記憶は余裕と共に消え
記憶の中にあるお父さんの手よりも大きな手に、優しく頭や背中を何度も何度も撫でられ、バクバクと煩かった心音が落ち着いてくる。
目の奥がチカチカしていたのも、治まって来た。
全く力が入らなかった身体も、今なら動かせそうだ。
ずっと私の事を看ていてくれたシグラを、そろそろ解放してあげないと。
そう思って身動ぎすると、それを緩い力で押し返された。
「うらら、まだ、やすんでて」
「でもシグラも疲れるでしょ?」
シグラは少し体勢を変え、添い寝と言うよりも包み込むように私の身体に腕を回した。
「しぐらは、うららに、くっついていたい」
じゃあ、もう少しこのままで良いかな……。
彼にもう少し甘えていたかった事もあり、その誘惑には勝てなかった。
少しだけ動く腕を彼の背中に回して、目を閉じる。
シグラの匂いに、寝室に飾っている彼から貰った魔種の花の苺の匂いがほのかに混ざる。与えられる体温も相まって、とても心地が良かった。
やっぱり此処に引き籠っていたいなあ。
キララも…それにアウロやロナが居てくれたら、何の心配も無く、ずっと此処に居られるのに。
あんな怖い事は…
「…っ、」
嫌なものを思い出し、息が詰まる。
慌てて違う事を思い出そうと必死になるが、次から次へと先程の男達の事が頭に過ってしまう。
服を脱ぎながら追いかけてきた、あの顔。
生臭い息。
シグラの結界を壊されそうになった恐怖。
治まっていた動悸がまた激しくなり、胸を抑えた。
―――気持ちに余裕が出てきたから、嫌な事まで考えてしまうんだ!
「し、シグラ」
「だいじょうぶ?うらら」
「お願いがあるの」
私がそう言うと、彼は目を細めて「なんでもいって」と続きを促してくれる。
「何でも良いから、私の余裕が無くなる事、して!」
流石に無茶ぶりしすぎたか、シグラは目をぱちくりさせて“よゆう?”とオウム返しした。
「なんでもいいの?」
「お願い!」
シグラは“うーん”と少し考えた後、私から身体を離し、馬乗りになった。そして私の脇腹に手を置き……
「ちょ、ひゃ!や、だめぇえ、ひえっ、ひわ!」
擽り始めた。
『脇の下や足の裏も擽りポイントですよ』
パルにより変なアシストがされ、今度は足の裏を擽られる。
「ひゃだ、ひゃだ!変な感じするうっ、背筋がぞくぞくする…!しぐら、足の裏駄目!だめ!」
彼の手から逃げるように身体をよじって、うつ伏せに。
「うーん?じゃあここ?」
「やはっ、あ、あはははっ!あはははははっ!!」
脇から横腹までを撫でられ、お腹が痛くなるくらい笑い転げた。
はー、はー…と息も絶え絶えになった頃に漸くシグラは擽るのを止めてくれた。
「よゆう、なくなった?」
「うん……なくなった」
どうしよう、笑い皺できてるかも。口元をぐにぐにと解していると、シグラが覗き込んできた。
「いたいの?」
「な、なんでもないよ」
口元に皺が出来てるのを見られるのが恥ずかしくて手で隠そうとしたが、その手をシグラに取られた。
「あまり見ないで…ええっ!」
口の端を舐めらる。
「ちょ、しぐ…」
「うらら…うごかないで」
頬と顎を掴まれ、そのまま唇を塞がれた。
「んううう!?」
頭の中が真っ白になる。
小さなリップ音と共にシグラの顔が離れると、くったりと全身から力が抜けた。
初めてされたキスよりも、随分と深いものだった。
ぽやっと彼の顔を見ていたら、またシグラが近づいてくる。
「もういちど、していい?」
とろん、と甘い蜂蜜のような目で見つめられ、思わず頷く。
「ん…」
それから彼の気が済むまで口付けをされ、放された時にはもう恐怖の記憶はシグラとの記憶に塗り替えられていた。
■■■
「姉は大丈夫だったのか?」
お昼前にキララがひょっこりとバスコンに入って来た。
その時私はダイネットでシグラとお茶を飲みながら、ぼんやりと窓の景色を見ているところだった。
キララは大量のパンが入った籠を持っていて、それをテーブルに置いた。お昼ごはんにどうぞという事らしい。
「姉“は”って、何かあったの?」
「いや、まあ。姉の方はあのロロットって奴にちょっかい出されたんだろ?私達の方はロークにちょっかい出されてさ」
パンはお総菜パンのように、中にとろみのあるシチューが入っていた。
「ちょっかいって……!大丈夫だったの?何されたの?怪我は?」
「私達の方は大丈夫だ。親父もいたし、シグラの結界もあったし。それにルランの親父が助けてくれた」
「ルランさんのお父さん?侯爵様が来ているの?」
籠の中には林檎も3つ入っていた。後でシグラに剥いてあげよう。
「シグラにルランを助けてくれたお礼を言いたいって言ってたぞ。あと、ローク達が迷惑を掛けた事を謝りたいって」
「侯爵様に謝ってもらう事じゃないと思うんだけど…。そう言えばロロットさんはどうなったんだろう」
抉られた屋敷のエントランスでメイドと共に泡を吹いて倒れていたけど、誰かが助けたのだろうか。
ナナーが居たから、彼女が何とかしてくれたのかな。
「さあ?でもあの女やロークはこれまでも色々悪さしてたみたいでさ、侯爵の堪忍袋が切れたって感じだったぞ」
「そうなんだ」
屋敷の準備とか、やけに手際が良いとは思っていたけど、そう言う事をやり慣れている子だったんだなあ。
「で、姉は大丈夫だったのか?シグラがいるから怪我とかはないだろうけど、姉ってすぐ発狂するタイプだし」
「繊細だと言って欲しい。でもまあ、わ…私の方も大丈夫……」
嫌な記憶は少々心臓に悪い記憶にすり替わってしまったし。
キッチンカウンターから果物ナイフを持ってくると、くるくると林檎の皮を剥いていく。
4等分に切り分け、お皿に置いてシグラに渡す。
「私のはウサギにしてくれ」
「はいはい」
キララの分の林檎はウサギにして、同じくお皿に置いて渡した。
「あ、それでな。ククルアって奴いただろ?」
「預かってる男爵の甥っ子君?」
しゃく、と林檎を口にする。甘酸っぱい。
「あいつ、変な能力持ちらしくてな。人の感情が分るとかなんとか。それで人が大勢いる所にいると体調が悪くなるらしい」
「へえ。何か大変な子だね」
「それでな、この車に居た方が楽なんじゃないかって事になってさ。あいつ、此処に連れてきていい?」
「勿論良いよ、保護をするって約束したし。それにね、私もお屋敷じゃなくて此処に居ようかなって思ってて。……シグラも屋敷よりこのバスコンの方が良いみたいだし」
キララは“ふーん”と言うと「じゃあ私もこっちで寝るわ」と軽く決めてしまった。
「やっぱり、こっちの方が良いんだよなあ。屋敷は綺麗だけど、娯楽不足で退屈だし」
「現代っ子め」
食事を済ませた私達は、ククルアを迎えにバスコンを降りた。




