side ゼン 33
「帰還」
ついにその呪文を口にしたミミミの身体の周りに、白金の光の環が幾重にも浮かぶ。
「……ミミミッ!」
白金色の環に包まれて見えなくなっていく姿に、その名前を呼んだ。
けれど。
すでに展開していた魔法陣が止まる訳もなく、彼女の姿は消えていた。
その代わり。
──カツン。
床に何かが落ちた硬い音が残された。
クリスタル製の小瓶。
彼女が最も元の世界へ持ち込みたかった物、真万能薬が落ちていた。
『おおぅ。なんちゅうことじゃ。元の世界には、持っていけなんだか』
「……この国の召喚術と私の異世界移動は、根本的に構築術式が違うんだもの」
トゥルートとベルルーシアが、小瓶を前に頭を抱えて嘆くのを見ながら、俺はやはり残って正解だったと思わずにはいられなかった。
床に残された小瓶を拾い上げ、見えもしない埃を払う仕草をする。
この小瓶をあちらへ持っていけなかったことを知った彼女の落胆を思うと胸が塞いだ。
だが。
今、一つの失敗がわかった。──ベルルーシアの帰還方法だと元の世界から持ち込んだものを持って帰ることは出来ても、持ち物として持っていくことは難しい。しかし、指輪の形で指へと嵌めた魔法陣は、こちら側に落ちなかった。つまりは持っていけたという事だろう。どこまでなら持っていけるのか、どこにその線引きはあるのか。許されるラインを探さなければ。
こうやって、ミミミの願いが失敗する要因を見つけたなら、俺は、それを潰していけばいい。
そうして、成功出来得る可能性を極限まで高めた状態で、俺はあちらへと帰るのだ。
「まぁ想定内だ。こんな事もあるんじゃないかと思って俺はここに残ったんだ。あちらの世界に魔法はない。つまり戻った元の世界で、俺たちは癒し手の魔法を使えない可能性だってある。だからどうあっても薬を持っていかせたかったんだが」
ミミミを見送った今、思いを確たるものとして宣言し、きちんと協力を要請しなければ。
「残念だが、やはりそのままでは薬をあちらの世界へ持ち込むのは難しいようだ。だが、なんとしてもこの薬をあちらの世界に持ち込む方法を考えたい。そして、それと並行して魔法を使えなくとも癒し手の魔法が発動できる方策を見つけてから、俺は俺の世界に戻ろうと思う。何年掛かろうとも。何か手段はある筈だ」
専門的な知識のない俺が一人で足掻いても、時間だけ費やすことになって、何時まで経っても何も為せないだろう。
勿論、誰の協力を得ることができなくとも、諦めるつもりは無いが。
「な、にを言っているの? ゼン、あなたはミミミと同じ世界へは帰らないと決めたんじゃなかったの?」
ベルルーシアから、訝し気に問い掛けられる。
視線を合わせ、覚悟を込めて、否定の言葉を口にした。
「ミミミの両親を救う。その為の方策を、何年でも何十年でも掛けて手に入れるつもりだ」
ミミミがこちらに来た”令和”という元号は、ゼンが召喚を受けたあの日の、”平成”の次の時代であり、ミミミが通っていた大学の名も少し前に名前が変わったばかりだと言ってた。
知らない元号。
記憶にあるものと微妙に違う大学名。
巷で流行っていたゲームの続編は十作目を超えているという。
なによりも、ミミミが言っていた住所の地名を俺は聞いたことすら無かった。あの県にそんな市があっただろうか。
平成の大合併という政策が始まっていたのは知っている。TVで散々特集が組まれていた。
だが、その結果として生まれた新しい地名など知らない。
ふたりで過ごしたあの夜に、ミミミと交換した情報について、考えれば考えるほど、魔法というもののない、日本という名前の、別の次元にある俺の知らない日本を想像してしまった。
元の世界に戻って彼女の自宅を訪ねても、彼女はいない。
それどころか同じ地名もない。見つけられない。
──そんな無慈悲で惨い想像が頭の中から消えることはなかった。
だが、それでも。
「俺が戻る場所、それはミミミにとって過去だ。そこで疫病を抑え込むことに成功すれば、あいつの本当の願い──”両親のいる未来”が叶うんだ」
俺だけが、彼女が口に出そうとしない「両親の死を回避する」という心の奥底に秘めた願いを叶えられる可能性がある。
それに気が付いたからには、試すことなく諦めることなどできない。
「そんな……。そんなこと考えてたの? てっきりこの世界で冒険者がやりたくて残ったんだと思ってたわ。多分、ミミミもそう思ってたわよ?」
エルルドの批難を、全面的に肯定した。
「知ってる」
俺が一緒に帰らないと宣言した時の、あの愕然とした表情。
あの表情だって、今の俺を支えている。
あれは、それだけ俺といる未来があると思ってくれていた証だと思えるから。
「なら、なんで訂正しなかったの?!」
攻撃的に荒げられた声は、エルルドの強い批難に満ちていた。
睨む視線に、視線を合わせる。
真剣な表情でこちらを見つめるエルルドの瞳の中に、ミミミへの、仲間としての思いが見て取れて、こちらも真摯に思いを素直に伝えなくてはと思った。
「……どうしてと言われてもな。ミミミがした失敗を基にそれに対して処置を講じて再度挑戦したとして、……それが成功するとどうして分かる? いくら可能性を高めようと想定外のことが起って、結局疫病を抑えることはできないかもしれないじゃないか」
いや。疫病を抑え込めても、違う要因で両親が亡くなってしまう事だってあり得るのだ。
ミミミが口にすることすらできないでいた望みに対して、軽々しく『おれなら助けられる』など口にできる訳がない。
「でも!」
「変な期待を持たせる訳にはいかない。違う方法を選んだ挙句、元の世界に戻ることすら失敗する可能性だってあるんだ。何十年も、来ることのない俺と合流する日を待たせる訳に絶対にいかない」
「でも、ゼン!」
言葉を重ねて言い縋ろうとするエルルドをベルルーシアが抑えた。
肩を掴んだ母親に、言葉なく首を横に振られたエルルドは憤懣やるかたないと言わんばかりの表情をしながらも引き下がる。
「ベルルーシアにお願いしたい。愛する家族の下へ帰ろうとしている所なのに心苦しいのだが、俺に、魔法陣の描き方を教えてくれないか?」
完全治癒とその広域化、そしてこの世界からの帰還について。
それらを完璧に空で描けるようになりたい。できるようにならなくてはならない。
「やあね。魔法陣について超初歩的な知識も素養もない癖に。無茶振りするわねぇ。うふふ。でも、いいわよぅ。私のゼンの頼みだもの。それに、ゼンの愛するミミミのためだものねぇ?」
うふん、とベルルーシアが目を眇める。その魅惑的な唇が、嬉しそうに弧を描いた。
『どちらの魔法陣も、描き上げる手伝いを儂にもさせておくれ。完全治癒に関しては、この世界に漏らさんとミミミに誓うぞぃ』
異世界から召喚された大神官は、普段ののほほんとした表情を珍しく引き締めて、名乗りを上げた。
『儂ぁ本気じゃぞい。嘘も引っ掛けも一つもなしじゃ』
この、半透明の神官と出会ってからまだひと月も経っていない。
コイツの言葉の裏には絶対に何かあるに違いないとしか思えない言行動ばかりしているし、実際に散々振り回された。
そんなふざけた態度ばかりだった男が初めて見せる真摯な表情と言葉に、俺は素直に頷いた。
「ありがとうございます。こことは違う異世界の知識、ぜひ活用させて下さい」
頼もしい魔術師たちへ向けて、頭を深く下げた。




