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雨の日には微笑みを

結構昔に書いたものですが…。楽しんでいただければ幸い。

 毎朝、というほどの頻度でもない頻度で思うことがある。この、鬱陶しいほどに単調な自分の生活が激変してしまえば良いのに、と。そのためになら、戦争なんてのも悪くないかもしれないな。そう思うことが不謹慎なのも承知の上で、そうこっそり思ったりすることがある。

 実際には、生活は単調なだけでは飽きたらずに、その退屈さを積み重ねていくようだった。これが貯金なら、どんなに自分の生活は経済的に潤っていただろうか。

 起床して着替えて階下に降りる。母親の作ってくれる朝食を無感動に胃におさめて、学校へ。授業を諾々と受け入れて、放課後は塾へ。ここでもノートを取ったりしながら時間をつぶして、夜は十時頃帰宅。部屋に運ばれる夕食を食べながら、また勉強をして就寝。

 エンドレスに行われる毎日。

 エンドレス、か。

 思って微苦笑した。本当に、終わりなど果たしていつやってくるのか。



 国河(くにかわ)健嗣けんしはいわゆる高校生だった。その性格に驚くほど特殊なことも、その素性や歴史に驚くほど突飛なところもない、ごくごく普通の男子高校生。

 勉強しなさいという親の声を、そんなものかと聞いて、無事に第一志望校に合格した。さてこれからどうするのかな、とぼんやり他人事のように自分事を考えている間に夏休みは過ぎ去って、気付けば十月になろうとしていた。

 何もしていないのに、時間だけは過ぎていくんだな。


 その日、台風の影響だとかで学校が早く終わった。塾までの時間、どこで何をしたいという願いもなく帰路についた。

 「ただいまー」

 リビングでテレビを見ているらしい母親がのんびりとした口調で、おかえりと返事を返す。冷蔵庫から冷えた牛乳を飲もうと台所に行って、グラスに白い液体を注ぐ。片手にグラスを持ち、もう片方にかばんを持って、二階の自分の部屋へ。塾の時間まであと三時間弱ある。良いのか悪いのか。嬉しいのかがっかりしているのか。自分にすらわからないそれは、他人にとってはきっと一生理解不能。


 グラスを持った方の腕を使ってドアノブを下げて、足を使ってドアを押し開ける。

 見慣れた筈のその部屋は、今は、あえて一言で形容しようとするのなら、まるで水槽の中のようになっていた。


 「は?」


 乾いた声が自分のものだと気付く。部屋を見回す。碧とも青ともつかない色の液体で満たされた部屋にふわふわと漂っているのは、筆記用具に枕に教科書に漫画に今日の朝急いで脱ぎ散らかしたままのパジャマ。


 部屋は何故だか水で埋め尽くされていた。


 そして、不思議なことにその水、もしくは水らしきもの、は彼の部屋からは出ようとしない。ドアと廊下との境目でぼんやりと揺れ動く、ただそれだけだった。そこが世界の境界線であるかのように。


 「何だ、これ…」

 誰にともなく呟いて、もう一度部屋を見回して、それに気付いた。


 誰か、いる。


 ベッドにカジュアルに寝転がっているそれは、ふいにむくりとその上半身を起こした。目が合う。

 綺麗な瞳の女の子だった。その色を、どこかで見たことがある。湖だ。テレビで見た。北欧かどこかの、雪に囲まれた静謐な湖。あれと同じ色をしている。彼女の顔立ちは人間のそれと同じだったし、腕も足も二つある。ただ圧倒的に人間と違っていたのは、その肌だ。透きとおる緑色をしていた。あともう少し透きとおっていたら、肌をすり抜けてその後ろの壁が見えるだろうな。


 「おかえんなさい」


 その生き物は、海底のようにゆらゆらとゆれる部屋の中でそう言った。親しみやすいような、それでいて異質だと感じる声。


 「入んなよ。ここはキミの部屋なんでしょう?」

 言って、ふふふと笑った。笑うと、彼女の周りがゆらりゆらりと震える。


 言われるがままに部屋に入った。でも怖くて、目をつぶった。冷たさも濡れる感覚も何もないまま、数歩歩いた。まだ目はつぶったままだ。ふと気配を感じて、反射的に目を開ける。


 「大丈夫?こわいの?」

 両手をだらりと横にたらして、彼女が目の前に立っていた。ひとのものではありえない肌が眼前に、秒ごとに色を微妙に変える瞳が彼を見つめていた。


 「あんた、誰だよ」

 「わからないの」

 そう言って、寂しげにも取れる微笑みを彼女は浮かべた。

 「わからないって……」

 「ボクが誰だか、どこから来たのか、一体ぜんたいどうしてこんなことになっちゃっているのか、部屋が水浸しになっちゃうじゃないかとか、どうして水の中なのに普通に会話出来て呼吸が出来るのか、ボクは何の為にここにいるのか、そういうのが知りたいんでしょう?知らないよ。ボクは何も知らない。教えてあげられないよ」


 するするとまるで台本を読むように彼女が話すのを、健嗣はただ見つめていた。そして気付く。そういえば、そうだ。会話も呼吸も自然に出来ている。何故だ?いや、その答えはあげられないと、もうすでに釘をさされてしまっているのだったか。


 傍目から見れば呆然とも取れる立ち方をした健嗣の傍をそっと通り抜けて、彼女はドアの方へと向かった。


 出て行く気か?そう思った瞬間、頭の中を色んなシーンがよぎっていく。呆気にとられて、ややしてから叫び出す母親。駆けつける警察。連行される彼女。立ち尽くす自分。さっきみたいに優しく寂しく微笑む彼女。

 「出て行くな」

 思わず声を荒げた。それに驚く風でもなく彼女は振り返り、後ろ手にドアを閉める。ぱたん、と乾いた音がする。日常に組み込まれた、聞き慣れた音。少しばかり目を細めて彼女が、

 「出ていかないよ」

 日常と非日常とを分け隔てて、微笑んだ。



 迷子のこねこちゃん。そんな童謡があった気がする。どこから来たのか、何のためにここにいるのか、自分が一体何者なのか。そういうのは一切判らないという水棲種のような、言語を解する少女。


 つくづく変な状況だ。


 教科書の一ページ一ページを興味深げにめくってはながめ、逆さにしては斜めにして遊んでいる少女をベッドの上から眺めて、健嗣は嘆息した。


 「あんた、名前は?」

 「なんでも」

 「なんでも?」

 「キミの好きなように呼ぶと良い。何が良いかな?」

 「は。あんた、ペットか何かなのかよ」

 「ペット?ペット…。ああ、犬と猫が一番有名なやつだ」

 「有名、うん、まあ有名っちゃあ有名か。どっちかっていうと、そういうのはポピュラーっていうんじゃないの」

 「ポピュラー、ね。うん。どちらでも良い。なまえ、どうする?」

 「そんなこと急に言われたって……」

 困る。


 そこで会話が途切れてしまった。


 異様だ。変だ。おかしい。頭の中で自分が叫んでいる。こわい。こんなの有り得ない。起こる筈がない。夢に決まってる。そう叫んでる。でも、それと同じくらいわくわくしている自分がいる。そうか。わくわくか。そんな気持ち、随分と味わっていなかった気がする。誰にも言えないような非日常。現実には起こりえない今の状況。そういうのをどこかで切望していたのは、自分ではなかったか。そう気付いたとき、ふと笑みがこぼれた。そしてそれを敏感に彼女は察知する。


 「うれしいの?」

 「そうだな、ちょっと嬉しい」

 ふふ、とくすぐったいような声で笑うと、彼女はまた一人遊びに興じ始めた。かと思うと、すっと時計を指さす。

 「じゅく、でしょう?」

 「え?あ、ほんとだ」


 残念。タイムオーバー。ホイッスルの音が鳴り響く。塾の時間だ。塾の時間だなんて何でこいつわかったんだろう。まあいいか。のろのろと用意をしながら、行きたくないなと思った。思う自分に驚いた。新鮮だ。


 塾用の教科書だの参考書だのを詰め込んだ鞄を肩にひっかけて、ドアを開ける直前に振り返る。カーペットの上にふんわりと座り込んだままの彼女が健嗣を見上げていた。


 「じゃ、また」

 「うん。行ってらっさい」

 彼女が右手を挙げる。周りの水が呼応するように揺れた。


 ドアを閉めて廊下を歩きながら、一人ごちる。「行ってらっしゃい、だろう」そしてまた、肩をすくめて笑った。



 時間が人に平等に流れているなんて、嘘っぱちだ。

 早く授業が終われば良いと、何度願ったかわからない。いつも以上に集中力に欠けた授業態度で、終わるやいなや塾を飛び出した。歩く速度はどんどん増していって、帰宅するころには息はあがっていた。


 「母さん、今日は夕食いらないや。疲れてるみたい。おやすみ」

 母親が何か言っていたようだが、所詮バックグランドだ。もつれそうになる足を二階に運んで、ドアを開けようとして何故だか躊躇した。


 ここを開けて、彼女がいなかったら?本当に夢だったら?また、あの単調な生活に戻るのだとしたら?

 ドアノブに触れたまま、そんな予感が全身を駆け巡る。先程と同じように、目を堅くつぶって一気にドアを開けた。

 「おかえんなさい」


 ほっとした。泣きたくなった。何故かはわからない。ただ、無性に安心した。


 「ただいま」


 水の中で涙をこぼしたら、彼女は気付くのかな。それとも、すべて一緒になってしまってわからないのかな。



 生活が激変すれば、何かがとんでもなくおかしくなれば、もっとこう、もっと……。


 教室の窓からのぞく雲の群れがたなびいていく様を何とはなしに見つめながら、健嗣は自問自答した。もっと、どうなると思っていたのだろう。生活と同じように単調な自分も、激変すると思っていたのだろうか。


 あれから一週間が経った。自分でも驚く程に奇妙な水槽のような部屋での生活にも慣れた。だけど傍から見ている分には、健嗣の生活は以前とまったく同じだと思う。ただ変わったのは学校からいつもよりも早く帰宅するようになったこと。塾に行く前の数時間を部屋で過ごすようになったことくらいか。母親には勉強に集中したいからという理由で、夕食を部屋の外に置いてもらうことにした。もとより母親は、整理整頓だけは昔から得意な健嗣の部屋に無断で入るような性格ではない。


 案外、非日常とやらは日常に上手く溶け込めるように作られているのかもしれない。


 彼女はまだ部屋に住み着いている。一人遊びに興じては会話をする。見ていて退屈しなかった。感情によってその肌が透明度を変える様や、窓から差し込む夕日や朝日によって色味を変えるその瞳を飽かずに見つめた。


 名前を。そう何度も訴える彼女に根負けして、名前を付けた。いざつけようとしたら、案外に頭を使うものなんだなと思った。二日間、図書館に休み時間に通ったりして、自分なりに考えてみた。


 彼女はどこから来たのか判らないという。だけれど、彼女にはコミュニケーション能力も言語も、最低限のマナーのようなものすら身に付いていて、まるで誰かにそう育てられたようにも思えた。置き土産。忘れ形見。そんな言葉が頭に浮かんだ。フランス語の土産は、Souvenir。これには、英語でいうところのRemember、という意味も含まれているらしい。その土地を、その人たちを覚えておくための土産もの、か。帰ってきてその話をした。スーベニア。何度もその発音を繰り返す彼女は、やがてその瞳を深海の色に染めて、それが良いと言った。今は短縮してスー、と呼んでいる。

 実に短絡的だ。


 スーは決して部屋から出ようとはしなかった。出ては行けない気がするらしいのだ。こういった感覚的な抽象的なことをスーはよく口にする。それに対して、そんなものかと健嗣は特別視するでなく聞いていた。


 「ねえ。あれはなに?」

 煌々と最後の光を放つ夕陽を指さして、スーが唐突に尋ねた。今までじっと太陽を見つめているところを何回か目撃しているから、てっきり好きなのかと思っていた。そう告げると、

 「好きと知っているは別ものだよ」

 成る程。

 「あれは太陽だよ」

 「たいよう?」

 「ここ、おれたちが住んでいるこの惑星からずっとずっと離れたところにあるんだ。燃え続けているんだ。そして、その光がここまで届いている」

 「そう。燃えているんだ」

 「うん」

 「あったかい?」

 健嗣はそのまじめくさったスーの顔を見て少し顔をほころばすと、

 「あったかいっていうより、熱いんじゃないの?近付いたら、死んじゃうよ」

 「そう。死んじゃうの」

 「うん」

 「誰でも?」

 「いまのところ、誰でも」

 「こわいね」

 ぽつりとスーが呟いた。その顔があまりにも真剣だったので、健嗣はこちらも真顔になって、

 「でも、太陽がなくなったら、地球は暗闇に飲み込まれて、それこそみんな死んじゃうよ。何も見えない、何の食物も育たない。暗黒世界、ってやつだ」

 「やっぱり」静かに息を吸い込むと、「こわいね」言った。

 「だな」

 そして沈黙が訪れる。


 スーとの会話はいつもこんな風だった。健嗣は口数が多い方ではない。スーがふいに話しかけてくる、それに健嗣が応じる。そうして、会話はいつも心地好い沈黙に落ちていく。ゆらゆらと。


 「ねえ。さわれないかな」

 「え?」

 「たいように、さわれないかな」

 「無理だよ。言ったろ?死んじゃうよ」

 「そうか。じゃあ、ここから手を出しても良いかな」

 「窓から?そんなことして大丈夫なのか」

 「わからない。でも、わからないからやってみないとわからない」

 「何だよそれ、早口ことばみたいだな」

 からかうように微笑んでから、健嗣は机から身を起こすと、窓辺に近寄った。スーが何も言わずに彼の傍に身を寄せる。


 うっかり声をかけるのもはばかれるほどに熱のこもった瞳をその窓の向こうにむけて、スーはそっとその手を開いた窓の外へと差し出した。

 「いたい!」

 小さく、それでも悲痛な声をあげてスーがその手をすぐにひっこめた。見れば、薄緑色のその手の甲はまるでマグマの溶岩のように水ぶくれでいっぱいになっていた。


 「お、おい、大丈夫か」

 慌てて健嗣がその手にさわろうとすると、やんわりとだがきっぱりと、その手をさわらせまいと自分の方に引き寄せると、何でもなさそうに微笑んだ。スーは触れたり触れられたりするのを好まない。


 「だめみたい。ね」

 「あ、ああ…。でも、その手…」

 尚も杞憂に顔を曇らせる健嗣に穏やかに朗らかに笑いかけると、スーはことさら明るい声音で、

 「死んじゃわなくてよかったね」

 言った。




 天気予報がここ数日降っては止み、止んでは降り続ける雨は今晩をもってピークに達しそうだと告げたのは、あの夕陽の日からちょうど一週間と一日過ぎたときのことだった。


 「死んじゃわなくてよかったね」

 あの言葉。あの笑み。あの手の甲。夕陽。


 そんなものを順繰りに飽きることなく健嗣の脳みそはリピート再生し続ける。返す言葉が見つからなかった。返す顔を思いつかなかった。夕陽を見つめるたびに、自分の手をかざしてみる。その手を通して見える、自分の血管を不思議な面持ちで見つめたりした。どうしておれのは平気なんだろう。何で緑色じゃないんだろう。何で太陽のもとを歩いていても平気なんだろう。自分の価値観なんて、所詮そんなものだ。少しの比較で、根底からぐらぐらしてしまう。そういう、芯のない人間が自分なんだろう。ただ、違っているのは、そんなことに今まで気にもとめなかったこと。スーが自分に何らかの刺激を与えているのは、明白だった。


 水底のような自分の部屋の床を見るのにも慣れた。少し乱暴にものを投げ置けば、それがゆらゆらと部屋を漂うことにも慣れた。順応能力は、おそろしいものだ。妙に客観的にそう思う。


 「あ、また。あめだ」

 ベッドに両膝をおいて、窓辺に両肘をおいて、白昼夢でも見るかのような唄う口調でスーが外をさした。言葉通り、雨はまたもや天から降り注いで、さらさらと涼しげな音をたてて窓をなでていく。


 「今晩がピークらしいぞ」

 「ぴーく?」

 「ああ。えっと、今日の雨が最近で一番激しくなるらしい」

 「らしい?」

 「って、天気予報士が言ってた」

 「そのひとは、ずっと空を見てるの?外を見てるの?」

 「うーん。そう、かもな」

 「ボクみたい」

 言ってから、例のふふふと周りを震わす笑みを浮かべる。いつにもましてその透明度を増しているその華奢な腕をもたげて、人差し指で自分をさして、てんきよほうし、とゆっくり呟いた。

 「うん。スーは、この部屋の天気予報士だな」

 優しく言いながら、予報はしないから厳密には天気報告士かな、などと下らないことに思いを馳せる。


 机の上の電子時計はまもなく真夜中だと告げている。一、二時間前に帰宅した父親も、そろそろ就寝するころだろう。ふと窓に目をやれば、雨足は強くなるばかりで、そのリズムとともにスーが小さな声でメロディーを口ずさんでいた。


 「スー」

 何気なく言ったつもりが案外に掠れた自分自身の声で、健嗣はぎょっとした。そして急に心臓の音を身近に聞く。


 「なんだい」

 スーが窓辺からこちらに振り返る。あどけない顔。健嗣のいるところからでは見えないその手の甲には、あの日の火傷の痛みはまだあるのだろうかと思いながら、


 「出てみるか」

 「でる?どこにだい?」

 「外にだ」

 ずっと考えていたことだった。太陽にあんな風に触れただけで火傷を起こすのなら、反対に土砂降りの日ならもしかして平気なのかもしれない。充分な水さえあれば、スーは外に出られるのかもしれない。単純で幼稚だと言われてしまえばそれまでの論理。それでも、それが真実のように思えて仕方がなかった。内心、梅雨の時期でもないのに降り続ける雨をながめて、これはチャンスだろうと思ったりもした。外に出て、何かがあるわけじゃない。何かが劇的に変わるわけじゃない。でも、本当に?


 「そと。……そと?」

 言葉を反復して、窓の先の暗闇を見つめてからもう一度言葉を口にして、そしてつぼみが花開くようにゆっくりと微笑んだ。

 「行く」



 行くのは良い。行こうと考えたのは良い。問題は、どうやって、だ。

 あれやこれやと頭をひねって、結局二階の自分の部屋から出ることにした。その方が少しでもスーは水に触れていられる。玄関から出れば、それまでの間にスーの肌が炎症を起こす可能性があった。出来るだけリスクは避けたい。


 窓を開けると意外に強い風がカーテンを揺らして、招かれたように雨のしずくが部屋の中に入ってくる。それは部屋の中の水に、はじめは混じり合わずに球となって侵入してきて、そのうちに部屋の水ととけこんでいった。と、いうことはスーは外の水に拒絶反応は起こさないはずだ。窓辺におかれたベッドの足に押し入れから発掘した登山用のロープをくくりつけて、端を地面へとたらす。


 「おいで」

 健嗣が差し伸べる手にスーが怪訝な顔つきで近付いていく。

 「なんだい?」

 「おぶってってやる」

 「ははあ」

 何だよそれ、と苦笑しながら健嗣が背中を指さすと、スーは大人しくそこに体を預けた。体温というもののまったく感じられないその体は、華奢な体躯から容易に想像出来るように羽のような軽さだった。まったくもって、人間ではありえない。当たり前のその事実にいま一度直視せざるをえなくなって、健嗣はふと寂しいような嬉しいような気になった。


 「しっかりつかまってろよ」


 用心して小声でそうは言ったものの、雨はもはや豪雨となっていて、多少の物音がしたところで両親が飛び起きるとも思えない。ぎゅっとスーが肩を強く掴む、その感覚を痛いほどに感じながら、ゆっくりと健嗣はその体をロープづたいに階下へと地面へとおろしていく。開け放たれた窓をどうやって閉めれば良いか、上手く算段はつかないまま二人の体は濡れそぼる芝生の上へと落ち着く。


 「スー。大丈夫か」


 生きているか。


 メロドラマか感動のサバイバル映画か、普段なら口にしないような言葉を健嗣は口にしそうになった。生きているか。それだけは、こわくて聞けなかった。


 「うん。へいきだよ」

 背後から声が聞こえてくる。聞き慣れたはずのその声は、妙な反響を共にして健嗣の耳の中をわんわんと駆け回った。


 「行くか」

 「いくか!」

 こころもち興奮した風にスーが声をあげる。それに力を得て、健嗣はゆっくりと玄関の方へと向かって歩いて、やがて家をあとにした。


 真夜中の家々は静かに眠り込んでいる。その中を、雨だけが我がもの顔で風をきって進んでいく。月も顔を隠さずにはいられないような真っ黒い雲の団体が、健嗣とスーとを見守るように煽るように後を追い越しては追いついていた。


 「ねえ」

 「なんだ」

 住宅街を抜けて、ごうごうと音をたてる河を見下ろす土手に着いたくらいでようやくスーが口を開いた。


 「そとって、いいね」

 「そうか?」

 「うん。キミの部屋もボクは好きだけれどね。そとは特別だ」

 「特別、ねえ」

 「特別さ。だって」

 「だって?」

 「判らないかい?雲が動いてる。月が見え隠れする。空気は風に流されて、匂いはどんどん変化していく。そして何より」


 スーにしては饒舌なその演説をいったんそこで切らせて、ためいきとも感嘆ともいえない息を洩らすと、

 「キミは太陽に会える」

 呟くようにして言った。


 「……そうだな」

 一文字一文字を吐き出すのに、舌が強張っていくようなのを必死でこらえて、健嗣はやっとの思いでそう答えた。そう言うのが精一杯だった。


 そのとき胸の内をうずまいてかき乱していったその気持ちを何と表現したら良いのか。


 変わり移ろい行くものに気付かなかったのは自分だ。単調で退屈な生活をそうならしめたのは自分だ。


 恥ずかしい。文句を言うほどの気概もなく、変革を起こすほどの勇気もなく、すべてに終止符を打つほどの熱情もない。と、同時に何て自分は幸せなのだろうと思った。明日は今日とはまったく違う日になる。これから先、一日たりとも一秒たりとも同じになることなんてない。それに気付けて、なんて幸福だろう。明日を楽しみに出来るなんて、なんて幸運だろう。


 「スー」

 「けんし」

 「ありがとうな」

 「何のことだい?ボクは何もしちゃいないよ。今日だって、歩いているのはおぶっているのは、けんしだよ」

 「うん。そうなんだけどさ」


 暗闇に慣れてきた目に飛び込んでくる、黄土色の河の奔流を見つめながら健嗣は、

 「おまえがいてくれてよかったなと思ってさ」


 唸るような風と雨音の中で、スーの声はやけにはっきりと健嗣の耳に届いた。

 「どういたしもして」


 どういたしまして、だろ。スー。




 たくさん話したいことがあった。昨日とは違う今日のことを。昨日とは違う雲や風や太陽や月のことを。


 「ただいま」

 ドアノブに手をかけて笑顔で言いながら押し開く。透明に近い青緑色に包まれた水のなかでふんわりと笑う少女が、自分を迎えてくれるはずだった。


 昨日までは。


 「スー?」


 震える唇で、それでも名前を呼んでみる。呼びかけてみる。もうここにはいないのだと心のどこかでは痛感したまま。


 部屋を満たしていた水はきれいさっぱり消えていて、そしてスーの姿もどこにもなかった。漂うことなどすっかり忘れてしまった筆記用具に枕に教科書に漫画にパジャマは、部屋の中で鎮座したまま健嗣を見つめる。


 「何だよ、それ」

 何だよそれ。何なんだ、これは。勝手に現れて、勝手に去っていく。何の答えも残さずに、何の別れのあいさつも残さずに。


 どこから来たのか。何のためにここにいたのか。どこへ行ってしまったのか。人間なのか、人間じゃないのか。家族はいるのか。今までどこでどうやって暮らしてきたのか。


 聞きたいことは山ほどあったのに。教えたいことも山ほどあったのに。話したいことも聞いて欲しいことも、山ほどあったのに。


 「ぜんぶ、無視かよ」

 眉根に深く皺を寄せて、堅く目を閉じて、健嗣が呟いた。


 もう、会えないのか?




 自分でも未練がましいとは思いつつも、あれから一ヶ月待った。毎日、首をもたげる期待を見て見ぬふりをしながらドアを開けて、ぬるい失望に体をゆだねた。もう、いない。あの、夢のような奇妙な日々は、本当に終わってしまったんだと。そう納得させるのに一ヶ月もかかったということか。


 小さい、水槽を買った。あの日スーと一緒に行った土手で拾ってきた石を底に敷き詰めて、水をなみなみと注ぐ。毎日、水を換えよう。濁り行くようなことがないように。


 水槽の壁に自分の手の平をくっつけて、水の中をとおしてそれを見つめてみる。こころなし薄い緑に染まるそれを、ぼんやりとだが真剣に見つめ続けた。それで何が変わるわけでもない。でも、何も変わらないなんて、誰にも保証出来ない。



 明日はきっと、今日とは違う日になる。

 

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