人恋月 -ヒトコイヅキ-
月に魅せられて。
今も昔も変わらず暗闇を照らし輝き続ける。
自分に射し込むその柔らかな光に安心していた。
暗闇にポッカリと浮かぶ月が希望の光のように感じられたから。
自分にも希望の光が射し込む様な気がしたから…。
いつだっただろう。
小さな頃からの癖が直っていた事に気付いたのは。
夜空に浮かぶ月を見上げる癖が。
多分…高3の春。
光が射し込む事の無い、心の奥底に潜む漆黒の闇に囚われていた頃。
幼過ぎた自分。
あの頃の俺はユラユラと頼り無く揺れて必死にバランスを保っていた気がする。
寂しいなんて思うのは弱いから。
一人でも寂しくなんか無い。
弱い自分を認められず、精一杯背伸びをして自分は強いのだと言い聞かせていただけの偽りの強さにしがみ付いていた。
「んー…、腰痛ぇ…」
ずっと座りっ放しだった身体はギシギシと音が鳴りそうな程に固まっていた。
その身体をほぐすように大きく伸びをするとホッと息を吐いた。
締め切り間近だったからしょうがない。
パソコンの画面とにらめっこ。
眼鏡をデスクに置くと目頭を抑える。
腰痛もドライアイも職業病だろう。
自分が決めた事だから、これまたしょうがない。
相変わらず他人との関わりが最小限の、この仕事を選んだんだから。
行儀悪くイスに片足を乗せるとほったらかしで伸び放題の髪をクシャクシャと混ぜ、デスクにある馴染みの煙草へと手を伸ばす。
中を見るとラスト一本。
「ヤベ…、肺ガン街道まっしぐらだ…」
空になったボックスを握り潰すと一人呟いた。
BGMも無く静寂がつつむ部屋。
感じるのは煙草の匂いだけ。
ボケッとしながら指に挟む煙草を短くしていく。
フルに使っていた脳ミソの休憩時間。
ゆっくりと紫煙吐き出すと、次に感じるのは喉の渇き。
何とも現金な身体だ。
灰皿の中で山を作っている吸殻の隙間に短くなった煙草を揉み消して立ち上がる。
多分俺の死因は肺ガンか、吸殻が燃えて火事になっての焼死かな…、なんて思ってみたり。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、キャップを開けながら時計を見ると深夜の十二時を指していた。
時間の感覚がおかしくなってる。
ペットボトルに口を付けて飲みながら窓に近付き、暫く閉めっ放しになっていたブラインドを開けた。
空には丸い月が浮かんでいた。
惹かれる様に窓を開ける。
開けた窓からは冬の風がカタカタと音を鳴らしながらブラインドを揺らす。
足が冷たい。
冷たく冷えたタイルが素足のままの足を冷やすのも構わず手摺りへ近付いた。
「寒ぃ…」
手摺りに肘をつく。
寄り掛かるように頬杖をつくと無意識に言葉が漏れた。
薄いシャツ一枚だけの今、寒いなんて当たり前だ。
吐き出す息も白く、寒さを倍増させるのに一役買ってくれたみたいだ。
時間も時間だからか、部屋の中同様痛い位の静寂。
冬の空気は澄んでいて月が綺麗に見えた。
黒い紙に黄色い絵の具を落としたかの様にポッカリと。
まるで自分の姿を主張する様に。
自分は此処に居るんだ、と知らせる様に。
目が奪われる。
目が離せない。
一瞬、寒さも忘れた。
「良い月夜じゃないか…」
薄っすらと口元に笑みを浮かべると、煌々と光を放つ月に背を向けて部屋に戻る。
そのまま台所に行くとミネラルウォーターから缶ビールへチェンジ。
締め切りに追われていた仕事も終わった事だし、一人寂しく祝杯と行きますか。
そう、一人寂しく。
今なら素直に感じられる。
一人は寂しいのだと。
触れる体温の暖かさも、耳に留まる声も、目に映る笑顔も、それが感じられない一人は、寂しい。
そう思える様になった自分がなんだか気恥ずかしくもあるけど…嬉しいと感じられる年になったんだろう。
あー、ヤダヤダ。
年取ると感情が湿っぽくなる。
手に持ったビールを片手で器用に開けながら、再度テラスへと向かった。
冷たいタイルに直に座る。
壁に寄り掛かりながらそっと見上げるは、月。
高い位置から段々と落ちて来る。
手に持つビールを口に寄せ、ゆっくりと傾け口に広がる苦さが何だか落ち着かせた。
吹き付ける風が身体を冷やしても、それすら楽しむように。
ひっそりと光を放つ月を見詰めながら、ふと思う。
綺麗だと。
音も無い、静かな夜の空に浮かぶ月が…とても頼りなく見えて。
心許無い光は吹き消えてしまいそうなのに、俺はこの月が愛おしいとさえ思えた。
必死に自分の存在を示しながらも、太陽の光には勝つ事の無い。
それを知りながらも月は訴える。
此処に居ると。
気付け、と。
寂しさを知ってるから。
恋しい、恋しい、恋しい――――
感じたい、触れたい、抱き締めたい。
人の感触を。
この腕に。
シンクロする感情。
グッと胸が苦しくなる。
引き摺られそうな感情を振り切るようにビールを流し込んだ。
もう違う。
俺は知ったから。
この腕に感じる熱も、感触も、喜びも。
だから、もう引き摺られない。
細めた目に映る月は、雲に隠された。
止めよう。
月と昔の自分を重ねるのは。
月を見て、寂しいと思うのは。
空になった缶を握りながら立ち上がる。
顔に掛かる金色の髪を掻き上げると再度顔を出した金色に輝く月に背を向けた。
恋し、恋しい人恋月。
その冷えた身体を暖めるのは、誰?
決して触れる事の叶わない、人恋月。
顔を向ける事無く、俺はブラインドを下ろした。