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「だからさ、そういうのは無理なんだよ。どうして君の論文はこうも毎回おかしな方向へ突っ走っていくんだい?・・・ああ、そう。分かったよ。とにかく午後にでも一度私のところへ来なさい。いいね?じゃあまた後で」
受話器を置いた春日教授は明らかにニヤけていた。学外では今季の最低気温を更新中だというのに、この中年教授の顔は真夏の太陽のように赤くなり、浮いた脂で燦燦と照っていた。そんな中年男のニヤけ顔など犬も食わないに違いない。食ったところで過激なアレルギー反応を起こして悶え苦しむに決まっている。こんなひどい仕打ちはあんまりだ。誰か動物愛護団体を呼んでくれ!
「それで、だ。杉谷君。今日はどうしてここに呼ばれたかは分かってるよね?」
苦しみ、息も絶え絶えになった犬の仇の顔がこちらを向いていた。その顔からニヤけは消え去っていたが、赤みと照りはそのままだった。前言撤回。こんな顔、犬どころか地中の微生物だって分解を拒否するはずだ。微生物にだってそれくらいの権利があってもおかしくはない。
「はい。ええっと、この間の追試の結果についてですよね」なるべく顔を直視しないよう気を付けながら、応える。「でも、どうして僕だけ呼ばれたんですか?」
「逆に質問させてもらうが、君だけ、ということについて、何も心当たりはないのかい?」
「特に何もないですね。強いて言うならこの間の追試で出題された設計の課題、ですかね。けっこう自信作なんですよ、あれ」そう言って後頭部を掻いた。自信作には違いがなかったが、自分で言っておきながら少しだけ恥ずかしくなったからだ。
「そうか」
期待していたものとは違う声のトーンに違和感を感じて、視線を僅かに顔に向けると、こころなしか、赤みがかっていた顔がだんだんと青褪めてきているようにも見えた。それでも、照りだけは失われてはいない。もし今、この瞬間だけを写真で切り取って第三者が見たならば、肝臓を患って入院中の中年男と、それを見舞にきた親戚の若者にも映るかもしれない。
「何か、あったんですか?」少しだけ神妙に居直して、尋ねる。
「ああ、まあ、うん。そうだな」
「はっきり言ってくださいよ。気になるじゃないですか」
「そうは言うがな・・・。まあ、そのうち学生課から案内があるだろうし、それを待つというのもアリと言えばアリ、じゃないか?」
呼び出しておきながらこの態度はなんなんだ。煮え切らないのは学食の胡瓜の煮付だけで十分だ。
「いえ、この寒い中せっかく来たんですから教えてくださいよ。そうでないと夜も気になって眠れませんし」
「・・・いいだろう。君がそこまで言うのなら」
暫しの沈黙。今、この教授室にいるのは僕と顔の悪い入院患者、もとい顔色の悪い中年の春日教授。この殺風景な部屋で、僕達が呼吸する音だけが互いの存在を認識する術だった。そして教授はそっと僕の腰に手をまわし、耳元で囁く。その湿った声が僕の全身に電流を走らせ、甘美な背徳と快楽の世界へと堕ちていく・・・そんな展開だけは絶対に御免だ。誰か動物愛護団体を、いや人権保護団体を!
「杉谷君」
「あ、はい」
地獄絵図のような想像を打ち消し、姿勢を正す。
「君、留年決定」
「・・・へっ?」
間の抜けた返事と共に再び訪れた沈黙。今、この教授室にいるのは僕と顔の悪い入院患者、もとい何をいわれたのか理解できない僕とより一層顔色の悪くなった春日教授。僕達が呼吸する音で腐った世界になど堕ちて行ってたまるものか。
「留年、ですか?」思わず教授の顔を直視すると、照りは残っているものの、死んだ魚のような顔になっていた。「本当に?」
何も言わずに教授は頷くと、窓の外でいつの間にか降り出していた雪を見ながら言った。
「まあ、もう1年、もう1回頑張りなさい」
動物愛護団体が助けてくれるモノのリストに人間は入っていないのだろうか?もし入っているのなら今すぐ助けてほしい。誰でもいい、誰か動物愛護団体を呼んでくれ!




