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しかしそんなエリーゼに、おじさんははっきりと口にした。
「あるよ。」
一瞬の沈黙。おじさんが、くしゃくしゃと、読んでいた新聞をたたむ音がやけに大きく響いていた。
「え、あるんですか。」
自分で聞いておきながら、意外すぎて頭がついていかなかった。嘘だろ、と思わなくもないがそんな事を言っている場合でもない。
しかし、なんと言っても、もう、小躍りする程度には嬉しかった。
「だからって、もう、庭でかくれんぼはしないでね。」
おじさんは、ぼそりとエリーゼに釘を刺した。
すぐに、と言われたのでいつもの厳つい鞄片手に新しい勤め先へ向かった。足取りも軽やかに。
今度の仕事は、家庭教師ではなく普通の侍女の仕事らしい。なんでも、数週間前にこのあたりに越してきた若い貴族の家だという。エリーゼはほんの少しほっとした。多少の変装は続けるが、もう不自然なまでに年を食った振りはしなくて良い。
もと来た道を戻り少し進むと、高級住宅街へと足を踏み入れた。大きな楓の葉が、石畳の上を覆っている。赤、黄色、茶。紅葉の様子が色鮮やかだ。
高級住宅街をすすんでいく。やがて見えてきた、一際目をひくゴシック様式の邸宅。高くそびえる尖塔と、それを支えるフライングバットレスが見事だ。軒下では、ガーゴイルの彫刻がこちらを睨み、庭の東屋ではカリアティッドが軽やかにその屋根を支えている。東屋の周りに広がるフランス式庭園は美しく、丁寧に刈り込まれて行儀よくそこに在った。
ここか・・・
斡旋所で聞いた、住所と屋敷の外観を再度確認する。随分と立派な邸宅である。
今度の仕事はあたりかもしれない。
「新しく侍女として参りました。マリア・スミスです。」
門の脇に控える警備のお仕着せを纏った青年に紹介状を見せる。そして出来うる限り優雅に礼をとると、彼はにっこりと微笑んだ。私の顔と紹介状を確認すると、あっけないほどすんなりと門を通された。
「確かに承りました。このまま玄関まで、どうぞ。」
指さされた玄関へのアプローチを進む。良く手入れされた庭の様子から、この屋敷の主人や庭師の趣味の良さを感じる。品よく、丁寧に整えられた庭園と言った佇まい。綺麗に掃き清められた庭園の落葉広葉樹。美しく刈り込まれた常緑樹。赤く色づいた、美しいりんごの木。シーズンになれば、色鮮やかに、馥郁たる薫りを放つであろう薔薇の蕾が行儀よく並んでいる。
春が、楽しみね。
春まで、首にならなければの話だが。
エリーゼは目を細める。
その一角に、丈の低い植物を植え付けた花壇があった。球根、茎、葉の様子から、時期的に植えられているのはスノゥ・ドロップだろう。
・・・本当に、嫌味な程に良い趣味ね。
スノゥ・ドロップは、エリーゼの大好きな花だった。それと同時に複雑な気分になるのではあるが。
それは、恋人と分たれたあの日。王宮の朝まだき庭園の情景。その思い出の中で足下を可憐に、白く、清く彩っていた。彼はそこで、待っていてくれと私に懇願したのだ。そっと、私の掌にスノゥ・ドロップの花を摘んで。
私はそれを胸押し抱いて、絶対に、お待ちしております。そんな約束をしたのだった。なんて素敵な思いで。なんて初で可憐な私。
鼻の奥がつーん、としてきた。
感傷なんて、いらない。思い出じゃ、腹一杯にならない。がんばって働くんだ。
鼻の奥の痛みを、そんな言葉でかき消す。
心の中での決意も新たに、重厚そうな造りの扉の前に立つと、深呼吸を一つ。
そうして、よしっと気合いを入れると、精一杯もったいぶった動作で扉を叩いた。
「斡旋所からの紹介で参りました、マリア・スミスです。よろしくお願いします。」
よし、今度こそ、がんばろう。というよりむしろ今度こそ首にされて堪るか。そんな思いをこめて。
エリーゼは勢い良く、頭を下げた。
出てきたのは恰幅の良い老齢の侍女頭だった。彼女は、ソフィアと名乗った。
ソフィアに案内され、屋敷の主人の部屋へ出向く。
「旦那様、失礼致します。」
ソフィアは折り目正しく、頭を下げると扉に声をかけた。彼女は入って、といういらえを受けて、扉を開く。旦那様、と呼ばれた人物は机について執務中だったようだ。せわしなく、手元が動いている。
「新しい、侍女?」
「はい、旦那様。マリアと申すものです。」
「ふぅん・・・もう少し、若い子が良かったんだけどな。」
「そんなことを言われても、若い侍女を、浮ついているから、という理由で解雇なさったばかりではありませんか。」
「だって、気がついたら僕の寝台の中にいたんだもの。ああいう子が嫌だっただけで、なにも若い子が嫌だって言ったんじゃないよ。」
部屋へ足を踏み入れると、下げた頭上で行き交う会話。ちょっと失礼だ。これでもまだ19ですが、なにか。
「若い女の子がいると、何となく華やぐしね。」
「そんな事をおっしゃるのなら、はやく結婚なさってくださいまし。
また、お父上からお手紙が届いておりますよ。」
「またか・・・父上も相も変わらずしつこい。
結婚相手くらい、自分で見つけるって何度言ったらわかってくれるのかなぁ」
全くもって、その通りだ。なんてすばらしい雇い主。気が合いそうだ。声も落ち着いていて、いい感じ。
いい感じ・・・?
「それから叔母上様からも、お手紙が届いております。」
「叔母上からも?
釣書は、もう見飽きたんだけどなぁ。」
え、この声・・・
聞き覚えのある声に、よく似ている。
『待っていてくださいね。』
懐かしい情景が、走馬灯のように蘇ってきた。
「・・・。
まだ、中身は確認しておりません。
ですがみなさん、心配なさっておいでなのですよ。」
「でも、僕も子どもじゃないんだからほっといてよ。」
いやいや、そんな偶然ある訳ないよね。
そう思いつつ、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
顔が、あげられない。
「ねぇ、君もそう思うでしょ?」
旦那様はそう言うと、さわやかにこちらに目をくれた。
まずい。間違いない。
「はいもちろんでございますだんなさま」
エリーゼは、顔を上げる事もできずにいらえた。
「顔、あげて」
主人は、そんなエリーゼに不思議そうに声をかける。
しかし、顔を、あげられる訳がなかった。
それでも・・・
・・・ここまでか。
エリーゼは腹をくくると、のろのろと顔をあげた。視線が、ぶつかる。
三年前よりも、少し逞しくなったその顔。しかし、三年前と変わらぬ、涼しげな目元。
ああ、間違いない。
クラウス・・・
新しい雇用主もとい元恋人は、ほんの少し片方の眉をあげ、
「あぁ、きみ思ったより若いんだ。」
思っても見なかった事を宣った。




