ガビ子爵領
「おはよう、シグラ」
寝室のカーテンを開けると、階段下にいるシグラは布団の上に座ったまま、まだ眠そうな様子でシャツのボタンを留めていた。昨日は少し夜更かししてしまったから、寝不足なのかもしれない。
そんな彼の傍に座り、リボンタイを結んでやって、頬にキスをする。するとシグラもすぐに私の頬に唇を寄せた。
「髪の毛も結うね」
「うん」
彼の支度を整えている間、ダイネットからアウロとロナの声が聞こえてくる。ロナは作業はずっと向こうでしていたが、夜は此方に戻ってバンクベッドで寝たようだ。
作業。指輪制作。ふふふ、と笑いが零れる。
髪を結い終えると、そのままシグラの大きな背中に抱きついた。
「どうしたの?」
「何でもない」
とても嬉しい。マダオとの結婚を控えていた時は、こんなに嬉しくて楽しみだと思った事はなかったのに。
昨夜シグラは、今にも死んでしまいそうな顔で、私を苦しまない様に死なせてくれると言ってくれた。
シビアなドラゴン事情を知らない同僚や地元の友達が知れば「ヤンデレか!」と言われるかもしれないが、これはとんでもなく愛情深いゆえに出てきた言葉だと、私にはわかる。
シグラを見ていればわかるが、ドラゴンの雄にとって、番を殺す苦痛は計り知れないものの筈なのだ。
それを私の為に実行すると言ってくれたのだ。
この人なら、大丈夫だと思えた。
それに、今までのシグラは私の為に死にたいとは言ってくれていたが、そこから一歩進んで、きちんと遺された私の事も考えてくれるようになったんだなあ、と嬉しく思う。
……うーん、そんな事で嬉しく思うなんて、と思わず苦笑する。郷に入っては郷に従えというけど、私も段々と異世界とドラゴン色に染まってきているのかもしれない。
「キララー、そろそろ起きなさい」
シグラをダイネットへ送り出すと、まだ寝室で眠っている妹に声を掛ける。
これから私達は朝食をとり、出発の準備を整える。
今日はアルク伯爵領を出てガビ子爵領へと入る予定だ。
■■■
関所の前とその傍にある街では少々の混乱が残っていたが、それでも貴族専用の入り口を利用した事によって、私達はすんなりと関所越えを果たせた。
子爵領側にも関所傍に街があり、マディア達の馬車を預ける為、そこに立ち寄る事は事前に話し合って決めていた。先導するマディア達の馬車が予定通りそちらに進路を取ったので、それに続くように私もハンドルを切った。
街に入ると、意識は戻ったがまだ本調子ではない侍女・メメを私達の馬車に移動させ、マディアと護衛騎士のイーデは子爵家の馬車に乗って街の代表者の元へ出かけて行った。代表者に挨拶がてら、馬車を預かってくれとお願いをするそうだ。
そして、残された私達は……
「マディアさん達が用事を済ませるのに少し時間が掛かるらしいから、その間に食料や日用雑貨を買い足しに行きたいんだけど」
キララにそう言うとすぐに「私も行く」と喰いついてきた。
「どれだけ買うんだ?」
「うーん……」
今朝の朝食時に訊いたのだが、ガビ子爵の屋敷がある街には関所から馬車で3日程だそうだ。恐らくバスコンなら頑張れば今日か明日中には付くだろう。しかし念のために余裕は持たせた方がいいから……。
「取り敢えずナベリウスさんも合わせて18人の、5日……いや、4日分ね」
お金はゴーアン家から預かっているけど、行軍資金の一部なので私達が贅沢をしていいお金ではない。しっかりと管理して使わないと。
今回の買い出しには私とシグラとキララとアウロ、そしてルランとナギが参戦する。
ロナは作業の為、マレインは傭兵達の監視の為に留守番である。人混みが好きではないククルアも留守番を選んだ。
「取り敢えずジャガイモと玉ねぎと人参、お米と小麦粉とパスタは必須で、後は卵と牛乳とチーズとー……」
「姉、姉」
キララに手を引かれる。
「どうしたの?」
「パフェの約束、忘れてないよな?」
あー……。妖精草の時のアレね。
「覚えてる、覚えてる。何パフェが良いの?」
キララは目を輝かせて「苺パフェ!」と答えた。
じゃあ苺も買わないと。……流石にゴーアンさんのお金で買うのは憚られるので、自費でね。
市場に行くと、果実なのか野菜なのか判別がつかない、鮮やかな物品が多く並んでいる。地球で見たことのある物は大体全体の3割くらいかな。あとは全然見たことのない物ばかりだ。
今までは日本でも馴染みのある物ばかりを仕入れていたが、少しはこの世界の野菜にも慣れていった方が良いかもしれない。
「アウロさん、葉物野菜で日持ちのする物ってあるんですか?」
「そうですねえ。葉物かどうかは怪しいですが、これとかどうですか?」
アウロが手に取ったのは、アロエのような肉厚の葉っぱだった。
「これ、どうやって食べるんですか?」
「煮込むと、この果肉が蕩けてとろとろのスープになるんですよ。味は無味に近いですね。名前はトウフの葉と言って、異国の言葉で畑の肉という意味だそうですよ」
トウフ……畑の肉……。
「……何となく、日本語の香りがします」
「そうなんですか?では賢者の方が命名したんでしょうね」
次にアウロは太い茎に葉が多くついている野菜を手に取った。
「これは茎が萎むまで、葉が新鮮さを保つ野菜です。名前はマルデツナと言います」
「へえー、買ってみようかな」
ちなみに「味がツナだこれ!」とキララと2人でテンションを上げるのは、また後日の話。
イタリア語で“愛しのアメリア”という名のフルーツや“メリッサの唇”という名のハーブも発見した。
―――過去にどの国の人が賢者として召喚されたのかわかって、楽しいなあ
ちょっと残念なのは、私は職業柄、英会話の勉強はしたが、他の言語については挨拶や主要な単語くらいしか解らない事だった。もしも色々な国の言葉が堪能であれば、もっと沢山賢者が名付けたであろう物を見つける事ができただろうなあ。
ちょこちょこ買いをした後、本命のジャガイモと玉ねぎと人参をそれぞれ数箱買い、それをシグラとルランが軽々と持った。その光景が人外すぎて目立たないかなと思ったが、アウロが言うには、肉体強化という魔法があるので、そこまで珍しい光景でもないそうだ。そう言えば昨日も肉体強化の魔法を使ったロナが水の入った重い盥を軽々と持ちあげていたっけ。
「まだもてるよ」とシグラは笑っていたが、箱のせいで前が見えなくなっているようだったので、一旦バスコンに引き返した。
「次は主食のお米と小麦粉とパスタを買わないと」
「調味料類は大丈夫ですか?」
「あ、調味料も欲しいです」
何度も行って帰ってを繰り返していると時間が掛かるので、ここで3チームに分かれる事にした。
米と小麦粉とパスタはルランとナギ担当、私とシグラが調味料や卵やチーズと言った細々とした食料品担当、雑貨はキララとアウロ担当となった。
何となくキララがまた遊びで何かを買ってきそうな予感がし、アウロに強請って迷惑を掛けてはいけないので、予め少しだけお小遣いを渡しておいた。
チームごとに分かれ、私はシグラと手を繋いで、先程行っていた市場の方へと歩く。
「……」
ちらりと隣を歩くシグラの顔を見上げる。
買い出しではあるが、二人きりなのでデートだと錯覚してしまい、心の中がふわふわしてしまう。
―――だって、ちゃんと結婚の約束をした次の日だし……
腕を組みたいとお願いしてみようかな?
そんな事を思っていると。
「おおーい、シグラと嫁御やーい」
天の声……
良い雰囲気だったのに、急に現実に戻される。
「……どうかしたんですか?アガレスさん」
「何かのう、お主らのすぐ傍に、日本語を喋っておる者がおるぞ」
「え?」
若干つんけんとしてアガレスに返事をすると、看過できないような言葉を言われる。慌てて辺りを見回すが此処は街中で、雑音が多くて私には聞き取れなかった。
「シグラ、わかる?」
「んー……、うん。アイツだ」
シグラは少しだけ探る様子を見せてから、建物と建物の間を指さす。
「あの、うずくまってる、こども」
シグラと同じ赤い髪の毛の男の子が、ガラの悪い男達に囲まれて震えていた。




