私信 私から私へ(何も解決しない)
私は休みが続くとどうしても時間を持て余してしまう。普段は短い睡眠時間を鑑みてか、眠る時間を優先し、眠る時間が長くなったことで、不規則になり、日中は脳が働かない状態になり、眠っては少し起きて、また眠ってしまい、夜になる。連休も気づけば半分が過ぎるが、ようやく睡眠との折り合いがつき始めた。
連休中、懐かしい友人と会った。友人の引越しがあったため、友人の新居を訪れ、酒を飲み、麻雀を打った。
会ってすることは、以前と変わっていない。
ただ、「俺は何もしていない。お前はがんばっているよ」、「いや、お前はお前でがんばっている」という会話の流れ、自分を肯定してほしい目線が気味が悪く、馴れ合い・傷の舐めあいのようで苦痛だった。
仲が良いってのはなんだろう。この退屈な刺激のない、話題のない、懐古に、どう応じるのが友人として正しい。そこに個の意識はなく、意識の群れが、言葉のやり取りを強制していた。離れていた人間同士の話題なんてそんなものなんだろうか。「あれをしたい」、「あれは楽しそう」、「あれは良いらしい」といった興味や未来、夢や希望のある会話よりも、それらの過去形でどこか卑屈な感じの、余裕の無い「今が必死」、「自分は間違っていない」という語調が目立った。
叱る人がいない。叱る労力もないぐらい皆疲れているのだろうか? 八つ当たりをする人はたくさんいるが、八つ当たりと見え透いてしまっている。「馬鹿、元気を出せ」と喝を入れて欲しい。
私は今の「自由」が嫌だ。仕事でも期限があり、それは迫ってくるが、それが一体なんだというんだ、「土日返上すれば『余裕』で終わるだろ」、終われば、終わってしまう。それが自分のためを度外視してしまうのが「真剣に」仕事に関わることなのだろうか。学生の頃は楽だったというが、テストに「追われていた」、主導的に学ぶことをいつから放棄した?
成長をほめる人はなく、成長していないからと咎める人もない。自分を満足させるにはまずその軸がなくてはいけない。相対がない中で何を争えばいい。何をすればいい。争う気のない自分とは争えない。
自分の価値を他に証明するため、資格を目指す。資格取得のために学ぶ。それは主導的でありながら、どこか他所を向いていて、「評価して欲しい」と受動的な側面を持っている。
「資格を目指す人は、子育てには向かないって」
そう言っていた妻が流産した。
デリヘルで働く女と会うことになった。高校を中退し、「家事手伝い」をしながら、予備校へ通っている18歳。私はなぜ、デリヘルで働くのかを訊いた。
「効率がいいから、別に何も感じないし。私は酒飲めないからキャバは無理だし」
私にとってそういう「割り切ってます」みたいな態度は「心配してね」と言われている気がして居心地が悪い。自分もそうやって構って欲しいって思ったことがある。だから、「でも、親には話せないでしょ」とそれとなく訊くと、「別に自分から宣言するものでもないしね。でも、バレても少し気まずいだけしょ。親と仲良いし、別に私がしてることに文句は言わないよ」
何も言えない。きっと私は無表情に近い曖昧な表情をしていたと思う。
彼女は私に「なぜサラリーマンなんかをやっているのか」と問う。
私は「生活のため。お前がデリヘルで働くのと同じだよ、バイトよりサラリーマンのほうがボーナスの分、効率が良い」
「でも、お金が貯まったら何かをはじめるんでしょ」
なぁ教えてくれ、そこはきっと私も通った道のはずなのに。私は道に迷ってしまったから、その道へ、その気持ちへと引き戻して欲しい。何かを始めたい、けど、その何かって何だ、その何かが曖昧なままずっと今の今までこうしているんだ。
「大学に行ったら何をやるの」
私は彼女の「何か」を知りたくてそう訊いた。
「法学」
「どうして」
「なんとなく就職によさそうだから」
「大学に行かなくても、就職したって今の職業のほうがもうかるんじゃない」
「確かにね。でも結婚願望もないんだよなぁ」
しかし、私はその子の矛盾に付き合わされる。
「別に、父親なんていらない。ねぇ、一人で育てたいから、精子だけ提供してよ」
その子には今も生理が来ていない。
こんなことは少し前にもあった。ライブと、mixiで仲良くなった大学生と私は何度かセックスをした。すると、いきなり彼女は妊娠したと言い出だした。
「子供が出来たから、責任取って奥さんと別れて」
「彼氏いるって言ったじゃん」
「彼氏とは避妊してるから。避妊してないのは君だけだよ」
私は「あっそ、おろせよ、クズ」とは言えなかった。
「あいつはやりたいだけのガキだし。私はなんとも思ってないから」
私と一度も避妊したことのない女の言葉をどうやったら信用できる?
信用できない。人間不信とかそういう類でなく、男は自分で子供を産めないから、出産できないどころか、妊娠すらできないから、不思議なぐらい他人事だった。それから面倒くさく、いや、後ろめたくなって連絡を取るのをやめた。
久しぶりにその子から連絡があり、仕事帰りに何の気なしに会うことにした。今思えば「何の気なしに」なんてことはなく、犯罪者が犯行現場へと戻るように、怖いもの見たさもあったのかもしれない。
その子は学校を辞め、最近結婚したらしい。
「この子は本当に君の子だから。たまには連絡してね」
そう言いながら私を責めるどこか冷めた表情が思い起こされるのは、きっと私の勝手なイメージがそうさせるんだろう、ただ、どうがんばっても都合の良い無責任な客観に脚色された映像しか想起することができないのは、人間の記憶の性質なのか、私の精神構造によるものなのかは分からない。
彼女の結婚相手が誰なのかは知らない。この女がどこまで本当のことをいっているのかも分からない。あばずれの妄言と片付けてしまいたいが、そう片付けたとしても真実は必ず存在する。
私は人を不幸にしたのだろうか。私がそう思うこと自体が失礼なのは承知である。幸・不幸は相対的でそれを判断するのは他人ではない。
人間が人間を産み育てることはこうも簡単なことなのだろうか。私は未だに「童貞を捨てたい」と焦っていた自分の感覚から成長できないでいる。セックスしても、結婚しても、女を孕ませても実感がない。無責任とか、責任から逃れているからとか、言い訳がましいことを承知で言うなら、子供ができることとそれに対する責任なんていうのは、自分で課さない限りは存在しない架空の、「自分ルール」のような制約に過ぎない。責任は誰かが押し付けてくるもので、自分から責任を自分に課すことが私にはできない。子供が育ち、私を「利用」しようとしたときに初めてその「責任」っていうのが、私にやってくるのだと思う。
ただ、反省していないから、繰り返してしまった。
結局、自分にとって、人の体を使ったオナニーであれ、女は妊娠する。
懺悔で許されるなら懺悔しよう。懺悔とは素晴らしい制度だ。
ただ、懺悔しようにも信じる神も、相手もいない。
私は「ごめんなさい」と、ただ一人の部屋で、呟いた。
どんな状況でも生活できる、生かされている。
仕事に慣れ始め、特に職場が変わってから、声が良く通るようになった。自分の意見が仕事の最終形へより近くなっていった。こなせていても、どこかまだ新人だった状態は完全に終わった。
職場環境には相変わらずクズみたいな人間が多く、そいつらに押し付けさえすれば、自分への火の粉はなく、危機感はなく、ただ淡々とこなせる。それでも結果さえ残せば、仕事さえ終われば評価される。
会社の同僚とは他にすることがないから飯を食い、腹が出て、無い話題を無理に提示しては、くだらない話をするけど、話したいことがなければ話さなければいいのに。でも、それがくだらないなら、どんな話が有益で、どんな話がしたいの?
これも仕事なのだろうか? 意味を求めることは仕事には不要で、そこに誰の意図があるかだけ分かっていれば道に迷わない。
そうして結局子供に託すのか、たどり着けなかった自分の、取り返しの着かない時間を。そうなるにはまだもう少し時間はあるんじゃないか。
でも、そう。仕事でお金の流れが見え始めると、その流れを考えると、立ち止まらざるを得なくて。今の生活など投げ出したくて。晴れた日にPCの前にいるのが人間として正しいのか分からなくなったから、それが仕事だって、それが人のためだって。
論旨のないまま、拡散していく理想論に徒労し、馬鹿馬鹿しいと言いながら、必死に時間と戦う。衰えは次第にやってくる。
「足踏みしている」と、それに焦っている、いつまでも結論を出せない自分を、自分で叱りながら、期限を立ててはそこからぶれていく、自分に甘い自分を自己嫌悪しながら……。
思考が停止している、その間だけでも、時間が止まっていてほしい。
どうして、ゆっくりと眠ると、私は感傷的になるのだろう。
自分で自分に無責任に、自分に対する背徳、自分の人生に対する真摯さ・バランスを失ったとき、倫理を失い、目の前にあることに流されて、人のせいにして、それは結果として自分が生み出したものを愛せないことになる。責任があるから、自分にした実感があるから愛着が湧くのだろう。
だから、男にとって、子供が「出来てしまう」という感覚・構造がダメなんだ。腹を痛めない限り、そこに愛着なんて生まれない。子供を愛するためには、自然に生きているだけではきっとダメなんだろう、ただ、目の前にはその攻略への課題すら、ない。
評価というのが平等じゃないからこそ、過程を大事にして自分を大切にしないといけない。今は雌伏だから、いつかの雄飛のために、投げやりになるのはまだ、早い。