3-2 過去の足音
しばらく、ためらったあと。
病棟内にある、佐々木医師の個室をノックした。
受付の女性による情報――いまの時間は個室で休んでいるはず。
プラスアルファの情報――佐々木医師の個室には、だれも入ったことがない。
戸が開いた。
「おや」
医師の目が、やわらかく笑んだ。
「入りたまえ」
「……失礼します」
すんなりと受け入れられたことに恐縮しつつ、足を踏み入れる。
佐々木医師は、薄く黄ばんだ白衣のままだった。
医師の顔と同じく、幾筋ものしわの寄った白衣。
不清潔そうな印象はなく、ただ、長年という時の変遷の成せる技だった。
部屋のなか。
必要最低限のものだけで構成、構築されている。
およそ、一人の人間がオフの生活をしている、とは思えなかった。
「ああ、すまないね、そんなものしかなくて」
「いえ」
すすめられた簡素な椅子に座る。
「お茶しかないが、いいかね」
「手伝います――」
「まあ、座っていなさい。ひさかたぶりの客人なんじゃ。おもてなしさせてくれ」
腰を下ろす。
なんとなく落ち着かず、壁を見わたした。
なにもない部屋。
だからこそ、配置されたものが、際立つ。
そして見つける、写真。
集合写真。
幼いころのノイズ。
分隊部屋にあったものと、同じ。
その横に。
資料の束のようなものが留められている。
小さな台所でこちらに背を向けている佐々木の様子をうかがいながら、立ち上がり、資料の小さな文字に目を走らせてみる。
AS小隊第〇〇一分隊の試験的導入に関する結果報告書。
めくってみると、つづきのページはなく、さらにべつの資料の表紙らしきものが見えた。
適確兵士計画報告書。
そう、書かれていた。
眼を細める。
そのさきの文書に困惑する。
このファイルは極秘文書である。
許可なき者がこれを閲覧した際には、相応の刑に処せられることがある。
詳しくは第二六七頁を参照せよ。
右上のあたりに、小さな手書きの字で、accuracy soldiersとななめに書きこまれている。
おそれながらもめくってみるが、やはり中身はなかった。
台所で湯を注ぐ音が聞こえ、ゆっくりと椅子に戻った。
佐々木が、湯飲みを載せたトレイを手に、もどってきた。
医師は一瞬、写真と資料の貼ってある壁に目を留めた。
失念していた、というふうに。
だが結局はなにも言わず、行動もせず、そのまま茶を運んできた。
「さて。なにか用かな? からだに異常でも?」
自身も簡素な椅子に腰掛け、茶をすすめながら、佐々木が問うた。
「あれから変身は?」
「付き合いかたが分かってきました」
「それは結構。向き合うことは大事じゃ」
佐々木はうなずいた。
「では、何用かな。まさか、年寄りと茶を飲みに来たわけではあるまい」
そこで、老医師は、壁に目をやる。
「ノイズの――ことかね?」
茶に手を伸ばす。
熱が、湯飲み越しに手を刺激した。
「いいえ。今日は、言伝をあずかってきましたので、早く伝えておこうと」
「言伝? だれからのじゃ?」
佐々木につづいて、茶を口にふくむ。
喉を通る熱。からだに広がる。
一息吐く。
「村崎二尉です」
「村崎――そうか、あの子か」
「ご存じで?」
「ああ、むかしの話じゃが」
医師の瞳に、過去という時が映った。
遠くを見つめるかのような。
だが老医師は、現実というものをわきまえていた。
目を閉じ、かすかに頭を振ると、ふたたび目を開き、弱く笑んだ。
「それで? 彼女はなんと」
すぐには答えず、茶に口をつける。
もう一度、村崎二尉の言葉を頭のなかで反芻し、意味を考えた。
結局、よくわからぬまま、それを口にした。
「今度は失敗しないと、そういう内容でした。それだけで、意味は通じるはずだと」
大きな音。
椅子の倒れた音だった。
おどろき、身を引いた。
熱い液体が飛び散ってきた。
佐々木医師――目が見開かれ、両手はおののき、その場に立ちつくしていた。
その手を離れた湯飲みが、茶を撒き散らし、小さく欠けながら、フローリングの上を転がった。
突然の反応に、とまどう。
「――佐々木医師?」
こちらの呼びかけにも応えない。
大きな衝撃に襲われていた。
「……まさか」
佐々木が、ようやく声をしぼりだした。
「また、あの実験を」
こちらに言っているわけではなかった。
佐々木の目は、宙に向けられていた。
他人には見えない、なにかを見すえていた。
「愚かな……あんなことがあったというのに」
口をはさまず、言葉の断片を聴き取る。
「哀れなノイズを忘れたか……また、くりかえそうというのか、なぜじゃ……」
佐々木は、よろよろと前へ進み出、棚に手をつき、からだを支えた。
「どこまで進んでいるのか、もう手遅れなのか……」
そしてふと、こちらに視線を留めた。
「ああ、君……すまないが、わしには急用ができた。申しわけないんじゃが――」
「いえ、おかまいなく」
あわてて立ち上がる。
佐々木の目にこめられた、気迫。
「おいそがしいところ、すみません。おいとまします」
佐々木の返事を待たず、部屋を出る。
何メートルか離れ、ようやく部屋をふりかえる勇気が出た。
佐々木医師の目のなかに見たもの。
それは、計り知れない憤怒、悲哀、諦念、そして、とてつもない怯えだった。




