フラウでの洗礼
遡る事少し前のこと。
ゴーアン侯爵領の中にあるフラウという街周辺に着いたのは19時頃だった。
当初、シグラがバスコンを運ぶのは湖竜の被害が無い場所までの予定だったのだが、うっかり目的地であるフラウ迄来てしまったのだ。シグラ曰く「テンション上がった」らしい。
何処でそんなに機嫌が良くなったのだろう。お昼は私が泣いただけで、シグラのテンションが上がる要素は無かったような気がするんだけど……。シグラはドラゴンだから、私の中の物差しでは測れないか。
早く着く分には構わないだろうと思ったのも束の間。降りた場所が少々拙かった。
それはフラウの街の、一番大きな邸宅の庭。つまりゴーアン侯爵のカントリーハウスの庭だった。
しかし、これに関してはシグラは悪くないだろう。何故なら、この邸宅の庭はまるで森だったのだ。
森に囲まれた綺麗なお城。それがこのカントリーハウスだった。
すぐさま警備用に放されていた猟犬に囲まれ、その騒ぎを聞きつけた警備の者が駆けつけてきたのだった。まあ、此方にはルランがいるのだから、すぐに包囲網は解かれたんだけど。
そして今、私達は邸宅の一室に案内されていた。ビロードのカーテンが幾重にも垂らされた、天井までの大きなガラス窓が5つ。家具は高価そうな皿が飾られたキャビネットとソファセットが置いてあるだけの部屋だ。
「姉、お腹減った」
「そうだね、夕食はまだだもんね」
ソファに並んで座るキララとロナが萎れたような顔で項垂れている。
テーブルには紅茶が用意されているが、お茶ではお腹は膨れない。
今ここに居るのは私とシグラ、キララ、ロナ、アウロの5人だ。ルランはこのカントリーハウスの管理を任されている人間に挨拶に行っていて、此処にはいない。どうやらルランの叔父夫妻らしい。
そしてあの男の子は別室で休んでいるそうだ。
キララは目の前に座るシグラをじとーっと見た。
「シグラがテンション上げるからだぞ。予定通りなら、今頃姉の作った飯を食べていたのに」
「ふふふ」
キララの恨み節を聞いても、シグラは嬉しそうに笑うのを止めない。
さっきからずーっと彼はこの調子なのだ。
もしかして熱でもあるのだろうか、とシグラの額に手を当てたのだが、特にそんなこともない。
機嫌が悪いわけじゃないんだから、まあいいか。
不意にカチャリ、と扉が少し開いた。視線を遣ると、扉の向こうに人影が見えた気がした。
ルランが戻ってきたのかと思ったが、そうでもないようだ。扉はそれ以上開くことは無く、ぱたりと閉じられた。
「何だったんだ?」
「さあ?」
・
・
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それからどれだけ時間が経っただろう。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認すると、そろそろ22時を回る頃だった。かれこれ数時間待たされている。
キララとロナはお腹をぐーぐー言わせながら、ソファに寝そべっていた。
「アウロさん、何かおかしくありませんか?」
「そうですねえ」
ほう、っとアウロも溜息を吐く。
叔父夫婦とルランで積もる話もあるだろうが、ここまで私達を放置するだろうか。歓迎されていないのなら、部屋に入れずにさっさとバスコンに戻らせてくれれば良かったのに。
部屋の隅にメイドの女性が控えているのだが、何を話しかけても彼女が動くことは無い。
「あねー…」
「どうしたの?」
「トイレ行きたい……」
「ええっ」
困ってアウロを見ると、彼は頷いてメイドに話しかけてくれた。だが、やはり彼女は微動だにしない。
もしかしたら彼女は世話をする為に此処に居るのではなく、監視しているだけなのかもしれない。
試しにアウロが扉に近づこうとしたら、メイドはサッと動いて来て扉をガードしてきた。
間違いない。
「ねえ、キララ。念話でルランさんと連絡がとれない?」
「えー?ああ、そっか。その手があった」
トイレを我慢しているところを申し訳ないのだが、キララはもじもじしながらイヤリングを弾いた。
違うだろうとは思うが、万が一ルランの指示でこの状況に私達が置かれているのなら、さっさと力尽くで屋敷から出よう。キララの膀胱の為にも。
それから10分と掛からず、廊下が慌ただしくなり、勢いよく扉が開いた。
ルランに続き40代後半の女性と、そして20代の男女2人が続けさまに入ってくる。
ルランは慌てたように頭を下げながら、20代の女性の方に指示を出した。
「トイレに連れて行ってくれるそうですよ、キララさん」
良かったですねえ、とのほほんとしながらアウロが通訳する。
「…もしかしてキララ、念話でルランさんにトイレ行きたいって言ったの?」
もう少し言い方というものがあるでしょうに。
するとキララは顔を真っ赤にして唇を尖らせた。
「言ってない!でも、頭の中がトイレでいっぱいだったんだもん!」
まだまだ念話の魔道具に慣れていないキララは、言いたい事だけを伝える事ができず、頭に浮かんだものをそのまま送ってしまうようだ。
「あー…ごめんね。アウロさんに念話頼めば良かったね」
「くっそ、とんだ羞恥プレイだ!」
キララの付き添いをしようと私もソファを立ち上がる。すると必然的にシグラも立ち上がった。
「いっしょ、いく」
「あ、うん」
私はアウロに「ちょっと行ってきますね」と伝えると、ロナのことも託される。
キララもロナもお腹が減っているからって、ちょっとお茶を飲み過ぎたみたいだね。
案内してくれる女性の後ろを追って扉を潜ると、部屋で私達を監視していたメイドが扉の外に立っていた。目が合うと目礼だけされる。
先程の行為は彼女の個人的な意地悪だったわけではないのだろう。
誰の指示かわからないけど、陰湿な事をする人物が居るようだ。
■■■
トイレの外でキララとロナを待っている間の事。
私達を案内してくれた女性がちらちらと此方を見ているのに気づいた。
此方から話しかけた方が良いかな、とは思うが言葉が通じないからなあ……。
すると、耐えきれなくなったのか、女性の方から話しかけてきた。
「しゃお、しゃおお?しゃおおしゃ」
「あ…っと、ごめんなさい、言葉が…」
困ったなあと思っていると、隣に居たシグラが私の手を引き背中に隠した。
そして少し苛ついた声で「しゃおしゃお」と女性の対応を始めた。
「シグラ、彼女は何を?」
「うららは、しらなくて、いいよ」
そうは言われても気になる。パルを呼んでも良いんだけど、精霊付きだと勘違いされるのも面倒か。ふとポケットの中にスマホがあるのに気づく。
―――キララの真似をして録音しちゃえ。
シグラと彼女の会話は彼女が一方的に何かを言っていて、偶にシグラが嫌そうな顔をして応対する、といったものだった。
そしてそれはロナが戻ってくるまで続く事となる。
というのも、ロナが「しゃおお!しゃお、しゃおー!しゃおしゃおしゃしゃおおー…」と少々大きめな声で女性をまくし立てて会話が終わったのだ。
ロナはちょっと興奮しているようで、ふんすふんすと肩で息をしていた。
一方、シグラはロナの頭をぐりぐり撫でている。ロナはシグラの味方をしてくれたのかな?
よくわからないけど、私も褒めておこうと思い、ロナの頭を撫でておいた。
後で会話の内容を知らされ、叫び声をあげることになるとは、この時の私には知る由もなかった。




