」と答えた。
その後、真由子が由美にセーターを編むことはなかった。
運転しながら真由子は思い至る。
今も昔もお金がなかったんだよなぁ、由美。
あの時会ったのは本当にただの偶然に出会ったのだろうか。
5年前の春、一人暮らしをしている由美のアパートを訪ねて行ったことがある。
「一人暮らしを始めたので遊びに来てください」そんな内容の手紙をもらったので、一度は果たそうと出かけて行ったのだ。
しかし、出かけつつもあまり真由子は乗り気ではなかった。
手紙には一人暮らしが楽しいことと、「彼氏」ができたという内容だった。
また、彼のためにやる家事が楽しい と書いてあった。
気が向かない真由子が出かけて行ったのは、その「彼」という部分に興味をひかれたからである。
一体どんな人だろう? それを事細かに聞きだしてやろう、よしんば写真か顔を見てやろうと、
それが目的だった。
由美の部屋のカギは開いていた。呼びかけると返事が返ってきた。
ーー部屋は荒れ放題だった。
台所は洗い物が溜まり、ガスレンジの上まで何かの物置になっていた。
汚れた風呂場とトイレのドアが開きっぱなしになっていた。
生きるのがやっとの人間が一人で暮らしている部屋だった。
手紙では彼と同棲寸前という内容だったが、そうではないのは見て明らかだった。
閉め切ったカーテンの隙間から差し込む日の筋が、ただよう部屋の埃をキラキラと照らしている。
不思議なことに部屋にはタンスも物入れもなかった。部屋の壁側から中央部に向かって脱ぎ捨てられた服が積み重なっていた。
チラシやごみの入った買い物袋に埋まっている机の端が見えている。
由美は寒そうにベッドで毛布をかぶって寝ていた。
そのベッドの頭の部分に、薄く埃のかぶった「彼」と由美の二人で撮った写真が一枚飾られていた。
それをみると、少しばかり胸が痛んだ。
来た早々文句を言いかけた真由子だったが、由美の顔を見てその言葉を飲み込んだ。
由美の顔色は悪かった。汚れた薄暗がりの中で見ているからだけではない。
土気色とはこういう色を言うのだろうか。
「由美、具合悪そうね?」
由美は太った体をやっと起こした。
「うん、なんかね、体中がだるくて痛いんだ。仕事はついこの前辞めちゃったんだ。」
由美が実際に仕事を辞めたのは、もう数年前のはずだった。
「お金は?どうやって食べて行ってるのさ?」
「お金はないよ。でも食べモノはお父さんと彼が持ってきてくれるから。彼はすっごく優しいんだ。」
「彼・・どんな彼」
「彼は私より4つ年下なんだよ。私のことを大好きだと言ってくれるよ。」
「・・そう。病院は行ってるの?」
「行ってるよ。もちろん。」
「薬は?ちゃんと飲んでるの?」
「今はたまたま切れちゃったけど、ちゃんと飲んでるよ」
由美は、ちゃんと行ってると言うアピールのためか、薬の袋を振って見せた。
しかし、どう見てもその薬袋は新しいものではなかった。
「薬が切れたのなら、今から病院に行こう。さぁ、着替えて私の車で行こう。」
「いや、いいよ。病院には彼が連れてってくれるから。」
彼なんか来ないだろう。真由子は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「いつ、病院に行くことになってるの?」
「今日だよ、毎週水曜に行くの。今日は水曜だから夕方になったら彼が迎えにきてくれるんだ。彼は今ちょっとだけ出かけてるんだよ。夕方には帰ってくるよ」
「なぁ由美・・」
「そりゃぁ彼だって忙しくてこれない時もあるよ。でも、今日はちゃんと来るよ。今日来なくても、明日には来るよ。ちゃんと来てくれるんだから大丈夫」
座っている由美の足は赤くうっ血していた。
ただ事ではない腫れ方の気がして、真由子は何やら恐ろしくなった。
「足、痛くないの?」
「痛いよ、でも彼がいつも足をさすってくれるんだ」
真由子は黙って由美の足をしばらくさすった。
太っているのに、粉をふいて乾燥した足だった。
これが私と同じ年の、まだ若いはずの女の足だろうか。
赤くうっ血した足が、それでも10分も横になって足をさすっているとあっさり腫れはひいた。
色も本来の肌色に戻ってきたように見えた。
一体、由美はちゃんと歩けるのだろうか?
「由美、どっか出かけようか。来る途中の公園は桜が咲いていたよ。車に乗ったままでもいいからさ、公園の横に車をつけて弁当でも食べよう」
由美は本当は部屋から出たくなかったかも知れない。
しかし素直に「うん」と返事をすると上着を着て、真由子と一緒に外に出た。
アパートの部屋が一階だったのは幸いだった。駐車場が近かったことも。
いや、歩けないほど弱っていると思ったのは真由子の気のせいで、由美は思ったより動けるのだろうか。
車の助手席を勧めようとして、はたと思い当たって、後部座席を勧めた。
助手席は大きな由美には狭すぎる。
由美が乗ると、軽自動車は本当に傾いてしまった。
「真ん中に寄ってよ。」
真由子が言うと、由美はさも大儀そうに体を真ん中の方に傾けた。
尻の位置はほとんど変わっていない。
おかしくなって真由子は笑った。
つられて由美も笑っていた。
二人は最初の予定道理、人気の少ない公園の横に車をつけ、コンビニで買ってきた弁当を食べた。
真由子はあまり話せなかった。口を開くと、由美に否定的なことばかりを言ってしまいそうで、言葉を選んでいるうちに胸がいっぱいになった。
由美はよく話した。彼の話だった。
帰る前に、真由子はこのまま病院に行こうと何度か誘ったが、由美は頑として聞き入れなかった。
由美にとって病院に連れて行ってくれる人は彼だけなのだ。
由美を送って帰る時、真由子はもう一度足をちらりと見た。
さっき真由子がさすって肌色に戻っていた足は、またうっ血した赤黒い足に戻っていた。
太っていたけれど健康で、長い長い距離を歩いて遊びにやってきた由美ではなくなっているのは確かだった。
車内に戻って真由子は思わず祈った。
「彼よ、・・誰か、彼女を救ってください」
その次に由美に会ったのはいつだったか。
翌年だっただろうか。翌々年だっただろうか。
真由子は由美の入院している病室に見舞いに行った。
真由子は手ぶらでお見舞いに行っていた。
食べ物を持って行ってはいけないと思ったのだ。
本なんか嫌いだと言ってた由美に、本を持って行っても無駄だろう。
花・・由美は花を喜ぶのだろうか?
結局真由子は、病院についてから有料のテレビ用のカードでも買って渡そうと考えた。
病院に着き、受付で病室を教えてもらう。
病室にたどり着く前に由美は見つかった。由美は待合室で他の患者とおしゃべりに夢中だった。真由子はしばらく明るい待合室で楽しそうに話す由美の姿を見ていた。
屈託のない由美は大げさな身振りで話し 、何の苦労も悲しみもない人のようだった。
何とは無く真由子は明るい由美の姿を目に焼き付けた。
真由子は素知らぬふりをして待合室に入ると、由美の斜め前の空き椅子に澄まして座った。
かるく会釈をして話を続けかけた由美の口が止まった。
真由子は、すぐに由美から発せられるであろう大声に備えた。
由美に歓迎してもらえることに疑問すら持っていなかった。
由美は声をかけてくれた看護婦に陽気に返事を返し、自分の病室へと向かう。
真由子はその後を付いていった。
入院しているとはいえ、その足取りは以前に自宅を訪ねた時よりはるかに元気そうだった。
白く小綺麗な病室と、乱雑な由美の身の回りの品物のを見ると、真由子は奇妙にほっとした。
由美の病室は3階。明るい窓の外には、すぐ近くに電線があった。
電線に止まっているハトが、由美の姿を見ると何かを期待したように腰をうかせた。
由美はハトに「今は何もないさ」と言うと、日の照る窓のブラインドを下ろした。
二人は取り留めもなく話した。
今後の予定についても語った。
由美は、明日にでも退院するようなことを言った。だからテレビのカードもいらないと言って断られてしまった。
あの部屋はひきはらって、また実家に戻るのだと言っていた。
何不自由ない病院生活に見えたけれど、「もう帰りたい、早く家に帰りたい」と繰り返していた。
そして父とまた暮らすのが楽しみだ。と笑っていた。
体型は相変わらずに見えたが、本人は「ダイエットは着々と進んでいる」と言っていた。
「早く治るといいね」と言うと、由美は急に真顔になった。
「私は太ってるからさ。みんなと同じ量の薬で治ると思う?」
心配げに聞く由美に対して
「医者はそれくらい計算して出しているだろう」と言うと、何度も「そうか、そうだ」と頷いた。
その何週間か後、由美は病院に頼んで早めの退院をした。そして父のもとに帰って一緒に暮らし始めた。
しかし数か月後にはまた出て行った。
父の家からほど近いアパートを借り、ほぼ毎日訪ねて来る父の世話になって生活している。
そんな内容の手紙が最後に来たのはもう3年ほど前だった。
結局、由美は薬の分量を守っていなかった。
由美はどうしようもないやつだ。
そう、宗治の言うとおり、どうしようもないやつだ。
そういう宗治だってそうだ。子供の由美を守る人は誰もいなかった。
みんなみんな、どうしようもないやつだ。
いや、・・真由子は考える。
私は由美達の方だけをどうしようもない人間だと思っていた。
しかし、私もそうだった。
由美を軽蔑しながら、良い人のふりをしながら、優越感に浸っていたのだ。
もしも、人の善意だけを見ながら生きることが出来たら、由美のように生きられるのだろうか。
由美は自分の言葉を信じていたのだろうか。それで幸せだったのだろうか。
由美は幸せになりたかったのだ。だから、あぶくのような幸せにすがっていたのだ。
その由美にとって、私の心情の吐露ほど聞きたくないものは無いだろう。
私の懺悔ほど、幸せに生きようと願っていた由美に不必要なものはないだろう。
たとえ、由美が私の汚さを知っていたとしても。
(その1)
今日、宗治は話しながらたびたび涙ぐんだが、真由子は一滴の涙もこぼしていなかった。
感傷に浸るというより、宗治を前に多少緊張していたのかもしれない。
真由子にとっての由美は、いつ失くしても良い友人、遠慮をする必要すらいらない友人、いくらかの軽蔑を込めた友人だった。
けれども、今になって小学生からのとりとめもない場面が蘇ってきた。
それほど多くもない思い出だったが、胸の内を廻ると、真由子はふとほほ笑んだ。
その時
「真由ちゃん」
耳元で呼び声がした。
娘時代から聞いてきた、間延びしたようなのんびりした呼び声だった。
今振り返れば、由美の姿が後部座席に見えるだろうか!
えへへ と、いつものように曖昧に笑った返事をしてくれるのだろうか。
それとも私を怨んでそこに座っているのだろうか。
振り返れば孤独に死んでいった友人の姿がそこにある気がした。
怖くなどは無かった。
しかし、何一つしてこなかった私が、今更友人に何を言えば良かったろう。
こんな形で。
こんな形で居なくなってしまうのなら。
もっと無茶を言って困らせてくれれば良かったのだ。
知っていたのだ、私は由美の孤独を知っていたのだ。
この期に及んで真由子は振り返らなかった。
代わりに、果てしなく続く山道をぎりりと睨んだ。
涙がとめどなく流れ落ちはじめた。
(その2)
今日、宗治は話しながらたびたび涙ぐんだが、真由子は一滴の涙もこぼしていなかった。
感傷に浸るというより、宗治を前に多少緊張していたのかもしれない。
真由子にとっての由美は、いつ失くしても良い友人、遠慮する必要すらない友人、いくらかの軽蔑を込めた友人だった。
けれども、今になって小学生からのとりとめもない場面が蘇ってきた。
それほど多くもない思い出だったが、胸の内を廻ると、真由子はふとほほ笑んだ。
その時
「真由ちゃん」
耳元で呼び声がした。
娘時代から聞いてきた、間延びしたようなのんびりした呼び声だった。
真由子ははじかれたようにブレーキを踏むと振り返った。
由美!私は・・!
しかし、そこには誰も居はしなかった。
それでも真由子は身をよじって、かつて友が座った後部座席に手を伸ばした。
触れた後部座席に人のぬくもりは無く、ただの冷たいビニールの手触りがした。
真由子は誰も居ない後部座席に向かって、死んだ友人への最後の言葉を掛けようと口を開いた。
しかし喉元でつかえた言葉は、一つの単語にすらならなかった。
私は知っていたのだ。私は由美の孤独を知っていたのだ。
それに対して何もしなかった私が、今更に由美にかけられる言葉とは、
何だ?
真由子は再びのろのろと車を走らせた。
酷く切ない空風が胸の内で暴れて吹き抜けていった。
最後まで読んでくださった方、居るのならありがとうございます。
よろしければ、ラストの(その1)か(その2)は、どちらが好みか教えてくださいませ。
どうぞお願いします。