4-3 してみたいっすか?
いつかのように、紫苑の顔が間近──目と鼻の先にある。
あのとき、一瞬だけ感じたもの──もうすぐで見つけられそうだったものをさがすために顔を近づける。
その吐息を感じれば、あるいは、と期待する。
相手の唇に顔を近づける。
滑らかな色をした、官能的でやわらかそうな唇。
普段、気にも留めなかった部分に動揺する。
その頬に触れてみる。
温もり、ふっくらとした感触。
「してみたいっすか? いま、ここで」
紫苑の声。
吐息。
くらくらする感覚。
半ば夢心地で、紫苑を見つめる自分を遠くから見つめる。
彼は紫苑を押し倒すかたちで上に乗り、限界寸前まで顔を近づけている。
「僕は、あんなふうには死ねない。戦えない」
彼はおびえている。
ふるえている。
おそれている。
紫苑の瞳。
その輝きに吸いこまれそうになる。
「……守るものを与えてくれ」
彼は言った。
ほとんど哀願するように。
拒否される恐怖、受け入れられる不安が、織り交ざって混濁した意識のなかで。
与えられること。
それを拒む気持ちと同じくらい、それを望む気持ちは大きい。
紫苑が目を閉じた。
小さく布の擦れる音が聞こえた。
下で、もぞもぞと動く気配。
暗闇のなか、脱ぎ捨てられた服が、次々と山積みにされた。
そのあいだ、どうしていいのかわからず、目を閉じておくことにする。
それだけで官能的な響きのある音が、唯一、聞こえてくる。
「目なんて閉じなくっても。見て、いいんすよ」
これ以上ないほどの甘いささやきに、目を開ける。
下は見ず、相手の顔だけを見つめることにする。
いつもの無表情。
そのことに、すこし困惑する。
「いつも、シャワールームなんかで見てるじゃないすか」
「……状況が、ちがいすぎる」
「大丈夫すよ。これが自分。そのことを、自分だけじゃなくてだれかにも知ってもらいたい。ずっと、そういう気持ちを抱えて生きてきたっすから」
一糸まとわぬ紫苑。
そのなめらかな肌に触れたいという気持ちを、どう処理していいのか分からず、ただ、顔だけを見つめる。
「雄輝。自分のほんとうの名前、おぼえてるっすか?」
ほんとうの名前。
着ていた服に書かれていた文字の羅列。
きっと、意味もない言葉。
「知らない。知る必要もない。……紫苑は?」
「紫苑がほんとうの名前っす。だれかからなにかを与えられるのは、むかしから嫌いというか苦手で、名前もほんとうは、自衛隊に入ってから自分で決めたかったんすけど。これだけは、どうしても捨てられなかったんす。どうしても、この名前だけは」
「紫苑は、どうして自衛隊へ?」
「六歳の頃まで西南地区で暮らしてたんすけど、とんでもなく貧しかったんすよ。そりゃもう極限状況で。両親が生きるためには、自衛隊に渡すしかなかった。そうでなけりゃ、両親も自分も餓死するって状態で。両親とはその後、会ってないっす。どうしてるのかも知らない。生きてるか死んでるかも。まあ、おかげで市民権を得たわけだし、平和に暮らしたんじゃないすかね。もともと、こっちが餓死することなんてどうでも良くて、あの人たち自身が助かるためだけに、やったことなのかもしれないっすけど。とにかく。この名前さえあれば、自分は、あの人たちの子でいられる。そのことが、たとえどんなに苦しくて、耐えがたい重圧であったとしても。それを捨ててしまえば、自分は、自分としての自分を失ってしまう──そんな気がして」
たいせつななにかをそっと手わたすように、自分のことを話す紫苑。
その誠意にすこしでも応えたくて、彼=僕も口を開く。
「僕は……鈴菜を殺し、コリンに殺されかけて生き延びた」
毎日。
僕を殺す代わりに、自分の腕に一本ずつ線を増やしたコリン。
その後ろすがた。
振り上げられるナイフ。
なにか言う自分。
なにも言うな、というさけび。
自らをかばおうと持ち上げた腕を、なにか異質で鋭利なものが切り裂く痛み。
この痛みを、コリンはずっと耐えてきたのだ、という思い。
抗わず、拒まず、ただ受け入れる。
そう心が決めた瞬間。
その心に反発する意思がうなりを上げた瞬間。
ふざけるな、という憤怒、嘆願、悲鳴、絶叫、抵抗。
「憎まれながら産まれたんだ、僕は」
「ほんとうに憎まれて産まれてきたのなら、名前なんてつけられてないっすよ」
「名前なんて、ただの文字の組み合わせだ。なんの意味がある?」
紫苑の目が、まっすぐ、こちらを見た。
その力強い真摯な眼差しに狼狽する。
「名前と言えば、この都市には名前がないっすよね。なんでだと思うすか?」
「さあ。面倒だったんじゃないか?」
「きっと、この都市が独りぼっちだからっすよ」
「どういう意味だ?」
「話はまた変わるっすけど、人間にとって最初の数ってなんすかね?」
「さあ……一か、それとも零かな?」
「自分はむしろ二じゃないかと思うんす。つまり、一が一であるかぎり、自分たちは、数、というものを意識しないんじゃないすか? なんらかの意味で全体的なものに分割が生じ、そこに対立や並置、さまざまな関わり──交渉が起こることによって、二という意識が生じる。そこで初めて一という概念も生まれてくる。生まれたときから、たった一人だった人間と、大勢の人に囲まれて育ったのに、たった一人の状況に投げこまれた人間と──どちらが、孤独というものを感じるっすかね。そして、その一という概念が強まれば、一と一には区別が必要とされるかもしれない」
「それで?」
「この都市は一つであろうとしている。そもそも二や三、あるいは百や千であったことなどわすれて。それが一番の平和だから。一という数字には、分割や対立を仮定する響きはなく、葛藤などとは結びつかない。平和を維持しやすい」
「僕たちは──その一に呑みこまれているのか」
「それは幸せなことなのかもしれないす。それでも、自分は好きになれない」
「どうして?」
「自分に反するからっす。自分という存在に、その生き方に反するから」
「分かりやすく説明してくれ」
「紫苑っていう花の花言葉、知ってるっすか?」
「なんなんだ?」
「あなたをわすれない──」
紫苑の唇が僕に重ねられた。
その左手が、僕の後頭部に添えられる。
為す術もなく、舌を感じた。
相手の右手が、胸のあたりをさすっているのを感じる。
「私は紫苑。それが、自分にとって、なにより大切なもの」
紫苑──ゆっくり、僕の服のなかに手を差し入れる。
冷たいような、温かいような手が、直に肌に触れた。
その手を、服の上から握り締める。
「失いたくないと思うものはないの?」
ふと、紫苑が言った。
まるで別人の声だった。
地盤がないんだ、と思わずさけび出しそうになった。
足で踏みしめ立つべき地盤が、どこにもないんだ。
なんのために戦い、生き、死ぬのか。
なんのために、この都市にいるのか。
ノイズのかつての仲間は、敵としてしか他者を認識できなくなった。
佐々木医師は、そう言った。
その結果の殺し合い。
味方殺し。
薬音寺の胸にこびりつくペイント。
その映像が脳内でくりかえし再生される。
自分も、なんら変わらない。
このままでは、いつかノイズのかつての仲間たちのようになってしまう。
手術など関係ない。
ただ、地盤がないというだけのことで。
感情を喪失し、自分の意思を喪失し、ただ、敵と戦う兵士。
まるで駒の兵隊だ。
駒の兵隊──チェス。
ふと目の前に、駒の並べられたチェス盤が浮かんだ。
この都市はチェス盤のど真ん中にあって、大臣や大人たちがそれを囲み、駒を動かしている。
ただキングを守るために。
キングは──なんのために守られねばならないのか?
一度だけ、村崎二尉からチェスに誘われたことを思い出す。
村崎はキングを守り、相手のキングを落とすためなら、どんな駒でも犠牲にした。
村崎二尉のキングは揺らがず、不動で、そこに在るということ自体に価値があるのだと主張しているようだった。
薬音寺はsこし変わったプレイヤーだった。
お気に入りの駒──クイーンを守るためなら、キングをも危険にさらした。
たとえクイーンが倒されても、ポーンを進め、クイーンにするという手もある。
それでも、自らにとって本当のクイーンはひとつだ、とでも言うように、薬音寺は、ひたすらクイーンを守った。
ノイズは、敵の駒にも味方の駒にも被害をなるべく出さず、シンプルに敵のキングを狙いつづけた。
それが一番、痛みのすくない戦いかただというふうに。
「紫苑……今度、チェスしようか」
この状況下において繰り出すべき発言ではなかったが、紫苑は気にしなかった。
「自分は、将棋のほうが得意っす」
紫苑が彼の肌を触りながら答える。
シャツはとっくに脱がされていた。
「これは単に自分の印象っすけど、チェスはたがいに奪われつづけるゲーム、将棋はたがいに奪いつくすゲームだって感じるんすよ。どうすか?」
「それは人それぞれのプレイスタイルにもよるだろう。それに、どうせ僕たちは捨て駒だ」
「ポーンはチェスの魂である、と言った人もいるすよ」
「結局は、チェス盤の上でだけの話だ。そこから抜け出すことも、チェス盤を壊してやることもできない。その盤の上で、決められたマス目を動くだけだ」
「それで思ったんすけど。そうだとして、このチェスのプレイヤーはだれなんすかね?」
「駒は。自分を動かすプレイヤーをふりかえることはできない。前を向いたままだ」
「いいすか。チェスの戦いは、戦略と戦術の面から考えられる。戦略とは、局面を正しく評価し、長期的な視野で計画を立てて戦うこと。戦術とは、より短期的な数手先程度の作戦をしめす」
「わかる」
「いま、この都市を取り巻くチェス盤は、戦術しか考えていないような気がするんす。ただ、その場を凌ぐだけの作戦。長期的な視野が存在しない。いや、もともとあったものが、いつしか消えてしまったのかもしれないっす。人類の未来が次第に閉ざされ、戦いが日常となっていく過程で」
「つづけてくれ」
「クラッグは戦いかたを変えてきた。もし、序盤は本のように中盤は奇術師のように終盤は機械のように指せ、という言葉通りに攻めてきているとしたら、次は終盤──チェックメイトのときっす。たがいの戦略、それらの目的がいったいなんなのか。いまのうちに考えてみて損はないっすよ」
甘い吐息を交えながら語り続ける紫苑。
そこでようやく僕は、彼の両手が、紫苑の胸を弄っていたことに気がついた。
彼女の左肩の刻印が目に入る。
それを目で追い続けることにする。
『I.M.C.O』=「自分が思うに、こういうことっす〈イン・マイ・コンシダード・オピニオン〉」。
駒を進める。
紫苑の腹に手を滑らせる。
局面を正しく評価しろ。
呻く。
いままでに感じたことのない、耐えがたい欲求が上り詰めてくることを実感する。
ふるえる両手を離す。
紫苑と目が合う。
「今日は、駄目だ。まだ、そのときじゃない。これは──ちがう」
そこまで言うと、両手を顔に押しあてて、うめいた。
優しく抱きしめてくれる紫苑。
その胸の感触。
安らぎを与えてくれる。
素直に受け取る。
紫苑が与えてくれた温かさを。
両手いっぱいに膨らむ、やわらかな優しさ。
「耐えられなくなったら、いつでも声をかけてくれていいっすよ」
紫苑が横に転がり、枕に頬を当ててこちらを見る。
「つらくなったら、いつでも。まあ……男性的生理現象に関して、自分じゃ処理しきれなくなったときにも、声をかけてくれて結構っすけど」
たしかに数日間、悩まされることになりそうだ、と紫苑のからだを改めて見つめ、思う。
もしかすると、自分はとてつもなく馬鹿な意地を張っているのではなかろうか。
素直に受け取れば良いものを。
薬音寺に話せば、すかさず馬鹿にされるだろう。
それでも。
受け取ること。
それが、すべて肯定をしめすとはかぎらない。
その理に心をあずけ、耐える。
「気持ちだけでじゅうぶんだ。今日ここに、紫苑がいてくれて、良かった」
「自分もすよ。またひとつ、お願いがあるんすけど」
「なんだ?」
「眠るまで……話し相手になってもらってもいいっすか」
「わかった。このまま話しながら……眠ろう」
いろいろな話をした。
聞いたり、聞いてもらったり。
何時に見上げた空が一番好きか。
飛べるとすれば、どんな天気の空を飛びたいか。
どの季節の香りが一番好きか。
どの季節の風が一番好きか。
いつもどんな夢を見るか。
どんな夢のつづきを見てみたいか。
話しているあいだ、まるで二人で、深く濃い森のなかを歩いているような錯覚にとらわれた。
都市の外に広がる荒野でも、都市のなかに作られた小さな自然公園でもなく、大きく深い森のなか。
鳥が鳴き、木々が揺れ、風で葉がささやき、雨の雫がしたたり、土が香る。
しだいに、うつらうつらとしてくる。
「紫苑──いい、名前をもらったな」
気持ちのいいまどろみのなか──ぽろっと言葉がこぼれた。
「わすれないさ……きっと」
紫苑の寝顔が、ごく自然な微笑に染まるのを見た。
そう思うと同時に、張り詰めていた意識が暗転──温かな闇の奥へと引きずりこまれていた。




