儚さは少女の夢を見る
タイムスリップ系の短編小説です。誰か大切な人を亡くした経験のある方、良かったら読んでください。
【儚さは天使の夢を見る】
@眠っている間私の人生は止まっている
夜、時計の長い針と短い針が二つ揃って真上を向く頃。暑さに汗が頰を撫で、それを肩で乱暴に拭った。
「はぁ、はぁ」
肩で呼吸しながら、また生暖かい液体を今度は指ですくって舐めた。右手にはカミソリ。左手には血。私は所謂自傷行為の常習者で、定期的に自分の体を切ることで精神を保っていた。精神疾患。私が患っているのは世間的に見てもあまりよろしいものではなく、できれば隠していたいものだ。そのくせ左肩から左手にかけては夏場の服装に困るほど無数の傷を作っていた。死のうと思って手首を切っても、死ねるほど深くは切れなくて、睡眠導入剤の効果が切れると私は目を覚ます。そんな生活を送っていた。
どこで何を間違えたのだろう。頑張って自称進学校に入学したことか、部活の部長を務めたことか、父を亡くす前に優しくしてあげられなかったことか、サヨナラを言えなかったことか。人生には幾つもの選択肢が現れては期限が来ると消え、常に選ばなかった方の後悔が残る。いつも私は人との別れに置いていかれる。「死ねばいいのに」と思っていた相手は実際死んでしまった。私が願ったからか、そんな訳ないのにそうとしか思えない自分もいる。
「パパ……」
深夜になると蚊の鳴くような声で呟いては一人でいる部屋で消えたくなる。もう顔も声もあまり覚えてないくせに、その存在はずっと求めてしまう。当たり前だ。本来なら父母揃った幸せな家庭で生きていくべきなのに。
今日も肉の裂ける音と、ゴミ箱に血の雫が落ちる音を聞いてからじゃないと眠れない。心の中はどんどん赤が侵食してきて、頭の中は飲みすぎた睡眠導入剤でまるでお酒に酔っているような浮遊感に満ちていた。
不意に本棚の一番端に置いてあるアルバムを手に取り、一枚一枚丁寧にめくった。もう二度と戻れない時間が紙媒体の上では永遠に生きていた。毎日手首を切り、オーバードーズをし、アルバムをめくり感傷に浸る。その繰り返し。過去には私が会いたい人が生きていて、それを確認するように写真を撫でた。
ただ今日は違った。いつもは父と私たち家族が写っている場所にしか目がいかなかった。でも、今日は。
「あれ?この格好、どこかで……」
黒のジャージに灰色のパーカー。髪は栗色のショートボブ。どこにでもいそうなその格好だが、左耳のピアスで有り得ない一人の存在だと確信する。私が幼稚園児だった時の運動会の写真の端に写っていたのは、ほかでもない現在の私だった。左耳を触ると確かにそこには兄に誕生日プレゼントとしてもらった世界に一つしかないピアスがあった。
「あ、れ……?」
世界がぐわんと歪んで、睡眠導入剤の飲み過ぎを悔いた。でもそんなこと関係なかった。睡眠導入剤の所為ではない。意地悪な神様がくれた、私を過去に戻す魔法だった。
@「今」なんて無い
目を覚ました私は、近所の交差点の高架上にいた。現在と違う街並みに、「あの日」の記憶が蘇り、鼓動が早くなる。
やめて。「あの日」は繰り返したく無い。たとえこれが夢だとしても。
そうだ、これは夢なんだ。夢の中なら、父を救えるかも知れない。あるはずだった未来を見ることが叶うかも知れない。
慣れた足取りで実家へ向かう。高架を降りて、右に曲がって……。
実家の外には母がいた。母は庭の薔薇の木に水をあげていた。
「こんにちは」
声をかけると、母は水やりをやめてこちらを向いた。
「こんにちは。どちらさま?」
愛想よく笑う母は若かった。まるで過去にタイムスリップしたような夢だ。
「私はーー」
「由美、行ってきます」
玄関のドアが不意に開く。中から出てきたのは父だった。
「あ……」
若いままの父はスーツ姿に身を包んでいて、これから出勤といったところだった。ママと軽くハグをして、「行ってらっしゃい」とママは言った。
「パパいってらっしゃーい!」
家の中から幼い兄と私も出てきた。懐かしいな。私は当時のお気に入りのワンピースを着ていた。
父は私を「知らない人」と認識しているようで、私に「どうも」と軽く会釈した。
「あ、あの!」
私は思わず呼び止めた。
「何か?」
父はちらりと腕時計に目をやって立ち止まった。
「あの、えっと……気をつけて、いってらっしゃい」
「あの日」言いたかった言葉をやっと、やっと言えた。
父は口角を上げて会釈するだけで何も言わずに行ってしまった。少し素っ気なくも見えるその反応も私にとってはすごく尊いことだった。一つ、できなかった後悔が晴れた。
「あの、どちらさま?」
振り向くと母は怪訝そうに訊いてきた。
「あ、あの、私!お隣のアパートに越してきた者です。お庭の薔薇がとても綺麗だなって思って、つい声をかけてしまいました!すみません!」
早口でどんどん嘘が流れた。
薔薇の話を出した途端、母は嬉しそうに笑った。
「そうだったの。この薔薇ね、息子が生まれた時に庭に植えたの。あ、こっちに来てくれる?こっちよ。この木は桜の木。娘が生まれた時に植えた木。娘の名前の桜に因んでねーー」
母は庭に私を招き入れ、右から順番に木々や花について語った。全部知ってるよ、お母さん。だって私は桜だもん。
「あなた、不思議だわ。まるで大きくなった娘みたい。あなたみたいに落ち着いた綺麗な女性に育ってくれたら良いのだけどーーああ、ほら、桜、翔太。庭の土を掘り起こすのはやめて頂戴。やっと芝が生えてきたんだからーー」
母は忙しそうに幼い私たちの世話をしていた。
「あの、ありがとうございました。また来ます!」
そう言って慌てて庭を後にする私に、「お待ちしているわ」と母は笑った。
私は走って父の背を探した。父の会社までの道は知っている。「あの日」、あの道を通らなければ未来は変わるはず。5分くらい走ったところで父を見つけた。私は建物の陰に隠れながら父を追った。
そして遂に「あの日」の「あの場所」にたどり着いた父は、何事もなく横断歩道を渡り、会社へと歩みを進めた。
「よかった……」
私は思わず安堵した。でも、今日が「あの日」じゃ無いのなら、もしかしたらまた別の日に「あの日」がやってくるのでは無いか、という考えが浮かんだ。それなら根気強く父を守るしかない。
そうして二日目も三日目もそれからも父を会社まで追った。母とも近所付き合いを欠かさなかった。たまに幼い私たちを幼稚園に預けた後、お茶に誘われるようになった。私のこの長い夢はまだ覚める気配がなかった。夢の中の私は自傷行為をしなかった。
@理想の家族
パパとママ、それに幼い私たちと私の五人で夕飯を食べる日も増えた。私は父にうんと優しくした。生前共にやりたかったことも消化していった。肩も揉んだし一緒に食器を準備したし父のドライブで海にも行った。晩酌もした。人生について語り合った。本当はまた一緒にお風呂にも入りたかったけど、それは幼い方の私の特権だった。幼くても私が経験したことならそれで満足だった。
「そうだわ。今度息子たちの運動会があるの。桜さんも是非どうかしら。カメラマンを手伝ってくれない?夫は仕事だし、私、カメラや機械はそんなに得意じゃ無いの」
そうだ、母は機械音痴だった。
「良いですよ。私でよければ」
私は快諾した。本当はもっとフランクに、家族として母と関わりたかったが夢の中だとしても母を混乱させたくないし、真実を語ることで何かが悪い方に変わるのが怖かった。できるだけ長く良い夢に浸っていたかった。
運動会当日、私は母の代わりに自分たちの写真をたくさん撮った。幼い自分を撮るなんてなんだか変な感覚だった。母は楽しそうにケラケラ笑っていた。
パシャリ、と不意に背後からシャッター音が聞こえた。
「やあ」
やってきたのは父だった。
「仕事が早く終わってね。まだ運動会をやっているみたいだから来ちゃったよ」
「パパー!」
幼い私たちは飛び跳ねて父の登場の喜びを体全体で表現した。可愛かったんだな、私と兄は。子供とはなんて純粋で儚いのだろう。
後日、私は母に家に来るよう言われた。リビングに入るとダイニングテーブルの上いっぱいに父と私が撮った運動会の写真が並べられていた。
「カメラマンのお礼がしたくて」
と母は私に紅茶を淹れ、お手製の焼き菓子を準備していた。
「これ、あなたが写っているしあげるわ」
手渡されたのは、夢を見る前に見つけた二人の私が写ったあの写真だった。
待って、おかしい。あの写真は確かに現実にあったもの。こんな夢の中のものが現実に存在するわけがない。っていうことは、考えられるのは、これは夢なんかじゃなくて、過去にタイムスリップした現実ーー
「あの、今日って何月何日ですか?」
そうだ、最初から日付をきけば良かったんだ。「あの日」だけ父を追って、守れば良かった。
「今日はーーそうね、7月5日だわ」
「今、なんてーー」
初夏の暑さに抗うように冷たい汗が流れた。突然勢いよく席を立った私に、「どうしたの?」と母が訊く。まだ「それ」を知らせる電話はかかってきていない。そうだ、確か父は通勤中ではなく勤務中の外回りの最中にーーあれは午後2時のこと。今は、1時半。まだ間に合う。
「由美さん、いいえ、ママ。私は大きくなった桜です。今日の30分後、信号無視した居眠り運転のトラックに轢かれてパパは死ぬの。それを回避するために私は今ここにいる」
「何言ってーー」
「信じられないと思うけどこれが真実なの。私が生きてる20年後にはパパはいない」
「嘘でしょ……」
「本当なの!信じて……」
突然叫んだ私に、母は目を丸くしていた。
「……信じるわ。さくらさん。いいえ、大きくなったさくら。こんなことを頼むのはおかしいかも知れないけれど、夫のこと、よろしくお願いします。私にはその日のこと、何も分からないから」
母は目を伏せて言った。
「言われなくても助けるわ」
私は父が撮ってくれた、二人の私が写っている写真を握りしめ、勢いよく家を出て駆け出した。後30分、間に合ってーー
「あっ!」
刹那、トラックが父を轢く一瞬前、私は横断歩道に飛び込み父の体に体当たりした。反動で私の手から写真がこぼれ、宙を舞う。長い1秒の間に私と父はお互いの丸くなった目を見つめた。
ああ、良かった。これでハッピーエンド。
「パパ、さよなら」
私の小さな体は大きなトラックに思い切り衝突し、そこで私は終わった。タイムスリップする前に毎日見ていた血まみれの腕を思い出していた。
@神様は全部見ている
「これで良かったのかね?」
いつの間にか横に立っていた神様は眉を下げて目を伏せた。
「良いんです。死にたかった私は父を救い、ちゃんとさよならも言えました。これで幼い私だけでなく母と兄の心も守ることができますから」
「それで良いなら、わしは運命を変えて良かったのう。苦労が報われる。たまたま選んだお主の運命を変える手助けができて良かったわい」
下界では父が「いってきます」と玄関から出ていった。母と私たち兄弟はみんな笑顔だ。
神様は笑った。私も笑った。さよなら私、元気に育ってね。
私は傷だらけの左手首をぎゅっと握った。
数ある小説の中で私の描く拙い小説を読んでくださってありがとうございます。嬉しいです。少しでも面白かったと思っていただければ幸いです。今後とも宜しくお願いします。