2-3 ソフレ
「だれかを愛したこと、あるっすか?」
「分からない。たぶん、ないと思う」
「だれかに愛されたことはあるっすか?」
「それも……分からない。たぶん、ないんだと思う」
「セックスが愛の行為だとするなら、自分たちは、愛し愛された者から生まれた。それはつまり、愛された、ということにはならないんすかね」
「僕には……わからない。話題を変えよう」
頭のなかを、過去の洪水がぐるぐると回っている。
「なにかを押しつけられるの、嫌いっすか?」
ふと紫苑が言った。
「自分は苦手っす。押しつけられるものが敵意によるものとはかぎらない。好意による押しつけも存在する。愛というものは、誰かを愛するということは、そのだれかに、なにかを押しつけることにはならないんすかね? もし自分たちが、生まれながらにして愛を獲得しているのなら、愛されて生まれてきたというのなら、自分たちは初めから、なにかを押しつけられて、この世に現れたってことになるんじゃないすかね」
「紫苑がそういう難しいことを考えてるタイプだとは思わなかった。いつも、そういうこと、考えながら生活しているのか?」
「考えずに生活できるんすか? 自分には、そのほうが信じられないす。絶えずなにかを押しつけられ、あるいは与えられて生きているから、こんなにもこの世界は息苦しいんじゃないかって感じることがあるんす。それなら、その重圧はだれが与えているのか、そもそも、その重圧とはいったいなんなのか、考えないと気が済まないっすよ」
「なにかを与えられている? たぶん、ほとんどの奴は、なにかを奪われていると感じながら、生きてるんじゃないかと思うが」
「奪われるほどのものを、そもそも自分たちが持ってるっすか? 奪われると感じるのは、与えられるはずだったものが与えられず、肩透かしを食らった気分になるのと似てるんじゃないすか? まず与えられなければ、自分たちがいったいなにを奪われると言うんすか?」
「キャシーは、子を奪われた」
「与えられるはずだった子が、与えられなかった。究極的に考えれば、それだけのことっす。プラマイでゼロ。キャシーのなにかが失われるわけではないんすから」
「紫苑。もう言葉にしないほうがいい。そうすることで楽になりたいだけだろう」
「なにが悪いんすか!」
突然の大声。
一瞬、その瞳の中に映る、涙。
手を伸ばし、髪をなでてやると、紫苑は必死で無表情をつくろった。
「駄目っすね。こういうの、キャラじゃないすよ、二人とも」
たしかにな、とつぶやきながらも、頭をなでつづける。
「紫苑、僕はずっとべつのことを考えていた。キャシーが名づけた子の名前、グレースの意味を。その名前をキャシーがつけた意味を」
「それで、なにか分かったんすか?」
「与えることは、与えられること」
そう口にした瞬間、世界がちがって見えた気がした。
いまなら、過去をふりかえられるんじゃないか、とも感じたが、その思いは、すぐに消えてしまった。
「なるほど。言い得て妙すね」
紫苑が、こぼれ落ちるまえに涙を拭いた。
「雄輝、こういうの頼むの、かなりしのびないんすけど」
「なんだ?」
「今日、一緒に寝てもらえないすか? となりで」
「そのくらいなら」
「自分、寝相悪いすよ」
「知ってる。いつの間にか床で寝てる奴だからな」
「寝てるあいだに、腹とか顔面とか、殴る蹴るの暴行をくわえてしまうかもしれないっす」
「応戦の許可をくれ」
「複雑骨折とか局部損傷とか程度なら我慢してほしいっす」
「発砲許可も請いたいところだ」
「……おねがい、できるっすか」
「了承した。薬音寺に見つかれば、長いこと、からかいの材料にされてしまうだろうが」
「そのときは共犯っす。一緒に薬音寺を殲滅すれば問題ないっすよ」
そう言って、紫苑が笑みを浮かべる。
ごく自然な笑み。
それに釣られるように、こちらも笑みを浮かべた。
「ああ、そうだな」
紫苑が自分のベッドにもぐりこみ、もぞもぞと奥に寄る。
二段ベッドの下側。
頭をかがめてベッドに乗ると、紫苑の隣に腰を下ろす。
ベッドが軽く軋む。
妙な緊張感があった。
紫苑は反対方向の壁を向いてしまっている。
すぐ寝ようと思い、布団をかぶって目を閉じる。
肩が、紫苑の肩にぶつかる。腕に触れるやわらかい感触。
これは意外と危機的状況かもしれないな、と思っていると、頬になにかが触れた。
紫苑の手だった。
「……なんのつもりだ?」
「触れてるんすよ」
「状況は把握してる。問題は目的だ」
「触れることが目的じゃ駄目なんすか?」
紫苑が軽く上体を起こして、こちらをながめていた。
「いま、思ったんすけど。触れるってどういうことっすかね? たとえば、このベッドは壁に密着してるっすけど、それは、ベッドが壁に触れてることになるんすかね?」
「まあ言語的に、そういう表現もあるな」
「でも、思うんすよ。なにかに触れるためには、前提として、そのなにかに向かって、出会う必要があるんじゃないすかね。いま、自分は雄輝に触れてる。関わり合うことができる。それは無世界的なベッドや壁とはちがって、内から立ち出でて、ここに在ること。だから自分は──私はいま、雄輝に触れてるんすよ」
紫苑の掌から熱が伝わってくる。
「壁とベッドのあいだには間隔があって、自分とベッドのあいだには遠近がある。だとして、自分と雄輝のあいだには、いったい、なにがあるんすかね?」
あまりに、おぼろげな口調だった。
つい手を伸ばし、紫苑の手をにぎった。
「紫苑、そろそろ眠ろう。手、にぎっててやるから」
紫苑は「ん」と答え、僕の手を両手でつつみ、胸もとまで引き寄せて、からだを丸めた。
自然と、お互いの顔が至近距離に落ち着く。
やがてかすかに寝息。
手の甲をなでる吐息がこそばゆい。
心が和む。
守りたいものとは、こういうことを言うのだろうか。
目を閉じて。
紫苑の髪のにおいに身をゆだねる。
そしてキャシーのことを思う。
キャシーと、グレースのことを思う。
自分も、ああなれば良かったのだ。
確信にも似た願望が、心を切り裂く。
そうすれば、コリンだって──。
いびつにならぶ、幾筋もの線。それを見せつけ、わめく男。
──お前だ! お前だ! お前だ!
一言ずつ人差し指を突きつけ、幾筋もの線が刻まれた腕を振りかざし、男はさけぶ。
ああ、そうさ!
閃光が耳元でがなりたてる。
目前に広がる、かつての光景。
男の持つナイフが、すべての光を収束し、乱射する。
僕だ! そうさ! 僕のせいだ!
きらめくナイフのなかに映りこんだ自分の顔と、一瞬、見つめ合う。
真正面から。ナイフが振り下ろされる。
闇を切り裂いて朝が来た。
目を瞬かせる。
いつしか眠っていたらしい。
すでに朝だった。




