マイ・プロジェクト-1秒先の未来予知
私は常に恐怖を持って生きている。何に恐怖を持つかというと、自分の未来にである。毎日、メディアから恐怖の種になるニュースが流れる。未明のひき逃げ、ストーカ、理由もなくすれ違いざまに刺される、火事、航空機の失跡、観光地でテロに会う、登山中の火山の爆発。それらの被害に会った人は、自分が1秒後にこの世から去らねばならないなんで誰も思っていなかったはずだ。世界は混沌を深めている。さらに恐怖の種は大規模になり、どこかの国の狂気に見舞われた人間が原爆のスイッチを押して、相互に反応しあい地球が破壊されるかもしれない、小惑星が突然地球に近づき衝突しないか。ああ、何という恐怖に自分は囲まれているのだろ。とにかく、人間が環境を破壊して地球が死滅する前に、自分はこの先10分後にも、いや1分後にも存在しなくなるかもしれないという恐怖におののく。
たとえば、飛行機事故に遭うとする。そこに至るまでには、たくさんの偶然の要素が一挙に集中した結果起こることだ。人間のミスはもちろんだ。人間はミスをするものであることは、自分が一番よく知っている。たまたま、整備の人間がボルトが浮いているのを見逃した。たまたま、機長が風邪をひいて代理に変わった。たまたま、おおきな積乱雲を回避するために高度を上げた・・等々のいくつもの偶然。そして、いくつものミス、いくつもの環境、それらがググッと寄り集まり、凝縮してエネルギーを高め、一気に破局へと向かっていくのだ。ゴミが集まって発火するように。
私は、自分の恐怖に打ち勝つため、自分の未来を見るための装置の開発に取り組むことにした。私が欲しいのは、何年も先の未来を知る装置ではない。そこに私はいないかもしれないのだから。少し先でいいのである。たとえば、私は来週、結婚式をあげフランスに旅行する。幸福な日々を想像している。短い旅をとても楽しみにしている。しかし、そのために恐怖も大きい。そこまで、私は生きていられるのか。とにかく、結婚式を終えて出発できるところろまでは、生きていたい。自分がうきうきして飛行機に乗り込み、かの地に降り立つことを想像する。そこまで、まずは生きていたいのである。その先はまた考えるとして。
そして、装置は多くの機能を必要としない。私が、そこまで生きているということさえわかればいいのだ。どうやって作るか。まず、時間軸を操作するのは難しいだろう。私が4次元に住む住人ならば、3次元でやっているように、あっちにいったり、こっちに行ったりすることもできるが、3次元に住む私は、いつも時間の経過を伴い時間に縛られている。SFでなければ、時間の経過なくして、それを実現することができない。したがって、いつも少し先にある私の将来を見ることはできない。それではどうするか。
もう少し、現実的に考えよう。占いはどうか。星の運行だとかで将来を占うではないか。バイオリズムとかもあったな。しかし、これらも人がミスを犯すかもしれない環境の変化を微妙に感じる取る可能性はあるかもしれないが、何と言っても精度が荒すぎる。そして、私の将来にかかわってくるのは、私自身の問題ではなく、周りの人や環境が問題なのだ。私は、舞台に立っているが、周りの人や環境が私の数秒先の運命を決めるのだ。自動車事故だって、風で倒れた看板に当たって死ぬのだって、私は、そこにいただけである。私が知りたいのは、1秒後に、私は一歩先に歩くべきか、止まるべきか、ハンドルを切るべきか、維持するべきかだけなのだ。それを精度高く知りたいのだ。
次にカタストロフィー理論という論文を見つけ出した。スイスのカタストロフィー研究所のスワロスキー博士(架空)が提唱したものである。カタストロフィーが起こることを予測すると前書きにあり、大いに期待する。私にとって、死は最大のカタストロフィーだ。内容は、戦争というカタストロフィーがどういう周期で起こっているかを解析し、今後の戦争が起こる間隔を予測するというものだった。そして、時間軸の上にカタストロフィーエネルギーが高まるところのグラフが示され、たしかに、今までの世界大戦のところのカタストロフィーが大きくなっている。未来にも、いくつかのグラフが盛り上がっている山が見られる。戦争はマクロ的にみれば、文化的に抑えている人間の動物的衝動が周期的に爆発するという理論を実証しようというものだった。私は、がっかりした。それでは困るのだ。何としてでも、戦争は制御しきっていかなければ人間ではないし、なんといっても、この理論は私の目下の目的に利用価値がないのだ。
いろいろ考えた末に、一番手軽な方法をとることにした。その方法は、眼鏡型ウェアラブルを装着し、私の視界の範囲の現象をつねに動画撮影する。そして、その動画の情報をオブジェクトごとに処理し、次の瞬間のオブジェクトの動きを予測するのだ。私の周囲のの自動車、看板、人が1秒後にどういう動きをするかを予測し、その情報を私にインプットすれば、それに対応して私はどう動けば危険を回避できるか判断できる。この情報をウェアラブルの画面に表示する。装置は完成した。常に、私はこの眼鏡を装着していれば、自分のほんの少し先の未来を見ながら活動できる。その結果、1週間後の旅行の日を無事に迎えることができるのだ。その先も。
しかし、私はミスを犯していることに気付かなかった。私は、そこにずっと静止しているわけではないのだ。私も動いているのだ。その意思をどう反映すればいいのだろうか。私がうごけば、それに応じて私の視界おオブジェクトの動きもかわるだろう。静止物であっても、私が動けば、空気の流れがかわり、環境が変わるはずだ。1秒後のオブジェクトの情報から私を取り巻く環境を計算しそれを判断しながら動くとその時点での環境は影響を受けてしまって予測とはずれてしまっている。私が存在することで、その環境を乱し、予測結果を無意味にしてしまう。卵が先か、鶏が先か。私の存在自体が問題になっている。
また、もう一つ問題があった。目の前の物(これは、常にウェアラブルを装着した状態でみなければならない)に対し、何の感動も起こらなくなったことだ。いわゆる既視感である。季節が冬から春に徐々に変化し、枯れて見えた木の枝から、小さな美しい若緑の芽が吹きだしてくる。海辺で波が打ち寄せ、風が頬をなでていく。街のあちこちでも明るい光が満ちてくる。その生の感覚を私は1秒前に予測してしまっている。たとえ1秒前であっても、イメージで既に見てしまっているのだ。要はテレビで自然番組を見ているのと同じになってしまった。
結局、このマイ プロジェクトは失敗であった。しかし、自分の運命が結局は自分の存在から派生しているわけで、誰のせいでもないということに気付いたことは、プロジェクトの成果であるといえる。
そして、何と言っても私はウェアラブルメガネが似合わないのだ。このカッコで生活すれば、明るい未来さえ開けないわけだ。