2-1 枯渇の黙示録〈ドライネス・アポカリプス〉
覚醒する。
からだがにぶい。
なんとか上体を起こして、周囲を見渡す。
ふたたび隔離室。
今回は、ほかに人がいない。
「名前と階級を」
天井のスピーカーから、女性の声が流れ出た。
「雄輝です。階級は一等陸士。苗字は、ありません」
素直に答える。
親に捨てられ、軍に育てられた子供には、苗字が存在しない。
現在の名前も、自分や周囲の者が決めたものであることが多く、むかしの名は、事実上、捨てられる。
「雄輝、なにがあったか、おぼえてっか?」
ついで、樽本の声が流れた。黙ってうなずく。
「それなら話は早ぇ。お前ぇはあのあと、攻めて来ていたすべての、いいか、すべてのクラッグを殲滅した。たった一人でだ。片がつくと、お前ぇはもとのすがたにもどり、真っ裸で地に横たわった。いま、お前ぇの処分に関して、控えめに言って、かなり揉めてる」
「自分は、なにかに感染したのですか」
「専門家たちも初めて見る症状だけどな。正直言って、ほとんど共鳴者と変わらねぇ。ちがうのは、お前ぇがあきらかにほかの共鳴者やクラッグどもとくらべて、強かったこと。そしてお前ぇが、変化中も自分の意識を保ってたってぇことだ。もし、今後もお前ぇが、自分自身を失わずに戦えるのなら、これは大きな戦力となる。英雄か怪物か。お前ぇのあつかいは、二つに一つってぇところだ」
「自分は自分です。……すくなくとも、いまは」
「わかってる。あらゆる診断と検査が、お前ぇの異常を認めない。こうして交わしている会話も、すべて異常なしだ。そこから、出てぇか?」
「……わかりません。村崎二尉に撃たれたくありませんし」
「お前ぇが皮肉を言うたぁな。上を納得させるためにも、まずぁ検査だ。だいたいの検査は、お前ぇが寝てるうちに済ませちまったから、のこってんのは心理的な部分だけだがな。お前ぇが危険分子ではなく、頼れる兵士だってぇことを、印象づけにゃならん」
それから長いこと、検査官らしき女性の声との、退屈な質疑応答がつづいた。
たとえば、このような顛末だった。
「あなたしか知り得ないことを話してください」
あいまいな質問だった。
こういうのに答えるのは苦手だ。
自分でなにかを考えて発言するというようなことを、いつからか、あまりしていないような気がする。
「たとえば、あなたのほんとうの名前とか」
「おぼえていません。四歳で自衛隊に連れて来られたときには、軽い記憶喪失となっていましたので。名前は、そのときに着ていた服のすみに書かれてあったそうですが、自分では確認していません。必要のないことですので」
「それ以前のことを、なにもおぼえていないのですか?」
「一つだけ。提供者〈ドナー〉二人の名前です。コリンと鈴菜」
「提供者とは?」
「自分を自衛隊へと提供した者です。親、と呼ばれるたぐいの。自分は後に、そう聞きました」
ほかにも、自分の過去について知っていることはあった。
自分は正確には、提供されたわけではなく、家のなかで、血みどろになって倒れているところを、発見されたのだ。
ほかに身寄りもなく、自然と、自衛隊が兵士として引き取ることになった。
もう関係のない、思いだす必要もない、過去。
適当に答えていると、やがて質疑応答が終了し、しばらくして身柄は、あまりにあっさり釈放となった。
部屋を出て、兵舎へと向かっていると、樽本が歩いてきてとなりにならんだ。
早すぎる隔離解除について問うと、樽本は喉をかきながら答えた。
「いま、それどころじゃなくなってきてるからな」
「え?」
「――兵士たちの士気を考えてのことだろ。あんとき、あの場にいた兵士は皆、たった一人、敵のまんなかで戦っているお前ぇにおそれをいだきつつも、たかぶってた。畏怖の念に近い。大声で応援しているヤツまでいたんだぜ。あんだけの数が攻めて来てたんだ。お前ぇがいなきゃ、この都市は終わってたさ。まさに救世主だ。俺たちぁ、その業績を間近で見た。全員、お前ぇの味方だろうさ」
「だが、みんなの目線は──」
思い出す。
全員が自分から離れていく瞬間の恐怖と哀しみを。
「気に病むことぁねぇよ。全員、お前ぇと同じく、とまどってんだ。お前ぇという人間と、お前ぇの見せたすがたとのあいだで、対応を決めかねてる。お前ぇが今後も、自分を保っていられるのなら、すぐにむかしとおなじ態度になるだろうさ」
樽本の言葉を聞きながら、つい、手の平をじっとながめる。
「自分のからだのことなのに、わからないんだ。なにが引き金になって、ああいう状態になるのか。たとえば、今ここで発動すれば、自分は、あんたを焼き殺してしまうかもしれない。そういう恐怖はないのか」
「それについてだがなぁ。お前ぇは最初、あんだけ多くの兵士たちとならんでたにも関わらず、お前ぇの身体から発現した炎に焼かれて火傷を負ったっつう奴は一人もいねぇんだ」
その言葉に、とまどいを隠せない。
混乱の中、あまたの兵士の中心にいたのだ。確実に被害は出ていると思ったのだが。
「お前ぇの出す炎は、人間にゃ危害をおよぼさねぇのかもな。ってのは、すこしできすぎた話だが。けど、今んところの事実は、そう告げてる」
そのときふと、何の思考の脈絡もなく、思い出されたことがあった。
「マリアの姉について、なにか聞いていないか?」
樽本の足が止まる。
「……そのことだが。言おうかどうか悩んでたんだ。いろいろ、あったからな。キャシーはいま、緊急入院中だ。マリアたちも手術室の外で待機している」
聞くなり、足を方向転換させる。
キャシーの病棟へと向かう。
それまで気づかなかったが、どうも医療区域全体があわただしい。
看護婦や医師が走り回っている。
なにやら騒がしい。
白いビニール製の床を歩き、看護婦の一人を捕まえて道を聞き、手術室の前に着く。
壁わきのソファーに、薬音寺やマリアたちが腰を下ろして、静かに待っていた。
いくつかならんでいる手術室のすべてが、手術中のランプを光らせている。
先の戦いでの負傷者だろうか、という予想は、薬音寺の一言で否定された。
「キャサリンだけじゃねぇんだ」
どういうことか問おうとする前に、マリアが顔を上げた。
いつもは強気な顔が、いまにも壊れてしまいそうな表情で泣きじゃくっていた。
「施設中の全ての妊婦さんが、同時刻に激しい腹痛を訴えたんです」
真幸が言った。
「下腹部の痛み。性器からの激しい出血」
マリアがつぶれてしまいそうなくらい小さな声でささやいた。
──流産。
突然、手術室の中から大きな声が聞こえた。
あまりの大音量に、始めは、なんの声か分からなかった。
しだいにその正体が分かり、胸が苦しくなる。
だれかが大声で泣いているのだ。
マリアが立ち上がり、止める間もなく手術室の扉を蹴り開けた。
みんな、凍りつく。
真っ白い手術室の中央で、真っ赤に染まった女性が、大声で泣きながら、自分から流れ出ている血をかき集めていた。
号泣が耳をつんざく。
「グレース!」
キャシーがさけんだ。泣きながらさけんだ。血をかき集めながらさけんだ。
グレース、と何度もさけんでいた。
産まれてくるはずだった子どもに。
何度も何度も。
グレース。
優美、優雅、愛嬌、魅力、神の恵み、恩恵、恩赦、感謝の祈り。
祝福。
声のかぎりさけぶ母親のすがたに、だれも動けない。
真幸が、倒れるように口を押さえながら廊下へと走り出た。
嘔吐する声が聞こえてくる。
マリア。
壊れた機械人形のように、ゆっくり、ゆっくり、キャシーに近づいていく。
「お姉ちゃん」
マリアの声に、キャシーが顔を上げる。
もう、壊れてしまった者の顔だった。
「マリア、手伝って。おねがい、手伝って」
キャシーの手が血をかき集めようと、せわしなく動いている。
マリアの手がキャシーの手をつかんだ。
「お姉ちゃん、グレースは──」
「嫌ぁっ!」
金切り声を上げるキャシー。
そのまま気を失い、流れ出た血のなかに、全身を浸すかたちで倒れこむ。
薬音寺がすぐさま駆け寄り、マリアを手伝う。
ノイズ、優しい大男は、息をすることすら、わすれているのではないかと思うほど、微動だにしない。
紫苑もまた、なにも言うべき言葉を持ち合わせておらず、マリアと薬音寺がキャシーを血だまりから持ち上げるのを、黙って見つめていた。
気の遠くなるような時間のなかで。
しだいに、施設のあちこちから、悲痛な絶叫が聞こえ始めていた。