side ゼン 38
「それじゃ。今度こそ俺は、還るよ。ありが」
そこまで言った時だった。
この期に及んで、この家に誰かが訊ねてきた。
表の店の定休日である今日この日に、今ここにいる顔ぶれ以外で、この家のベルを鳴らすような相手が思いつかなかったが、ベルルーシアの店は新たに外の世界から落ちてきて、仲間に拾われた者たちへ手を差し伸べる場所ともなっていたので無視する気にはならない。
「あらん。私にお客様かしらぁ。空気の読めない落ち人さんでも来ちゃったかしらねぇ」
異世界との狭間にいきなり落ちてくる羽目になった人間に、場の空気も何もないと思う。
だが、確かに永遠のお別れを告げようとした今この時というのはちょっと気まずい。タイミングとしてはあまり嬉しくない。
しばらくして、玄関に客人を迎えに行っていたベルルーシアが困惑の表情で居間へと戻ってきた。
「私へのお客様じゃなかったわん」
居間へと戻ってきたベルルーシアが一歩ズレると、後ろをついてきていた男が頭を下げた。
「間に合ったようですね。ゼンさん、ご無沙汰しておりました。お久しぶりです」
それは、一番この場所にふさわしくない男だった。
初めて顔を合わせた時とは違う、圧倒的な存在感と威圧感。
記憶の中のものと同じ、仕立ての良い光沢のある厚手の朱子織のウェストコートとひと房だけ額に掛かっている綺麗に撫でつけられたグレイの髪。糸の様に細い眦のうりざね顔も確かに記憶にあるそれだった。
前に会った時と同じ顔をした全く違う誰かが、そこに立っていた。
同じ顔をしているが男がそこにいるのに、受ける印象がまるで違う。
胡散臭さばかりが鼻に付いた前回。それでも会話をしていく内にいつの間にか好意を抱くまでに至った。対人スキルとしては最凶最悪であろう精神支配を駆使する男。それが、中央教会のトップにして指導者、教皇シメオンその人だった。
だがそれは既に過去形のはずだ。あの男の……あの男達の魂は神を欺いた罪により、多分地獄というに相応しい場所へと連れていかれ、代わりの魂と入れ替えさせられた。
入れ替えさせられてから、こうして顔を合わせるのは初めてだ。
今ここにいるのは、トゥルートの依り代となった母胎内で死を迎えた嬰児から生まれた集合体・付喪神のようなものだという。
そうしてこのシメオンは、ミミミの完全なる治癒の件ではこちらに配慮してくれたことは確かだが、その代償だとばかりに治癒に関する魔法陣制作に協力を求めてきた男でもある。
油断ならない、という点ではこの男も間違いなくそう同じであろう。
「突然の来訪、失礼致しました」
慇懃無礼という言葉もあるが、頭を下げているにもかかわらず仕草のすべてがどこか威圧的だ。
「こちらへは、どうやって?」
何より、どうやってここに入ってきたのかだけでも確かめねば。
場合によってはここの放棄もしなければならなくなる。
教会は、トゥルートがいても俺たち異世界からの落ち人の味方というには微妙な存在だ。
あの突然起こった金環日食は、当然だがこの国の身でなく全世界において観測された。
あの島で起きた大噴火も。
薄暗い闇を引き裂くような怒れる神々の島での大噴火は、遠く近隣諸国からも観測されたそうだ。
濃色の闇の中、空に浮かぶ金色の環の下で噴き上がる熔岩は、遠方からこそ神への恐れを呼び起こし、身分と責任のある者以外は皆、家の戸を固く締め家族と共に引き籠るか、教会に参じて神の救いを求めて祈りを捧げた。
もちろん、恐怖に打ち勝ち遠い空を見つめ続けた者には、熔岩龍との戦闘による攻撃の様子までもが見て取れたという。ミミミの魔法による水柱は熔岩の赤い色を受け不穏な輝きを持って天を切り裂くように伸びていき、荒ぶる龍のブレスは暗雲を切り裂く希望の光ではなく、この世へと終わり告げる神の鉄槌を思わせた。
観察記録を残す使命を帯びた者たちを骨の髄まで恐怖で震え、記録簿は本人ですら恐怖にペンを持つ手が強張り、何度も書き損じた後があったとされる。
その後、島から一番近い場所にある、この国の王達を過去送りにしたことで世界に更なる混乱が生じ、世界の滅亡が密かに囁かれるようになった頃。
トゥルートから齎された情報を基に教会は様々な発表を行い、世界は落ち着きをみせた。
しかし、その発表はあまりにもトゥルートの視点に基づくもの過ぎた。
俺達にとっても都合が良すぎた。誰が掘ったかもわからない落とし穴である可能性を訝しむほどに。
このシメオンが敵に回るのかどうかを、見極めなくてはいけない。たとえ、その結果として今日あちらに帰ることも諦めねばいけなくなろうとも、俺はここにいる仲間を守らねばならない。
その責任が俺にはある。
俺は、話し掛けながらさりげなく部屋の中を移動し、視界の中にシメオンとトゥルートが入るようにした。
尊大な様子のシメオンと、神々しい光の中に立つ人影と化したトゥルート。
あの日のトゥルートの言葉を信じるならば、今のシメオンは怒れる神々の島で初めて会った神官トゥルートの魂と同じ存在の筈だ。
しかし、目の前にいるシメオンからは、もっと人間らしい権威に驕る世俗的なものを受ける。
しかし、そんな俺の心の内に気が付いていないシメオンが胸に手を当て、語り出す。
「神に。あなたに会いたいと祈りを捧げ、此処へ連れて来て貰いました。ご安心ください、入り方は知りません。多分、ここのドアから追い出された時点で、私は元の自分に与えられた部屋にいることでしょう」
そんなシメオンの言葉に、俺の視界の中にいるトゥルートはまったく反応を見せなかった。
──何を考えているのか。
光に溶け込むトゥルートの表情はわからない。だが、それでもシメオンの言動に思うところがあれば、何か伝わってくるものがあるような気がする。
そう信じてもいいのではないか、と思う程度には、俺はこの胡散臭さしかない変な言葉使いをする異世界からの大神官を信じているようだ。
いや、こんな言葉遊びで誤魔化すような真似は必要ない。俺はもうこの胡散臭い幽霊の事を信じている。
「へぇ。神がねぇ。それで? 俺に会って何がしたいんだ」
「まずは、謝罪。そして……感謝を」
そういうと、シメオンがその場で膝をつき頭を下げた。
「謝罪と感謝。そのどちらも、俺が中央教会の教皇である貴方から受けるようなことは何もないと思いますが?」
俺と因縁があるシメオンはもういない。
そうトゥルートが言ったのだ。それを疑うことはない。
「いいえ、いいえ! 謝罪も感謝も、後ろにいらっしゃるもうひと方、ベルルーシア様へもお伝えしたいのです。異世界からの大神官トゥルート様がこの世界をお救い下さったのは私自身が一番よく知っております。それに、あの頃の私はまったく気が付いていなかった。何も見えない私達は、あの方によってこの世界へと残れたのに。母の胎の中で死して産まれ母や父を悲しませるような事にならずに済み、更に栄誉と報酬を両親へ齎すことすらできたのに。私たちが死産になったのはトゥルート様のせいではなかった。先に私たちの死があったのだと。何も知らなかったとはいえ、勝手に恨んで使命を押し付けられたと思い込むなど。私は私が恥ずかしい」
膝をつき俯いたまま、絞りだすような声で謝罪を告げるシメオンの肩は小さく震えていた。
それは、先ほど居間へと入ってきた時の尊大な態度からは考えられないほど真摯なものに見える。




