三章 なにも、なかった!…たぶん。
熱は素直に下がり、暫く安静にしたのち、私は普通の生活に戻った。あれはやっぱり気の迷い、と思いながら。
とある夕食どき。
肉とスパイスの匂い、笑い声、グラスが触れ合う音。男たちは台所の隅でちゃっかり酒盛りをしていた。
「母さん!演習の戦利品ワイン持ってきたぜ!」
ジャックが栓を抜く。
「母上、今夜は飲みましょうよう」
コンラッドが珍しく絡んでいる。
「母さま、香草酒、少量なら血行に良い」
カイルは真顔でズレていた。
そこへドレスの裾がひるがえる。
「お馬鹿たち、出ておいき!」
「ママの近くでは飲酒禁止って言ったでしょ!」ルリアとエレナが追い立てた。
「撤退ー!前隊、退避ー!」
コンラッドが酒瓶を抱え
「野営準備開始ー!」
ジャックが樽を担ぎ、
「……屋根裏は危険」
カイルが冷静に庭へ誘導し、酔っ払いたちは去っていった。妹らの監視の目と共に。
私は遠くに聞きながら、湯気の立つつまみを載せた盆を持って居間に来た。
「……あら、みんな、もう追われたの?」
ソファには本を開くセドリックだけが残っていた。
「騒がしいので強制退避させられました」
「あらそう。――ほら、貴方も少しだけ」
私が盆を置くと彼は素直に席を詰める。
「快気祝いよ」
「もう?……君は頑張りすぎるから」
「…頑張るのはやめられないのよ。血が繋がらなくたって、年が近くたって、母だもの」
「…たまに頼る練習してみて?今日は相手がいるよ」
「練習台、ね」
「…なんか嫌だなそれ」
カップを合わせる。
私は両手でホットワインを持ち、くすくすと笑った。
「……君の無邪気な顔は、反則だ」
「じゃあ見ないで」
「やだ、見せてよ」
「…ときどきね」
「…毎日みたいけど?」
カップのワインを2杯、3杯。頬が少し熱い。目を擦る。
「ふふ……眠いのかい?」
「んん…うー…いいえ…あなたのほうが、私の看護で、寝不足でしょう」
「王太子は不眠仕様です」
「何その仕様……」
笑いながら、私はソファの背に体を預ける。
瞼が重い。膝に置いた指先が、そばにある布を無意識に掴んだ。
「……セドリック」
「はい」
「……どこにも行かないで」
自分でも驚くほど小さな声になった。
彼は一瞬だけ息を呑み、微笑む。
「……それって、ずっと?」
「ちが、いま、だけ……」
「はいはい――まあ、ゆっくり進めるよ」
彼の服の布感。肩越しの呼吸。心拍は穏やかであったかい。
(……なにを、すすめるの、かしら)
それはもう次の日には覚えていなかった。
◇
朝。
鳥の声、ドアの音、足音。
――足音が、やたらうるさい。
「母上?」
「母さん?」
「母さま……」
「お母様?」
「ママ!」
まぶたの隙間から見えたのは、まず、リビング。ソファに横向きに掛けて眠っている私は、何か温かいものを枕にしているようだった。
上をふと見るとソファの背にもたれ掛かりすやすやと寝息を立てるセドリックがいた。
そして――
「殿下あああ何してるんですかあああ!!」
ジャックの絶叫。
「母上!母上!何事もありませんでした!?」
コンラッドの低音。
「お母様に触れないでと何度言えば」
エレナの拳が揺れる。
「でんかぁっ!ママにまさかとは思うけどなにもしてないよねえ!?」
ルリアも拳を振る。
「……倫理違反です」
カイルは眉間に皺を寄せていた。
セドリックの袖――を、掴んでいたのは、私の手だった。
私は瞬時にしっかりと目を開け慌てて離す。
「ち、ちがうの、これは――」
「おはよう」
セドリックが瞼を上げ、完璧に寝起きの声で私に麗しく微笑む。
「……大丈夫?アウラ。ん、でも朝も可愛いね?」
その瞬間、エレナのこめかみがぴくりと跳ね、ジャックの拳がぎゅっと握られ、コンラッドの眼鏡が光った。
「釈明を」
「遺言を」
「今すぐ」
「短く」
「早く」
「んん?――昨夜二人で少し飲んで彼女が袖を掴み、私は動かず見張った」
セドリックは淡々と言い、そして付け加える。
「…何もしてない」
「信じられない」
「…お義父さんって呼びたくない」
「証拠を出しなさい」
「…殿下、ママに誓って王位賭けれる?」
「嘘発見魔法作る?」
「ちょ、ちょっと待って!ほんとに何も――」
私が立ち上がろうとした瞬間、こめかみがきゅっと縮む。ズキ。
軽い痛み。セドリックの視線がすぐにこちらへ――そうっと治癒をかけられた。
「大丈夫?」
「…うん」
彼は目だけ笑った。
「君のときめき、学習したかも」
空気が更に凍る。
「――殿下…少しお話を」
コンラッドがセドリックを掴む。
「はいはい。朝食のあとで」
「今すぐ」
「ええー……」
「もう、あなたたち……!」
結局、私は自室で身支度を整え、何やら叱られているセドリックがいるダイニングの隣のキッチンで朝ごはんを作った。
◇
水を飲みながらアウラは魔力を使った。
(やっぱり、気のせいじゃない)
テーブルにはパンとスープ。
セドリックはパンを割りながら、何気ない声で言う。
「水の味が普段と違うねえ……」
「……あなたも感じたのね」
セドリックが頷く。
「あとで井戸を見て。場合によっては明日、森の水脈も見ないと」
セドリックと目が合う。彼は仕事の顔になっていた。




