アネットの就職先
扉を開けた瞬間の出来事だった。
「ひやぁああー!」
アネットは黒い物体に押し倒された。
その物体は、「ガルルゥ」と唸り声をあげながら、はぁはぁ、と生暖かい息を吹きかけてくる。
猫を数十倍大きくさせた獣のような姿をしており、ふかふかの真っ黒な毛に黄金の瞳をギラリと光らせると、アネットを見下ろしながら、大きな牙を見せびらかした。
――あ、食べられるんですね、私……。
瞬時に何もかも理解したアネットは、十六年という短い人生でしたね、と潔く目を瞑った。
まんべんなく匂いを嗅がれ、ああ、どこから食べられるのだろうか、と息を潜めていると、ビリビリ、バリバリと音が聞こえてくる――。
――あ、ぁ……。
痛みはないが激しい熱い吐息と共に、ぬるぬるとした液体がポタリ、ポタリと顔面に落ちてくる。
その唾液に恐怖心が倍増するが、一体、何処から食べようとしているのだろう……? と怖いもの見たさで黒い獣をチラ見すると、アネットの制服が無残にもビリビリと引き千切られており、胸がぽろんと空気に晒されている。
――いや、普通に恥ずかしいです。
食べるなら早く食べて下さい! と心の中で祈っていると、「シャドウ!」と何処からともなく男の声が聞こえてくる。
その声を聞き、アネットに覆いかぶさっていた獣は声のする方へ耳を向け、ぴょんと飛び跳ねて行った。
助かったの? と安堵するが、今度は別の危機が迫っているこに気が付く。
大きな足取りで男が近付いて来る気配を感じて、取りあえず胸だけは隠して見る。
煌びやかな衣装を身に着けた男が自分を見降ろし、「ほう、これは、なかなか刺激的だ……」と言いながら目を眇めた。
彼は辺りを見回し、豪奢な天蓋の布に手をかけると、それを力任せに引き千切り、アネットの身体にふんわりと乗せた。
「起きれるか?」
男の問いかけに頷くと、アネットは与えられた布を身体に巻き付け、何とか立ち上がった。
大変な目に遭ったけれど、取りあえずは生きているので良かったと思う反面、これから毎日このような目に遭うのなら、正直いつ死んでもおかしくないと思う。アネットがそんなことを考えていると――、
「すまなかった。俺が代わりに償おう……」
そう言って申し訳なさそうな顔をしながら男は謝罪した。
「何がいいだろうか? 金か、宝石か、ドレスか、それとも俺か?」
――ん、今、変なのが交ざってた気がします……。
聞き間違いかも知れないし、聞き間違えではないなら、彼なりの冗談だと考えるのが無難だった。
「さあ、どれがいい?」
「え……っと」
今までの十六年という人生の中で、見たことの無いほど美しい造形美の男に微笑まれただけで十分に満足なのですが……、とアネットは思う。
それと、自分の認識が間違ってなければ、この男は第一王子のガーランドに違いない。取りあえず挨拶をしようとしたその時、「ガルルルゥ」と黒い物体がこちらを睨んだ。
「シャドウ、静かにしてろ」
低く落ち着いた声に制されて、シャドウと呼ばれた獣は床にペタンと身体をふせた。
今のうちに挨拶だけはしておいた方がいいと思ったアネットは、天蓋の布を身体に巻いたまま目の前の男に挨拶をした。
「あ、あの、このような格好でご挨拶をするのは気が引けるのですが、本日付けでアルテミス宮殿に配属となりましたアネットと申します」
「話は聞いてる。俺はガーランドだ」
第一王子のガーランドの話なら、国中の人が知っていた。
慈悲など持ち合わせてない冷酷な王子であり、聖獣であるシャドウ・キャットを溺愛しているとの噂だ。
ガーランドは今年で二十歳を迎えたが、未だに結婚どころか婚約すらしたことがないと言うし、恐らく聖獣を愛し過ぎているからなのだろう。
せっかく端整な顔立ちをしていらっしゃるのに……、と残念な王子を見つめていると――、
「それで、何が欲しい?」
「え?」
「アネットは妖精族なのだろう? ならば宝石か一番いいか」
はて? 妖精族とは? 何を仰っているのやら、とアネットは小首を傾げる。そんなことより、取りあえず一番欲しい物を伝えることにした。
「ガーランド王子、今は新しい制服を所望します」
「制服……、ああ、侍女として城に潜伏して、俺に悪戯でもするつもりだったか? 妖精族は悪戯好きとは聞いていたが、そうか……」
王子の言う〝妖精族〟というのもイマイチ分からないと言うのに、勝手に色々なことを解釈している彼を見て、いやいや、と頭を左右に振った。
この宮殿に配属になったアネットは、王子へ初任の挨拶に来ただけだ。
それなのに、運悪く聖獣であるシャドウ・キャットに押し倒されてこんなことに――、とアネットは床に散らばる無残な姿の制服を見て目を細めた。
「で、どうするんだ? 俺に悪戯するか?」
そんな満面の笑みを向けられても! と思うと同時に、どうして悪戯しなきゃいけないのですか? と、何だか考えるのが面倒になったアネットは取りあえず逃げ出した――――。
アネット・ブラインは没落した男爵家、クライン男爵家の長女だった。
母親は物心付く前に他界し、その代わり父親が男で一つで育ててくれたが、病で帰らぬ人となった。
遠縁にあたるバーネット伯爵家の伯母が紹介状を書いてくれたおかげで、王室の侍女として働けるようになったが、勤務先が第一王子のアルテミス宮殿と告げられ、ちょっと驚く。
初日で第一王子の侍女を任されることになるなんて……、と嬉しさ半分、悲しさ半分だった。
普通なら他の侍女達に羨ましがられたり、嫌がらせにあったりするのかと思っていたけど、何故か侍女全員に涙ぐまれた。
「アネット……、頑張るのよ。大丈夫、あなたなら出来るわ」
一年先に王宮勤めとなったハンナとイザベラは、こちらの手をガシっと掴むと声援を送ってくる。
「そんなに大変なのでしょうか……?」
「……行けば分かるわ」
そう言って送り出され、アルテミス宮殿に来たが、門前にいる兵士から、「新しい専属侍女か?」と確認をされ、それにうなずいた。
兵士から〝可哀想に〟という表情で、「無礼のないように」と忠告を受けると、宮殿の門が開かれた。
この城には六つの宮殿があり、国王陛下と王妃の宮殿以外の五つの宮殿は、聖獣が暮らしている。
王族は成人すると、好きな宮殿を選び聖獣と契約をすることになっているが、アネットが任されたアルテミス宮殿は過去の王族の中でたった二人だけしか契約をしたことがないシャドウ・キャットと呼ばれる聖獣が暮らしていた。
――わぁ……。
目の前に広がる景色は密林のように緑で溢れており、現実逃避が簡単に出来そうだった。
密集する木々と花々により、みずみずしい空気とほのかに漂う甘く可憐な香り、本当に別世界に来たかのような幻想的な雰囲気だ。
――素敵な宮殿だわ、アルテミスという名が付くのもうなずけますね。
美しい宮殿にアネットの口角も自然とあがり、意気揚々と宮殿へ足を踏み入れた結果……、聖獣に襲われたのだ。
せめて聖獣に飛び付かれるから気を付けてね、くらいの情報は欲しかったのですが……、と目が覚めたアネットは、ぱしぱしと瞬きを繰り返す。
あれ、ここは何処ですか? と起き上がると側に人の気配を感じた。
「お気づきになられましたか」
「はい……」
「私は各宮殿の管理をしております。侍従長のリッツと申します」
「は、はじめまして、あの――」
状況が分からないアネットは、どうしてこんな豪華な部屋で寝ているのでしょう? と小首を傾げた。
どうやら王子の部屋から飛び出したアネットは、聖獣の食事を運びに来た召使いとぶつかって、そのまま気絶したのだと侍従長が教えてくれる。
それを聞き、寝台の上でアネットは深々と謝罪を繰り返した。
「すみません、すみません、どうか解雇だけは……」
「アネット、でしたね?」
「は、はい」
「何も謝ることはございません、あなたは妖精族であり、聖獣達と近しい存在なのですから」
そういえば、ガーランド王子もそんなことを言っていたけど、どいうことなのだろう思う。
妖精族なんておとぎ話でしか聞いたことがないし、そもそも、どこが妖精なのかしら? と疑問しか浮かばないが、もしかすると自分の知らないうちに羽でも生えてしまったかも知れないわ、と非現実的なことを考えつつ背中に手を伸ばした。
アネットの様子を見て、くすくす笑い出す侍従長のリッツは、「ああ、失礼しました」と言いながらコホンと咳を払う。
「あなたの首の後ろに妖精族の証である文様が入っております」
「え……」
「首の後ですから、ご自分では分かりませんよね、聖獣には本能で分かったのでしょう」
――え? 首の後?
けれど、本当にそうなら、どうして王子のガーランドは分かったのだろう、とアネットは頭を捻り、ああ……、挨拶した時に……、と王子に深々と挨拶をした時に見えたのだと気が付く。
「バーネット伯爵家に確認をしたところ、貴女は戦地に捨てられていた子だとか」
「えぇ? そ、そうなんですか?」
「やはりご存じありませんでしたか」
そう言って侍従長のリッツは話を続けた。
「どうやら、クライン男爵家は子宝に恵まれなかったようですね。それで遠征先の戦争区域で拾った貴女を養女として迎え入れたそうですよ」
「……」
初めて聞かされる話に驚いたものの、何故が納得してしまった。
なぜなら、父親はアネットの誕生日を毎年間違えていたからだった。戦地へ行った兵士は脳障害を患い、記憶が曖昧になると教えられたけど、その割には母が亡くなった日や、結婚気記念日を忘れたことが無かった。
だから、病を患って辛い思いをしていたわけではないと知り、逆にほっとした。自分にとっては優しい父だったし、最後まで養女ではなく実の娘として接してくれた彼に、今更だが心の中で感謝した。
「妖精族は精霊士と妖精の間に生まれた混血の子ですが、貴女は精霊士の血を濃く受け継いだせいで捨てられてしまったのかも知れませんね。羽が生えていれば妖精界で暮らせたのでしょう」
どうやら見た目が人間に近すぎるという理由で捨てられたのではないかと侍従長は言う。
「それに混血の子の場合、能力といえば人の心の邪気を払い、争いを収めることくらいです。心当たりはありませんか?」
言われてみれば、子供の頃から喧嘩や言い争いなど、何故か自分が仲裁に入ると直ぐに収まることが多かった。
「目に見えて分かる能力でもありませんので気付かなかったのでしょう」
侍従長の説明に相槌を打ち、なるほど、と納得しながらアネットが顎を下げると、上質な衣類が視界に入る。
「あ、あれ、そう言えば、私、制服……」
「聖獣様に食いちぎられたとお聞きしてますので、新しい衣類をお持ち致しました。それと、その寝着は侍女にお願いしましたので、ご心配には及びません」
苦笑いを見せる侍従長のリッツは、一通りの説明を終えて出て行こうとするが、扉前でピタリと歩みを止めると――、
「言い忘れていましたが、ここはアネットの部屋になります」
「ひっ! う、嘘ですよね?」
「いいえ、ガーランド王子より、この部屋を使わせるようにと言われました。それから……」
彼はアネットが正座している寝台の左横の壁を見つめながら、「そちらの扉を開くとガーランド王子の部屋です」と侍従長は涼し気な目元を揺らした。
「え……?」
「それでは、失礼致します」
「え、ちょっと、待って下さい!」
こちらの声は聞こえていたはずなのに侍従長は待ってはくれず、歩みを進めた彼はパタンと扉を閉じた。
アネットは目に前に広がる光景を呆然と見つめる。真っ白な調度品に金細工が施された品々、どれもこれも上質な物ばかりだ。
何より信じられないのが――、と豪奢な彫り模様が入った一枚の扉を見つめ、ごくんと生唾を飲んだ。
この向こうにはガーランド王子の部屋があると思うと、まったく寛ぐことが出来ない。
しばらくの間アネットは、ぼんやりと扉を眺めていたが、不意にカリカリと音が聞こえて、何の音なのか気になったアネットは扉へ近付いた。
扉の向こうから聞こえてくる音に小首を傾げつつ、興味をそそられて鍵穴をそっと覗いて見る。
――何だろう? 金色……の……。
ギョロっと動くそれを見て驚いたアネットは、「ぎゃっ!」と思わず声が出て後ずさった。
直ぐに扉の向こうから、「どうした?」と王子のこえが聞えて、このままではマズイと思う。
アネットは咄嗟にドアノブをぐっと握りしめたが、簡単に扉を開けられてしまい、またもや聖獣のシャドウに飛び付かれる。
「ひゃぅー!」
「っ、シャドウ! 待て!」
はっ、はっ、と息も荒いシャドウが、ガーランド王子の声に伏せをしたが、耳を尖らせて実に不満そうな態度を表しているような気がする。
「お前、その姿なら何でもしていいと思ってるだろ?」
口端を歪めながらギロっと王子が睨んだ瞬間、聖獣であるシャドウがボンっと人間の男の姿になった。
浅黒い肌に、癖の強い黒髪が艶やかで、黄金の瞳は宝石にも匹敵するほど美しく、その姿にアネットがぼーっと見惚れていると――、
「ガーランド、この娘は俺の嫁にもらう」
聖獣の突然の求婚に、「は……?」と声が洩れたのは、ガーランドだった。
「シャドウ……、お前分かっているのか? 嫁は食べる物じゃないぞ?」
「知ってる。嫁とは私の頭を撫で、私の身体を洗い、私の抱き枕となり、私の子を宿すのだろう?」
――ん、ちょっと要望が多いですね……。
二人のやり取りを見つめながら、どうやって会話に混ざろうかと考えていると、王子がこちらを見ながら口を動かした。
「シャドウ、聖獣が婚姻する時は聖獣王からの許可がいる。それに、お前は三百年を生きていると言うのに、今まで恋愛をしたこともないだろう?」
「む、この娘とすればよいのだろう?」
「だから……、許可がいると言ってる。まあ、俺が妻として迎え入れてやるから安心しろ。頭くらいなら撫でる許可をやる」
「なんと、けち臭いことを言うのだ……」
目の前で繰り広げられる論争にアネットの頭は追い付かず、取りあえず現実逃避のために部屋の掃除でもしようかと考える。
――ああ、分かったわ、彼達の話に耳を傾けるから頭が変になってしまうのよ。王族ならではの冗談が私に分かるはずもないもの……。
床にぺたんと座っていたアネットは、すくっと立ち上がると、二人に向かって一礼した。
「お話の最中に申し訳ありません。お部屋の掃除を致します」
自分のやるべきことくらいは分かっているし、王子の部屋の掃除やシャドウの世話など、やることは山積だ。
アネットは解けた髪を束ねて、みつあみを編んでいると、こちらの様子を見ていた王子が――、
「あー、アネット張り切っている所申し訳ないが……、侍女は他の者にお願いした」
「え……、では、私は解雇ってことなのでしょうか?」
「いや、俺の身の周りの世話だけでいい、妃、いや書記官のような役割だ」
――どうして、時折、おかしな単語が交ざるのでしょう……。
王子は笑みを浮かべながら、他の侍女が部屋の掃除に来る時、シャドウと遊んでやってくれと難易度の高い要求もしてくる。
それは良いとして、書記官はあまりにも無謀だと自分でも思うので王子に確認した。
「あの、聖獣様のお世話は何とかやって見ますが、書に関する知識はありませんので、書記官は無理だと思います」
「大丈夫だ、誰にだって出来る。俺の書類に目を通して印を押すだけだ」
――あれ、それ普通は逆のような気がしますが……?
よく分からないが、それが与えられた仕事と言うなら仕方ないと頷いた。
その日からアネットの苦悩が始まった。
聖獣のシャドウは新しい侍女が来る度に脅すので、その度に自分が止めに入ることになり、毎回ヨダレに悩まされた。
それから、王子に頼まれた仕事は決められた箇所にポンと印を押すだけで、本当に簡単だったが、公文書に侍女が印を押しているということが、政務管理者に知れたら……、と実に胃の痛くなる仕事だった。
それでも数ヶ月経った頃には、何の罪悪感も持たなくなり、気軽に印を押せるようになっていた。
慣れとは恐ろしい物で、近頃では内容の確認もそぞろになり、書類に交じっていた永久契約を結ぶ書類が受理されたことに気が付くことなく、アネットは聖獣の世話と、ガーランド王子の書記官という仕事に明け暮れるのだった――――。
アネットの就職先~END.