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side ゼン 62

 



 待ってくれ。


 待っていてくれよ。


 俺が、ちゃんとお前に礼を告げられるまで。


 感謝の気持ちを、きちんと言葉にできるまで、待ってて。



 トゥルート。





『ミミミによろしくのぅ!』



  光が薄れていく。

 トゥルートの姿も。




『ありがとう』



 トゥルートの最後の言葉なのだろうか。

 頭に残されたのは、微かすぎて誰の声なのかもわからない、感謝の言葉だけだった。


「どこの、熔岩龍だよ」



 それからかなりの時間が経ち、ようやく呟けたのは、憎まれ口にも似た、そんな可愛げのない言葉だけだった。



 眩しい白い光はとっくに消えていて、俺は、元いた場所に一人残されていた。




 そうして。



 視界の先には、自身の左手薬指に嵌った指輪。


 それと。


 コロン、と転がる水晶球がひと粒だけ。



 慌てて腕を見ても、手で探してみても、どこにも、あの日からずっと外したことのなかった、腕輪はどこにも見つからなかった。




*********

 


「先輩、この試料の試験結果って」

「んー? それは来週で良かった筈だけど……あぁ、うん。月曜にある部内報告会に使いたいから、むしろ今週っていうか木曜水曜までにくれ。それを基に月間業務成果報告書を捏造しないといけないんだよねぇ」

 へらへらと笑って答える先輩の声に、思わず眉間に皺が寄る。


「先輩? 俺のところに来てたメールでの指示には、単に『来週使うから纏めといて』としか書いてありませんよ」


 ちなみにこれらの会話はリモートワークにおけるボイスチャットだ。

 ムカついたので映像を繋ぎ、ノートPCへメールを表示してライブカメラの前に向かって押し出した。

 先輩のパソコン画面には今、自身が送った雑な指示メールが表示されている筈だ。


「あはははは。悪いな、後輩! 正直、スマンかった」

 ライトにでもサクッと謝られたので、受け入れた。

「わかりました。明日までに纏めて送信しておきますね。他に、実は急ぎだったりする案件はありませんか?」


 試験機の自動化が進み、月に一度や週に一度出勤して、様々な試料や諸条件をセットすると、データが集積され暗号化された状態で送信されてくるようになっている。

 実際に、人間の手でやった方が精度は高い数値が出ることが多いが、再現率を考えると個人の手技による差異がでない分、データとしての有効性が高いと考えられるようになり、実験機の自動化は一気に進んだ。


「んー? 大丈夫じゃねえかな。俺の後輩は優秀だしな! うんうん」

 謝罪も軽いが、誉め言葉も軽い先輩の言葉は、偶にうんざりすることもあったが、そこに悪意を感じることもないので、どちらかというと捻くれ者の自覚のある俺でも素直に受け入れられる。


「わかりました。あと、なにか指示はありますか?」

 リモートになっていても、報連相は仕事の基本だとされて、一日の始まりと終わりにはこうして下から上へとチャットによる報告が上げられることになっていた。


「そうだった。あのさあ、後輩よ」

 なにやら会話の流れに嫌な予感がする。


「そのお前の指輪の相手についてだけどさぁ」

「却下します。プライベートについて社内のチャット報告で取り扱うことは許されていません」


「くっ。面談とか飲み会でだって教えてくれない癖に。麟ちゃんったら、冷たいわね!」


「……なんでそこでオネエが入るんですか?」


「いいじゃねぇか。なんとなく恋愛相談っていったら人生経験の豊富なオネエって感じがしねえ?」


 意味不明な物言いに肩を竦めた。


「では今日の業務に入ります。また5時になりましたらよろしくお願いしますね」


「あっ。おい、待て後輩! お前の彼女について調べてくるようにだな、俺は任務を命じられているんだ。教えろ。いや、教えろクダサイ☆」

「嫌です。我が社では副業は認められていませんよ? コンプラ課に密告されたくはないですよね」

「やーだー。総務の里香ちゃんにお願いされたんだよぅ。報告する時に一緒にゴハンに行ってくれるって言ってたんだもん。俺の恋を応援してくれよ、コウハ」

「では業務に移ります」

 意味が分からないので、言葉を遮ってサクッとカメラとボイスチャットを切った。



「珈琲でも飲むか」

 イマイチやる気が削がれてしまったので、仕切り直すことにする。

 立ち上がって、珈琲メーカーをセットした。

 濃いめの珈琲をゆっくり飲むのが好きだ。

 あちらでのように朝から赤ワインを呑むような生活は許されない。


 コポコポという音と共に、珈琲のいい香りが立ち昇っていく中、俺は左手薬指に嵌っている指輪をじいっと見つめた。



「なにも、起こらないままだな」

 くすりと笑う。


 トゥルートの声も聞こえなくなり、俺以外には見えない腕輪も消え去った。

 残されているのは、この指輪と、ビー玉にしか見えない水晶球、そして俺の記憶だけとなった。


 それと。こちらに来てから迷走したとも思える、がむしゃらすぎる努力の記憶と記録。


 パスポートに残る最初の出国が一人旅。

 その後も年一で秘境に出る無謀っぷりは、今の自分には考えられないほどの行動力だ。


 それは誰かから期待を掛けられてやることを決めたようなことではない。

 俺が、俺自身の望みとして、実行を決めたことでしかない。

 けれど、結果がどうなっていれば正解となるのか、努力を始めたその場所が正しい場所であったのかも、正しい努力だったのかも何も分からない。

 無いない尽くしの、無謀な行為。

 それが、俺の10年。


 …………。


 疫病は、すっかり単なるちょっと伝染し易い風邪という認識になった。

 ワクチンも開発されたが、重症化することがない為に普及しなかった。

 治療薬は開発が進んで、海外ではすでに認可薬として普及しているが、日本ではまだ国の承認待ちとなっている状態だ。


 世界はミミミから聞かされたそれとは、まるきり違うものとなった。変わり過ぎた。


 俺が知っている生活とも全然変わってしまって、まさに未来に生きている気がしている。

 だが、ミミミから聞かされていた悲惨な生活ともあまりにも違い過ぎていて、やはりあれは俺の妄想だったんじゃないかという気がしてきていた。



 親との折り合いも悪く、友人もいない俺が、濁流に飲まれて記憶が混乱していたからこその、妄想。


 それに基づいて、俺は人生をやり直そうとしていたんじゃないのかと、大人になり、冷静に物事を考えられるようになった今、思ってしまうのだ。



 それでも、何故、あの濁流に流された川で拾っただけの筈の、この指輪を外すことができないのか。



 それについては、未だに答えは出ない。




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