04. フィボナっちのウサギ
もし仮に、人は、特別な誰かに出会うために生まれてくるのだとするなら……私にとってのその誰かは、彼女以外にはありえない。
これは……私と、私の特別な人が、本当の意味で出会うまでの物語だ。何の取り柄もない私、稲葉ミトが、天才少女のフィボナっちと再び巡り合うまでの物語だ。
季節は春。
何の苦労も努力もせずに、ただ一年という時を食いつぶした結果、私たちが高校の2年から最終学年へとコマを進めたとき。そこに、彼女がやってきた。
金色の髪、白い肌、青色の目の、美しい女の子。名前は、フィボナ・ビアンカ・ヴァイセシリア。
フランスだったか北欧だったか、あるいは、太平洋沖のなんとか諸島だったかからやってきた、留学生。年齢は私たちと同じくらいだけど、高校の授業は飛び級で10年以上前に修了しているらしくて、今は、どこかの研究施設に所属しているのだそうだ。
たまたま、最近それを授業で習っていたということ。それから、転校初日に彼女に「どんな研究をしていたのか」と聞いたときに返ってきた難しすぎる答えのうち、かろうじて理解できた単語――フィボナッチ数列――にちなんで、誰かが彼女のことを「フィボナっち」と呼びはじめた。彼女はその呼び名を気に入ったみたいで、ケラケラと私たちと変わらない笑顔で笑っていて、それで、その呼び名は自然と定着して……。
でも。
今思うとそのころが、彼女が人前で笑顔を見せた最後だったと思う。
1カ月が過ぎると、次第にフィボナっちは孤立していった。最初チヤホヤもてはやしていた人たちは、次の週には半分になり、その次の週には更に半分になり。気付けば、彼女の周りには誰もいなくなっていた。
無視や仲間はずれというのは、誰かが何か失敗したときだけじゃなく、その逆でも起きる。特に、進学校って言われるここみたいな場所では、その「逆」って方が多いのかもしれない。それは悪意や卑怯さというよりは、普通の人間が普通に持つ、本質的な弱さなんだ。でもだからこそ更生も糾弾も出来なくて、一番タチが悪い。
多分、彼女は頭が良すぎたんだと思う。
私たちが必死に勉強して1点や2点を争っているようなテストで、彼女は誰よりも速く満点を出してしまう。それどころか、テストの誤りを見つけて、それを改善するための方法を提示したりしてしまうんだ。今まで狭い世界で順位を競って優越感を感じてきた人たちにとって、そんな彼女の姿は自分のプライドを傷つけ、存在意義を否定する以外の何者でもない。
そんな人たちの弱さが、フィボナっちを孤立させていったんだ。
「んもう、フィボナっち! また1人で研究してるの⁉」
「ん? ああ、君カ? そうだヨ。研究してるノ。ワタシは、研究をするためにここに来たのだからネ」
それでも私だけは、いつも彼女のそばから離れなかった。
「じゃあさ、ちょっと休憩して雑談しない⁉ 私、フィボナっちのプライベートな話、いろいろ聞きたい!」
「……いや、遠慮するヨ。君が聞いて面白いような話を、ワタシはできそうもないからネ」
「えー、そんなこと言わずに、教えてよー? 家族は何人? 恋人はいる?」
「まったく君ハ……。頼むから、もう少し静かニ……」
「ペットは飼ってる? あ、フィボナっちって、なんかウサギとか飼ってそう!」
「いや、飼ってないヨ……でも、ウサギか…………フィボナッチのウサギ……ネ」
「え? な、なんで2回言ったの? 何かツボったの? え? え? ちょっとー!」
放課後の化学実習室で、いつも1人で難しそうな研究をしていたフィボナっち。そんな彼女に絡んでいって、適当にいなされてしまう私。それが、そのころの毎日の風景だった。
天才少女のフィボナっちがこんな高校に留学してきたのは、もちろん、授業を受けるためじゃない。
彼女の研究する内容が「人間の関係性」にかかわるものらしく、そのサンプルとして、日本のこの高校がいろいろな面でちょうどよかったんだそうだ。しかも、研究対象として遠くから眺めているだけではわからないようなことが分かるからという理由で、彼女は自ら生徒としてこの学校にやってきたんだ。
「……うーん。どうせ研究するなら、もっと『人間の出来た人』たちが集まってるところの方がよかったんじゃないの? こんな、『試験で何点とったー』とか、『エンコーでいくら稼いだー』とかしか興味ないようなやつしかいない、ハキダメみたいな学校じゃなくってさ?」
「……ミトは、面白い表現をするネ」
自分のことは滅多に話してくれない彼女だけど、自分の研究のことについては、いくらか饒舌になる。
「日本の……それも学校というコミュニティは、人間の本性が縮図となって如実に現れていると、ワタシは思っているのヨ。自分と異なる個体を病的なまでに恐れ、個性を消して記号となってつながりあう……。それは、世界中の未開集落でも形を変えて現れている、ある意味では人間の本質とも言える習性なのだワ。そんな人間の本性を身近で体験してデータをとれるこの場所は、ワタシにとってピッタリなのサ」
「そう、なんだ」
まるで他人事のように、感情を込めずにそう言ったフィボナっち。
その言葉には、今の自分の状況に対する皮肉とか強がりは感じられない。だけど、だからこそそんな彼女を見ていると、私は胸がざわつくのを抑えることができないのだった。
やがて。
水が上から下に流れるように。太陽が昇ってまた沈んでいくように。無視や仲間外れは、より悪質なイジメへと変わっていった。
彼女の私物がなくなったり、財布からお金が抜き取られたりするようになったり。あるいは、着替えを隠し撮りされて、写真をネットにばらまかれたりしたこともあった。
でも、どれだけひどいことをされても。私だったら逃げ出してしまうような卑劣なことをされても。それでもフィボナっちは何も変わらず、いつもの研究を続けていた。
「ねえ、フィボナっち……私に、できることはない?」
見かねた私は、いつもの放課後の実習室で、彼女に聞いてみた。
「フィボナっちがしないなら……私、学校とか警察とかに言って、犯人つきとめてもらうよ? それに、こんなところよりももっとましな学校を見つけてあげるから、研究の続きはそこですれば……」
でも……。
「いいヨ。このままでネ」
フィボナっちは、やっぱりなんでもない風に答えるんだ。
「大丈夫。研究は、順調に進んでいるノ。ミトは、何の心配もする必要ないワ」
「で、でも……!」
「むしろお願いだから、今の状況を変えないで欲しいヨ。ワタシが欲しいのは、君という具体的一個体の特性ではなく、多くの人間が見せる、普遍的な特徴値ネ? ワタシに親しくしてくれている君の行動は、研究データのイレギュラーなノイズとなってしまうだけヨ」
「そんな!」
「ワタシがここに来た日、フィボナッチ数列のことを言ったのを、覚えているカ? ……レオナルド・フィボナッチが発見したその数列は、ある数が、直前の2つの数を足し合わせた数になっている数列サ。私の研究では、ある条件下での人間の関係性が遷移するときの化学的な分子構造モデルは、その数列によく似た傾向を示していて……」
「そ、そんなこと、今は関係ないでしょ!」
食い下がる私の口を人差し指で遮って、彼女は続ける。
「フィボナッチ数列を無限に続けていくと、直近の2数の比はやがて、最も美しく、最も正しいとされる、黄金比に収束するノ。つまり、フィボナッチ数列と同じ傾向を示している私の研究対象も、その研究によって導かれるこの世界の人間関係も、やがて、美しく完璧な形へと収束する可能性を秘めているんだヨ。……素晴らしいよネ? それがどれだけ醜く間違っているように見えても、最終的には美しくなるための布石かもしれないのだから。だから、このままでいいんだヨ」
彼女がもしそこで、少しでも悲しそうな顔をしていたなら……。
助けてほしいと、私に願ってくれていたなら……。
私は多分、どんなことをしてでも彼女の状況を変えようとしただろう。研究なんてなくなってしまっても、彼女を助けようとしただろう。
でも、彼女はやっぱりそのときも、いつも通りの感情を込めない他人事のような表情だったんだ。
それからやがて、彼女と私にとって、決定的な出来事が起きた。実習室に置かれていたPCから、彼女の研究データが盗まれたんだ。
それまで、イジメとして物質的な物やお金が盗まれることは何度もあった。でも、それが彼女の研究にまで及ぶことはなかった。誰だか分からないイジメの犯人たちも、そこだけは手を出してはいけないと分かっていたんだ。他のものはされるがままにしているフィボナっちも、自分の研究を邪魔されたら黙っていない。それを取り返すためになら、きっと彼女はどんなことでもするだろう。天才少女の彼女が本気を出したら、どうなるか……それがみんな分かっていたから、誰も手を付けようとしなかったんだ。
でも今回の「犯人」は、その禁忌をおかしてしまった。
そして案の定、フィボナっちはその犯人をすぐに見つけてしまった。
「ミト……研究データを、返してほしいヨ」
「フィボナっち……」
「ワタシのPCのパスワードを知っていて、研究データの格納場所も知っているのは、放課後いつもそばにいたミトだけネ。だから、データを盗んだのは君だよネ?」
「『盗んだ』……ね。削除したとは、思わないんだね?」
「ミトは、ワタシの研究を大事に思ってくれていたでショ? だからそんなミトが、データを削除するはずはないヨ」
「……!」
「でも、分からないネ。この行動は、全然論理的じゃないヨ。ワタシの研究データと照らし合わせても、イレギュラー中のイレギュラーだヨ。ミトは、どうしてこんなことを……」
「どうして⁉ どうしてって、そんなことも分かんないのっ⁉ フィボナっちは天才なんでしょっ! 人間のこと研究してるんでしょっ! なのに、どうしてわかんないのよっ!」
そのときの私は、どうかしていた。
今まで抑えていた感情が限界を超えて溢れ出して、しまっていた。
だから、何も悪くないはずのフィボナっちに、こんなことをしてしまったんだ。こんな風に、彼女を悲しませるようなことをしてしまったんだ。
「あなたが好きだからだよ! あなたに私を見て欲しいかったから! 他の誰かじゃなく、普遍的なデータでもない、稲葉ミトという一人の人間の私を、見てほしかったんだよ!」
今までずっと、誰よりも彼女のそばにいたのは、私だ。
でも彼女は、私を見てくれなかった。
私よりも自分の研究を見ていた。それが悔しかったんだ。
「ミト……」
私はそこで、フィボナっちに向かって1枚のカードを投げ渡した。
「明日のこの時間、そこに来て。そこで、私と1時間一緒にいてくれたらデータは返すよ」
それは、郊外にあるしなびたラブホテルのカードだ。頭のいいフィボナっちなら、当然その意味も分かっているはずだ。
フィボナっちは、そのカードを拾い、何度かくるくると回す。そのカードの裏面には、有名な男性向け雑誌のマークが入っていた。それは、黒地に白で型抜きされた、ウサギの顔に蝶ネクタイがついたマークだった。
「君は、本当にそれでいいのカ?」
「……いいに決まってる。言ったでしょ? 私は、あなたが好きなんだよ。あなたと一緒になれるなら……それが、一番……」
「そうカ……」
「!」
そこで、久しぶりに私は感情のこもった彼女の表情を見た。それは、今までどんなイジメを受けても見せなかった、彼女の悲しみの表情だった。
「この国では……」
その表情に驚いている私をしり目に、彼女はつぶやく。
「ウサギは、寂しいと死んでしまうという迷信があるんだよネ? 面白いよネ。そんなこと、本当はあるはずないのニ……」
そう言って静かに微笑むフィボナっちは、本当に本当に、きれいだった。私はいまでも、あのときの表情をずっとずっと忘れられない。
「でも、それは本当は幸せなことなのかもしれないネ……。寂しいと死んでしまうなら……。ウサギは、本当の寂しさを知る前に死ねるということだから……ネ……」
次の日。私はそのホテルで、フィボナっちを待っていた。
でも、どれだけ待っても彼女は来なかった。
それどころか、彼女はどこにもいなくなってしまった。
学校はもちろん、彼女が所属した研究室に問い合わせても、彼女の所在を知る人は誰もいなかった。
あんなに熱心だった研究データもすっかり削除されていて、空っぽのPCにはただ一言だけ、「ウサギはやっと本当の寂しさを知った」とだけ書かれたテキストファイルが見つかった。
最初こそ、研究がうまく行かなくて自殺したかと疑れて、大々的に捜索が行われたりもしたけれど。結局、もともと自由奔放で、突然驚くようなことをする彼女のことだから、そのうちひょっこり出てくるかもしれないということになって。いつの間にか、人々は彼女を探すのをやめてしまった。
でも、私だけはずっと彼女を探し続けている。
あの日、フィボナっちがどうして来てくれなかったのか。
そして、彼女はどこに行ってしまったのか。
私のことを、どう思っていたのか。
その答えは、彼女しか知らない。
だから私は、彼女を探さなくてはいけないんだ。
彼女のことを知って、彼女の考えていたことを考えて、彼女自身に近づいて……。
あの日、私が盗み出した研究データを使って、私は私なりのやりかたで、彼女の研究を続けている。そうすることで、いつか彼女の考えにたどり着けるように。
あの日の彼女と、巡り合えるように。
あともう少しで、この研究は完成する……。私は、彼女とまた出会えるんだ……。
世界中の人が仲良くなれるように……世界中のウサギが寂しさを感じなくていいように……。そんな想いをこめた、彼女の研究。
もしも完成したら……フィボナっちのウサギ……FRウイルスと名付けよう。