2-5 佐々木医師
扉が開き、ノイズが、白衣を着た七十代半ばくらいであろう男性の老人を連れて戻ってきた。
長く垂れた白髪に、知性と経験を湛えた瞳、それゆえの疲れ果てたような顔。
「佐々木先生を連れて来ただ」
佐々木は、軽くお辞儀をして、こちらに近づいてきた。
「君の話は聞いとる。わしの周りでも、君を研究の材料にしたいという物騒な意見が出されているくらいじゃからな。いや、つまらんことを耳に入れた。忘れてくれたまえ」
佐々木がおだやかな口調で言った。
やわらかく、どこか哀しげな声色だった。
「これで、君にとって二度目の変身となるそうじゃが──変化する引き金が何なのか、わかったのかね?」
答えとして、左腕を伸ばす。
二本の傷を見て、佐々木は即座に理解したらしかった。
「なるほど、傷による発動というわけじゃな。腕に限った話なのか、それとも他の部位を怪我しても同じように変化するのか、という疑問もあるが」
話しながら佐々木が顔を上げ、一瞬、動きを止める。
その目線を追うと、ノイズのベッド脇の壁に貼られたままの写真──笑っている子どもたちが、そこにいた。
佐々木はすぐ目をそらし、僕に向きなおった。
胸ポケットからペンライトを取り出し、こちらの目を覗きこむ。
「特に後遺症のようなものはないかね? 意識がぼんやりしたりは?」
「いえ、いまは頭痛だけです」
「ふむ。そうなると、急激な身体の変化や意識の疲れによる、単なる頭痛かもしれないな。とりあえず頭痛止めの薬を処方しておこう」
「雄輝、ほんとうに大丈夫なんすかね」
紫苑が言う。
昨夜に垣間見せた弱さは引っ込み、いつもの無表情な彼女にもどっている。
「それはわからないよ、お嬢さん。なんせ、未知の症状じゃからな。たしかなことは、だれにも言えん。長年生きたわしの経験や知識も、最近起こりつつある様々な現象の前では、少しも役に立たん。年寄りから経験と知識を奪えば、後にのこるのはただの老いぼれじゃよ。いまのわしは、まさにそれじゃ。残念ながら、の」
佐々木は立ち上がると、ノイズをふりかえった。
「ついでにお前さんも診ておこうか、ノイズ」
「先生、おいらは大丈夫だべ。来てくれて助かっただ」
「わしにできることは、かぎられているじゃろうが……またなにか、異変が起こったら呼んでくれたまえ。ノイズ、わしは、お前さんの力に──」
「分かってるだよ、先生。礼を言うだ」
退室する佐々木。
「雄輝、もう大丈夫か?」
薬音寺が問う。
「今日は訓練も休みだし、ゆっくりすればいい」
「外の空気が吸いたい気分だ」
「なら、ぶらつこうぜ。紫苑も行くか?」
「自分は今日、ちょっと用事があるっす」
「おいらも今日は遠慮するだ」
とノイズも辞退する。
「ふむ残念。とりあえず飯を食いに行くか。マリア、真幸、お前ら行こうぜ。気分転換も必要だよ。駄目もとで、樽本と美奈も誘ってみるか」
部屋を出て樽本を見つけ、誘ってみると、案外すんなりと誘いに乗ってきた。
「今日は暇だかんな。美奈、お前も行くか?」
「……行く」
「美奈ちゃん、今日は俺がエスコートしてやるからな」
薬音寺が美奈を正面から覗きこむ。
美奈は、薬音寺とは目を合わせず、その代わり、こちらに目を向けてきた。
とまどう。
「……ははぁ」
と薬音寺が黒いサングラスを光らせ、わけ知り顔でつぶやく。
「曹長さんよ、あんたの妹さんは意外と交流的なのかもな。ただの恥ずかしがり屋さんだったわけだ」
「お前ぇ、なんの話だ?」
「そろそろお兄ちゃんを卒業する時期っていう話だっての。なあ、雄輝?」
なにも答えずにいると、薬音寺がおおげさに首を振る。
「いいか? 自分の性的嗜好を把握しておくことは、人生において有意義な思考をもたらんだぜ。把握することは抑圧することで、抑圧することは恋することだ。恋ってのは崇高な行為だろっての。恋してるときの自分ほど輝いてるもんはねぇよ。恋した相手の輝きを通して恋が輝き、恋する自分そのものが輝くってわけだ」
「なにが言いたいんだ、お前ぇ?」
「……薄ら寒い」
めずらしく的を射た樽本の疑問。
元気のないマリアの冷めた目。
すこしめずらしい六人組で、食堂へと向かう。
途中、何度も視線を感じた。
畏怖、警戒、好奇、嫌悪、敬意、期待。
あらゆる感情の入り交じった、数々の視線。すべて、こちらに向けられている。
ふつうの生活には、もどれないか。
無理もない。
あきらめと同時に、溜息が出た。
前回の戦闘以後、話は瞬く間に広がった。
クラッグに変身できる男がいるらしい、あだ名はクラッギーだそうだ、お前も見たか、そいつはたった一人であのクラッグの大群をやっつけたんだぜ、すごかったよ、等々。
注目を浴びるということは、嫌でも自分自身というものを意識させられ、その自分自身が世界に現に存在しているということを確認させられることでもあり、非常に苛立たしく、気まずく、居心地の悪いことだった。
「おい」
すぐとなりで、気の抜けたような、それでいて力の篭もった声が上がった。
「なに見てんだっての」
薬音寺だった。
その一喝で、こちらに向けられていた数々の視線が、一挙にそらされた。
感謝の念をこめて薬音寺を見ると、彼は肩をすくめて見せた。
どういうわけか変わってしまった日常において、それでも変わらないでいてくれる仲間の存在は、それだけで、とてもありがたいものだった。




