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01. 思春期に特有の一過性のもの・オブ・ザ・デッド

「はあ、はあ、はあ……」

「…………」


 放課後の学校。

 2階女子トイレの個室の中に、2人の少女がいる。


「はあ、はあ……お、おい! あんまり近づくんじゃねーよ! 気持ちわりーなあっ!」

「ご、ごめんなさい! ……で、でも、わざとじゃないんです。ここが狭すぎるから、し、仕方なくで……」

「……くっそっ! なんであたしがこんな目に!」


 悪態をついているショートカットの少女は、安藤 悠(あんどう ゆう)。高校2年生でソフトボール部エースの、典型的な体育会系少女だ。

 そして、その隣でオドオドしながら何とか悠から自分の体を離そうと努力している少女は、樋口(ひぐち) メロ。帰宅部で、黒縁メガネをかけ、長い黒髪をみつあみにしている。悠に比べると、こちらは絵に描いたような文学少女といった風貌だ。

 メロは悠と同じクラスだったが、あまりにもタイプが違いすぎて、今までほとんど交流らしい交流をしたことがない。こんな、ある意味では正反対とさえいえる2人が、トイレの狭い個室の中で一緒に「隠れて」いたのには、もちろん理由があった。



 Female Reflex-Reforming Virus(女子反射系変異ウイルス)――通称FRウイルス――と呼ばれる凶悪なウイルスが、その学校に蔓延しているからだった。


 空気感染はせず、感染経路は「粘膜」を媒介にした接触感染のみ。さらには、たとえそのウイルスに感染してしまったとしても、「症状」が発症するのは「思春期の少女」だけという、あまりも限定的な特徴を持ったFRウイルスだったが、その生命力の高さは他のウイルスより一線を画していた。免疫を作ることはほぼ不可能で、有効なワクチンが開発されていない現状では、ひとたびそのウイルスに発症してしまえば、もはや体内から取り除くことはできないのだ。

 しかし、なによりも恐ろしいのが、そのウイルスの感染者に現れる「症状」で……。




「お、おい、誰か来るぞ……! 静かにしろ……!」

 抑えた声でそう言って、メロの口をふさぐ悠。

 と同時に、女子トイレの扉がゆっくりと開いた。


「あは、あはは……」

「えへへへへ……」

 足音とともに、2種類の笑い声が聞こえてくる。鍵を閉めた個室の扉の隙間から悠がのぞくと、入ってきたのは、制服を着た2人の少女だ。どうやら、この学校の生徒のようだ。


「あは、あはは……XXちゃんって……こ、こんなにかわいかったんだね……? 今まで、全然気づかなかったよ……本当に、信じられないくらいに、かわいくって……かわいくって……もう……た、食べちゃいたい……。はあ、はあ、はあ……」

「でへへ……○○ちゃんの方こそ、今日は、特別かわいく見えるよ……? はあ、はあ……か、かわいくて、きれいで、えっちで……」

「……い、いいよね……?」

「わ、私……女の子同士とか初めてなんだけど……で、でも……いいよ……」

 2人の少女は恍惚の表情を浮かべ、うっすらと頬を紅潮させている。その様子は、まるで泥酔状態の酔っぱらいのようだ。しかし、未成年の彼女たちが、学校の中でアルコールを摂取したわけではもちろんない。


 彼女たちは、互いの体を近づけ始める。最初はゆっくりと……しかし最後には、肉食動物が獲物に飛びつくように、激しく……!

 そして2人は、熱く、濃厚に、唇を重ねあった。


 ぶちゅっ!


 ……ちゅ……ちゅぱ……。

「あ……ああ……ん」

「も、もっと……もっと……して……」

 ……ちゅぱ……ちゅぱ……。


「う……」

 自分の口元を両手で覆い、吐き気を必死に我慢する悠。声を出したら自分たちがここに隠れていることがばれてしまうので、跡が残るほど力を込めて口を押さえつけている。

 しかし、その我慢もそろそろ限界というところで、

「はあ、はあ……つ、次は……ほかの娘もいれて、3人で……しよっか……?」

「うん……いいよ。4人でも、5人でも……えへ、えへへ……」

 そんなことを言って、やっとその少女たちはトイレから出て行ってくれた。



「おげぇーっ! うげぇーっ!」

 2人の足音が聞こえなくなった瞬間、悠はトイレの便座に向かって思い切り吐き出した。

「き、気持ちわりぃーっ! うげぇーっ!」

「だ、だいじょうぶです……か?」

 かがみこんで吐き続ける悠の背中をさすってあげようと、手を伸ばすメロ。しかし、

「うっせぇーなっ! 触んじゃねーって言ってんだろっ!」

 彼女のその手を、悠は乱暴に弾き飛ばした。

「ご、ごめんなさい……」


 それからもしばらく吐き続けたあと、やっと落ち着いた様子の悠。

「くそっ!」

 口元の吐しゃ物をハンカチで拭いながら、乱暴にトイレの壁を蹴った。

「さっきのやつら、あたしも知ってる野球部マネの3年の先輩じゃねーかよっ! どっちも普通に彼氏がいるし、ほんとだったら、あんな……あんな気色わりーこと、するわけねーのに! なんなんだよ、これっ! 意味わかんねーよっ!」

 悠に叩かれた腕をさすりながら、メロは答える。

「FRウイルスに感染した女の子は、誰でもみんな『女の子が大好きになっちゃう』みたいなんです……。そ、その人のもともとの性格とか趣味とか関係なく、本能的に……むしろ、脊髄反射的に、女の子を見ると抱きしめて、キスしたくなっちゃうんです……。きっとそうやって、女の子同士で『粘膜接触』を繰り返すことで、あのウイルスは今まで感染を拡大してきたみたいで……」

「じゃあ、もしもあたしがあのウイルスにかかったら、あたしも、あんなふうになっちまうってことかよっ⁉」

「は、はひ……」大声を出す悠におびえて、メロは小動物のように小さくなってしまう。「あ、あのウイルスに感染して、無事だった女の子はいないみたいでした……。だ、だから安藤さんが男の子が好きな普通の女の子でも、そんなの多分関係なくって……」

「なんだよ、それっ! ふざけんなよっ!」

「ひぃっ!」

「……くそっ」

 メロは何も悪いくないということは、悠にはもちろん分かっている。自分の八つ当たりで彼女を怯えさせてしまっていることに、罪悪感も感じている。しかし、突然こんな理不尽な状況に置かれたことで、彼女のやり場のない苛立ちは募る一方だった。


「……つか、さあ」

 そんな気持ちを紛らわせるため、悠は話題を変えることにした。

「じゃあ、男どもは今頃、どうしてんだよ⁉ FRウイルスにかかっておかしくなるのは、女だけなんだよな⁉ 男は、ウイルスにかかってもなんともねーはずなんだよな⁉ だったら、この状況を知って、男の誰かが、なんか対策をうってくれててもいいはずじゃねーかよ!」

「……え、えと……」

 さっきのように、不用意に話しかけて怒られるのが怖くて、メロはなかなか返事が返せない。ただ、このまま黙っていてもやはり怒られそうだと気づいて、その悠の問いに答えることにした。

「た、確かに、FRウイルスが発症するのは、女の子だけです。だから、男性にはウイルスの影響はない……。でも、だからと言って無事というわけではないのかも……しれません……」

「ああんっ⁉」

 すごんで見せる悠にひるんでしまうが、何とかその先を続けるメロ。

「ウ、ウイルス感染した女の子たちは、女の子のことが激しく好きになります! そ、そして、それに反比例するみたいに、男性のことを……」

「……嫌いになるっつーのかよ?」

「は、はい……。その可能性が、高いみたいなんです!」

 うなづくメロ。

「私、ここにくるまでに何人か、感染者の女の子たちが、男子生徒と一緒にいるところを見かけました。こっそりその様子を観察したりもして、それで、気づいたんですが……感染者の女の子たちは……誰もが男性に敵意を持っていたみたいでした……。それも、ただ嫌いとかそういうレベルを通りこして……殺したいくらいの敵意を……」

 メロは、いつもよりさらにおびえる様子で、目を伏せながら、続ける。

「さ、さっきの2人……あの、3年の先輩たちの、制服を見ましたか……? 2人のブラウスに、血が……血痕が、付いてたんです。あ、あれ……鼻血とか、あの人たち自身の血って可能性もありますけど……でももしかしたら……もうすでに、誰か男の人を……」

「う、嘘だろ……」

 そこで初めて、悠の顔に怒り以外の表情が浮かんだ。

 それも、絶望と恐怖の表情だ。


「そ、そんなの……あたしは、信じねーぞ……。だ、だってそれじゃあ……先輩は……? あの、マネージャーの2人がいつもくっついてた藤田先輩も、もしかしたら……もう、やられちまったかもしれねーってことじゃねーかよ……」

「え……?」

 突然、悠の口から第三者の名前が出てきて驚いたメロ。だが、すぐに何かを察したようだ。なるべく明るい調子を装って、彼女を励まそうとする。

「ふ、藤田先輩って、野球部の、女の子たちに人気がある、あのイケメンの先輩のことですよね? だ、大丈夫ですよ! ま、まだ何も決まったわけじゃないですよ! ほ、ほら、藤田先輩は成績優秀で運動神経もいいですから、きっと、今頃はうまいことどこかに逃げてて……」

「てめえっ、適当なこと言うんじゃねーよっ!」

 悠はメロにつかみかかる。

「あの先輩はいつもどこにいっても、女に囲まれてたんだぞっ! 女が全員ウイルスの感染者になってるっつーなら、とっくにやられちまったかもしれねーじゃねーかっ!」

 壁に押し付けられて首を絞めつけられながら、メロはなんとかこたえようとする。

「そ、それは、そうですけど……で、でも……」


 と、そのとき。



「う、うわぁーっ!」

 甲高く情けない叫び声が、廊下の方から聞こえてきた。それは、男性の声だった。



「⁉」

 悠はすかさず、その声のしたほうに顔を向ける。

「……先輩だ」

「え……?」

「い、今のは、藤田先輩の声だ……。先輩が、あいつらに襲われてるんだ!」

 そう言うなり、悠は扉のカギを開け、トイレの個室から出る。そして、そのまま廊下に向かって走り出した。

 慌てて、悠を追いかけて個室の外に出るメロ。今度は彼女が悠の服をつかんで、彼女を引き留める。

「ちょ、ちょっと待ってください! 今の声だけじゃ、本当に先輩かどうかなんて、わかんないですよっ! というか、今そとに出るのは、危ないですってばっ!」

「う、うるせぇなっ! あたしには分かるんだよ! 今のは、間違いなく藤田先輩の声だ! 先輩が、あたしに助けを求めてるんだよっ!」

「そ、そんなの、おかしいですよ! 安藤さん、冷静になってくださいっ! 安藤さん、ってばっ!」

 興奮している悠には、メロの声は届かない。どれだけメロが引き留めても、まるで聞く耳を持っていないようだった。

「ああ、もおうっ! しっかりして下さいってばっ!」

「っ⁉」

 もう手段を選んでいられないと思ったのか、メロは悠に素早く足払いを仕掛けた。帰宅部で運動音痴のメロの攻撃だったが、周りが見えなくなっていた悠には効果があったようだ。彼女は足をとられて、床に転んでしまった。

「ったぁー…………くっそ、てっめぇーっ! なにすんだよっ!」

 激昂した悠は、素早く起き上がってメロにつかみかかる。そして、彼女の頬にフルスイングで思いっきり平手を打った。

「てめぇっ、自分で何してんのか分かってんのかよっ! こんなことしてる間にも、先輩はあいつらに……!」

「……わ、分かってます! 十分に、分かってるつもりです!」

 平手を打たれた頬を真っ赤に染めながら、メロはしっかりと悠に向かって目を合わせて言う。その力強いまなざしに、第二撃を放とうとしていた悠は、思わず動きを止めてしまった。


 メロは、真剣な表情で続ける。

「安藤さんこそ、分かってないです。もしも、今あなたが先輩を助けにいって、それでもし、あなたが他の人からウイルスをうつされてしまったら、どうなると思ってるんですか?」

「あ、ああんっ?」

 そんなことは考えてもいなかった悠は、質問に答えることができない。

「もしも、安藤さんがFRウイルスの感染者になっちゃったら……あなたは今の藤田先輩への想いを完全に忘れてしまう……。いえ、そればかりか、大好きなはずの先輩を殺したいほど憎くなっちゃって……もしかしたら、あなたのその手で、先輩を殺してしまうかもしれないんですよ? そんなことになっても、いいんですか?」

「そ、そんなバカなこと、あ、あるわけねーよ……。あ、あたしが、そんなことするはずが……」

 悠は反論しようとするが、言葉が詰まってしまう。

 さっき目の前で、ありえない2人が抱き合ってキスをしているところを見てしまっている以上、自分だけがウイルスに負けずに想い人の先輩を守れるなんて、言えるはずもなかったのだ。

「で、でも……それじゃあ、どうすればいいんだよ!」

 今度は自ら床に膝を落として、がっくりとうなだれる悠。

「このまま、先輩があいつらに殺されるのを、待ってろっていうのかよ……? あたしは、先輩を見殺しにするしかねえっていうのかよ……? そんなこと、あたしには……」

「……」

 いつもハキハキとしていて男勝りな悠がそんな風に落ち込んでいる姿は、あまりにも痛々しい姿だった。彼女のそんな姿を見ていられず、メロは目を背けずにはいられなかった。


 しかし。

 やがて、自分のなすべきことを思い出したかのように、メロはゆっくりとトイレの出口に向かって歩き始めた。

「いいえ……安藤さん、あきらめないでください。まだ、『手』はあります」

「え……」

 顔を上げる悠。

 メロは、彼女に背中を見せたまま、振り返らずに続ける。

「安藤さんじゃなく、私が、先輩を助けに行けばいいんです。私が先輩を助けて、安藤さんがここに隠れていることを伝えます。……そうすれば、先輩と安藤さんは合流できる。あとは、2人でここを逃げ出すだけです」

「ちょ、ちょっと待てよ……」

「2人とも無事に逃げ出せれば、これ以上ないくらいに最高のハッピーエンドじゃないですか? うん。やっぱりこの方法しかないですよ。この方法が、今選べる最良の方法です」

「だ、だから、ちょっと待てってっ!」

 今にも女子トイレから廊下に出ていこうとするメロを、引き留める悠。

「な、なんだよ、それ……? そ、それじゃあ、お前はどうなるんだよ? 先輩を助けたあとお前は、ここに戻ってくるんだよな? 2人、じゃなくて、3人で逃げ出すっつう話をしてるんだよな……?」

「……いいえ」

 メロは振り返ってゆっくりと首を振る。

「今や、FRウイルスはこの学校中に蔓延していて、学校中の女の子が感染者になっちゃってるかもしれないんですよ? そんな状況で先輩を助けて、先輩が無事に安藤さんと合流して、しかもその上、2人で学校から逃げ出すなんて……。普通に考えたら、絶対に無理です。誰かがオトリになって、感染者の女の子たちをひきつけでもしない限り……」

「お、お前……!」

「安藤さんがオトリになるわけにはいきませんよね? だって、安藤さんは藤田先輩と一緒にここから逃げなくちゃいけないんですから。ハッピーエンドのめでたしめでたしになるためには、最後に王子様とお姫様が一緒にいなくちゃですから。だから、オトリ役は私がやるのが最適なんですよ。まあ……私はスポーツ万能の藤田先輩とか、部活でランニングホームランとかしまくってる安藤さんと比べたら、足はだいぶ遅いですけど……。でも、時間稼ぎ程度なら、大丈夫ですから!」

「い、いや、何言ってんだよ……。そんなの、おかしいだろ……。お、お前、そんなこと言って、本当は1人で逃げ出そうとしてるとかじゃ……」

「安藤さん……」

 状況がうまく理解できていない悠に、メロは優しい笑顔を向けて、ダメ押しの一言を言った。


「実は私……百合なんです」


「え……?」

「つまり……はじめから私、女の子が好きな女なんです。だから、私はウイルスに感染するのは怖くありません。だって、女の子好きの私がウイルスに感染して症状が発症しても、何も変わらないですからね? ふふ……むしろ、学園中の女の子と百合ん百合んでイチャイチャできるなんて、夢みたいですよ」

「お、お前……まじかよ……」

「……だから、この役はやっぱり、私が一番適任なんです。百合の私は、女の子たちとイチャイチャできる。安藤さんは藤田先輩と逃げ出して、2人でイチャイチャできる。

 誰も損しなくて、みんなが幸せになれる方法ってわけです。私の言ってること、分かってもらえました?」

 ようやくメロの言葉を飲み込めてきた悠。

 立ち上がって、「あ、ああ……」と小さくうなづいた。

「よかった。それじゃあ私、先輩のところに行きますね? 安心してください。必ず、先輩がここに来れるようにしますから……」

 そういうと、メロはくるりと体を翻して女子トイレから出て行った。





「ふん……」

 残された形の悠は、トイレの床について汚れてしまった制服のスカートを払いながら、鼻を鳴らす。

「な、なんだよそれ……。あいつ……百合だったのかよ……。早く言えっつーの……。心配してやったあたしが、バカみたいじゃん……」

 トイレの鏡に向かい、ハンカチを濡らして乱れてしまった髪を整え、他にも汚れている場所はないか点検する。メロの作戦がうまくいけば、これからここに憧れの先輩がやってくるのだ。非常事態とは言え、あまりみっともない姿を見せるわけにもいかない。悠は、手際よく身なりを整えていた。


「……ん? あれ?」

 そこで、ふと彼女は頭の中で引っかかるものを感じた。


(でも、あいつが百合……つまり「女の子が好きな女」だったとして……それじゃあ、どうして今まで逃げてたんだ? 女とイチャイチャできるのが楽しいっつうのなら、初めから、自分でウイルス感染すればよかったじゃねーかよ……。わざわざ感染者から逃げる理由なんて、ねーはずだよな……?)

 

 彼女は、自分と同じようにウイルス感染者から逃げて、このトイレまでたどり着いたはずだ。少なくとも、悠はそう思っていた。

 しかし、それではさっきメロが言った、「自分は百合だから感染するのが怖くない」という言葉と矛盾する。


(……もしかして、誰か目当ての女がいたってことか? だから、どうせならまずはその女とイチャつきてーと思って、そいつを探していた……? いや、それもねーだろ。だって、それならあいつは今頃とっくにその女のところに行ってるはずじゃねーか。いつまでもあたしと一緒にこんな場所で隠れたりしねーで、さっさと目当ての女のところに…………ま、まさか……)


 そして彼女は、気づいてしまった。


(あたしと同じように、トイレに逃げてきた…………じゃなくて……あたしがここにいたから、あいつもここに来たってことなんじゃあ……? あいつは初めから「自分が気になってるやつ」を探していて……それで、ようやくこのトイレで、「そいつ」を見つけた……。だから、それ以上移動する必要がなくなった……)


 可能性に過ぎないはずのその「気づき」は、今までの記憶を根拠として、説得力を増していく。

 彼女の頭の中で点と点がつながり、今まで見えなかった像が浮かび上がってくる。


(そ、そういえば……。

 なんで交流のないはずのあいつが、あたしが藤田先輩が好きだってこと、知ってたんだ……?

 それに、たしかあいつ帰宅部だったはずなのに、あたしがソフト部で何回もランニングホームランしたことまで知ってた……。

 それじゃまるで……あいつがあたしのことを、ずっと前から見てたみたいで……)


 最後に、さっき女子トイレを出ていくときのメロの姿が思い出される。

 それは一見すると、「みんなが幸せになれる方法」を実行に移すときの、自信に満ちた笑顔。

 しかし……。トイレから出ていく直前……体を翻して悠に背中を向けた一瞬だけ……彼女のメガネの奥で、輝いているものがあった。それは、目の端にためた、小さな雫だ……。


(あ、あいつ、まさか泣いてたのか……? な、なんでだよ? だ、だって、これは、みんなが幸せになれる方法のはずじゃあ……)



 呆然と立ち尽くす悠は、いつの間にか自分の手からハンカチが滑り落ち、床に落ちていたのにも気づかなかった。




   ※




 廊下に出た最初の角を曲がったところで、メロはさきほどの悲鳴の主を発見した。それは、悠の言った通り野球部3年の藤田だった。しかもそのときの彼は、複数の少女たち(おそらくは、感染前は藤田の取り巻きをしていた者たちだ)に囲まれて、殴る蹴るのリンチを受けていた。

 当初の作戦通りメロは、悠が女子トイレに隠れているから助けてほしい旨を藤田に告げ、自分はオトリとなって彼を囲んでいた感染者たちを誘導することに成功した。


 しかし……。

「ほらほらほら~っ。もっと早く逃げないと、捕まえちゃうぞぉ~! 捕まったら、イ・ケ・ナ・イ・罰ゲームだぞぉ~」

「はあ、はあ、はあ……メ、メガネっ娘! メガネっ娘だよぉぉーっ! みつあみメガネっ娘がいるよぉぉぉー! だ、だ、だ、大好物だよぉーっ!」

 感染者たちは、精神こそウイルスによって改変されているが、運動能力はそのままだ。その中には陸上部やバスケ部などの体育会系の部活の少女たちもいるはずで、帰宅部で普段めったに運動しないメロが逃げ切れるというのは、あまりにも甘すぎる考えだった。

「ちょ、ちょっとっ! なんでみんな普通に走れるのっ⁉ こういうのって、ウイルスの感染者は動きが遅くなるもんじゃないのーっ⁉」

 最近のゾンビウイルス映画業界についての不勉強を露呈するような叫び声をあげながら、必死に逃げ続けるメロ。それは、初めから結果が見えている鬼ごっこだ。

 しかも、彼女は気づいていなかったが、学校内を走りまわることで他の感染者たちからも注目を集め、メロを追いかける鬼の数はどんどん増えてきていた。彼女が捕まるのは、時間の問題だったのだ。



 そして、その問題の「時間」は、割とすぐにやってきた。



「こ、こうなったら……!」

 とりあえずの時間稼ぎとして、メロは、悠がいるのとは別のトイレに隠れようとした。

「きゃっ!」

 しかし、慌てたせいかそのトイレの手前の廊下で、派手に転んでしまった。


 すぐ後ろまでやってきた感染者たちが、続々とメロを取り囲み始める。

「えへ、えへへ……転んだとき、ぱんつ見ちゃったぁぁ~……」

「はあ、はあ、はあ……ねえ知ってる? メガネって、性器の一部なんだよ……? はあ、はあ、はあ……」

 同時に、反対側の廊下からも、さらにはトイレの中からも。よだれをたらし目を血走らせながら、たくさんの感染者の少女たちが、メロに近づいてくる。


(あーあ……ここまで、かー……)


 ここまで追い詰められては、もうどうしようもない。メロは、さすがにもう逃げるのをあきらめたようだった。


(悠ちゃんは、ちゃんと先輩と合流できたかな……?)


 懐から携帯を取り出し、操作するメロ。画面に映し出されたのは、隠し撮りされた部活中の悠の姿だ。


(悠ちゃん……。私……私ね……。悠ちゃんのこと、ずっとずっと、好きだったんだよ……。

 女の子が好きなんじゃなくて、他の誰でもない、「悠ちゃん」が好きなんだよ……。だから絶対に、こんなウイルスに感染なんてしたくなかったのに……。悠ちゃんのこと忘れて、「女の子なら誰でもよくなる」なんて、絶対に耐えられないって思ってたのにな……。でも、でも……)


 メロの目から、「また」大粒の涙がこぼれる。


(それじゃ、ダメなんだよね? 私じゃ、ダメなんだよね? 悠ちゃんには、別にちゃんと好きな人がいて、その人と一緒になれるのが、幸せなんだよね……?

 だったら私、そのために何だってするよ……。悠ちゃんと先輩のためなら、私は……)


 感染者の1人が、メロに向かって唇を近づけてくる。

 FRウイルスは粘膜から感染する。だから、その唇がメロの唇に触れれば、またたくまにメロも他の感染者同様に「症状」が発症するだろう。

 しかし、メロは抵抗しない。


(これでもう、私も感染者になっちゃうんだ……。女の子なら誰でもいいようなモンスターになっちゃって、悠ちゃんのことを特別に思わなくなる……。悠ちゃんのことを、忘れられる……。だから、これでいい……。これで、いいんだ……。

 ふふ……だから言ったでしょ? これが、「みんなが幸せになれる方法」だって……)


 そして、メロは悲しい笑顔を浮かべながら目をつむり、感染者からのキスを受け入れようとした。




 そのとき。




「くっらえぇぇぇ、こんの、エロゾンビどもがぁぁぁーっ!」

 メロを取り囲むゾンビの壁の向こうから、そんな叫び声が聞こえてきた。

「え?」

 合わせて、その声のする方向からシューという音と、モクモクとたち込める雲のような白い煙が上がる。それは、学校に備え付けの消化器が噴射する、消火剤の煙だった。


「え⁉ え⁉ ゆ、悠ちゃん⁉」

 その煙の勢いにのって感染者をかき分けてメロの前に現れたのは、さっきの女子トイレで待ってるはずの悠だった。

 噴射がだんだん弱まってきた消化器を上空に放り投げ、感染者たちが慌てている隙に、悠は倒れているメロに手を差し出す。

「おい! ボケボケしてんじゃねーぞっ! 早く逃げるぞっ!」

「え、で、でも……」

 なぜ彼女がここにいるのかが分からず、混乱気味のメロ。しかし、今は考えている暇はないと気づいたらしく、伸ばされた悠の手をしっかりとつかんだ。

「よし! 行くぞ!」

「う、うん!」


 そして2人は、消火剤で混乱している感染者たちを蹴飛ばしながら、なんとかその場から脱出した。



「で、でも、どうして⁉」

 追手から逃げるために走りながら、メロが尋ねる。

「ゆ、悠ちゃんは、先輩と一緒に逃げるはずじゃあ……」

「あ、ああん? 先輩?」

 照れるように視線をそらし、頬を染めながら悠は答える。

「い、いや……あいつなら、結局あのトイレには来なかったわ。た、多分、1人で逃げちゃったんじゃねーの?」

「え、そ、そうなの? でも、私が最後に見たときは、確かにトイレの方向に向かってた気がしたけど……」

「あーっ! んなこと、どうだっていいだろっ⁉ それより今は、こっから逃げることのが大事だろがっ!」

「……う、うん」


 言葉には出すことができなかったが、悠の頭の中では、メロの問いに対する別の答えがあった。


(どうして、お前を助けたかって……? そんなの、決まってるだろ……。

 あたしの、先輩に対するうわべだけの好意なんかより……お前の想いの方が「本物」だって思えたんだ……。ウイルスなんかに消されるのはもったいないって思えたからだよ……。

 なんか、うまく言えねーけど……お前にとって、それから、多分あたしにとっても……それが、一番いいって思えたからだよ……。たとえこれが、一時の気の迷いでも……。一過性の、幻想だとしてもな……)


 しかし、プライドの高い悠は、そんなことをメロに言うことはできないのだった。




 それからも2人は走り続け、ついには、無事にその学校の校門の前までやってくることができた。


「……つーか、お前……、いつの間にかあたしのこと、なれなれしく『悠ちゃん』とか呼んでねーか?」

「え⁉ あ、ご、ごめん……なさいっ! わ、私がいつも頭の中で呼んでる呼び方が、うっかり出てきちゃって……! 次からはちゃんと、いつも通り安藤さん、って……」

「……別に、いいけどよ」

「え?」

「べ、別に、そんなこと気にしねーっつってんだよ! 『悠』でもなんでも、お前の好きに呼べばいいだろっ!」

「……う、うんっ!」

「そ、その代わり、あたしもお前のこと、名前で呼ぶからなっ! いいよなっ⁉」

「え……うんっ! うれしいよ! ありがとうっ!」

「な、なんで感謝するんだよ……。まあ、いいや……。じゃあ、今度からあたしも、お前のことを…………えーと……お前のことを…………」

「……?」

「あー……悪い。お前、名前なんだっけ?」

「ひ、ひど……同じクラスなのに……」

「だ、だって、仕方ねーだろっ! 今まで全然からんだことなくって、こっちはお前のことなんて全然知らなかったんだからなっ! あたしのことストーキングしてたお前とは、違うんだよっ!」

「え、えーっ! ストーキングなんてしてないよーっ! やっだなー! 私のは、ただ単に愛がちょっと重いだけだよーっ!」

「……お前、だんだん調子に乗ってきたな? やっぱり、助けなきゃよかったかな……」

「もおーう、そんなこと言ってーっ! 私は、悠ちゃんは絶対助けてくれるって信じてたよーっ? っていうか、もうこのさい、『お前』呼びのままでもいーよー? だって、なんかそっちの方が親密な感じするし……恋人とか通りこして、もう、生涯の伴侶的な?」

「…………」

「あれー? あれれー? 悠ちゃん、急に黙ってどうしたのー? ねーえ? ねえってばー?」

「……こいつ、もしかしてもうとっくに感染してんじゃねーのか?」


 そんな掛け合いをしながら、学校の外へと出て行く2人。

 走っているのに必死だったからか、2人とも、さっきの救出劇からずっと手をつないだままであることには、気づいていなかった(いや、若干1名は、単に気づかないふりをしていただけかもしれないが……)。



 それからこの2人がどうなったのかは……誰にもわからない。


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[良い点] 1/6 ・うわぁお、破壊力バツグンです [気になる点] 無差別な百合を、対比に使うとは、お見事です [一言] どうなったんでしょうな。感染して徐々に百合ゾンビと化しましたとさ
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