‐ 第60話 ‐ 安らかでない死
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
月曜日と水曜日の午後三時から、シニアの部の書道教室が香雲館にて行われる。
時間にゆとりのある老人たちは、月曜と水曜の週二回通う者も少なくない。これが生きがいとなっているのだ。老人になっても字の上達は勿論、交流の楽しみがあった。
「あら愛治さん。まだお帰りにならないの?」
愛治と呼ばれた老人は、全紙の大きな作品を仕上げようとしていた。
「小春さんのようにはうまくいかんもので。もう少し気張っていくよ」
「頑張り屋さんねぇ。愛治さんは月曜日もいらっしゃってるんでしょう? 十分お上手なのに。どの字がどう悪いのか、さっぱりわからないわ」
小春と呼ばれた身なりの綺麗なこの老人は、愛治に世辞を云っているのではなかった。七十五歳の自分と変わらない歳なのに、そこまでの気力と体力があることを評価していた。
「先生から見ればきっとまだまだですなぁ。今回の作品は賞を取れたら家に飾りたいと思ってね。だから余計に頑張らなにゃいかんのですよ」
小春は愛治に感心した。
「お互い良い作品を作りましょうね。楽しみにしてるわ」
「えぇお互いに。文化祭が終わったらまたお茶でもしましょう」
「うふふ、そうね。ではお先に」
全紙は床に手と膝をつくスタイルで書くため、腰の悪い老人には堪える者も多かった。
だが愛治はそれを一切感じさせなかった。小春が帰ってからも、黙々と作品作りに勤しんだ。
気がつけば五時を疾うに過ぎており、教室に生徒は愛治一人だけになっていた。
「熱心ですね」
「遅くまですみませんな先生。こんなに時間を費やしても駄作ばかりだ」
「そんなことありませんよ。でも何か、考え事をしているとか……」
愛治は道具を片付け始めた。
「おわかりですか。やぁ、これほど年老いたのに、いつまでも子どもたちのことが心配でしてね。先生は老若男女相手をしているのに、なんというか、軸がしっかりしてらっしゃる。軸がしっかりしてなきゃできんことかもしれませんがね」
「いえ、それは自分の子じゃないからというのもありますよ。自分の子ですと様々な感情が入り混じる」
「それをいったら、うちの子どもたちは誰一人私の息子じゃないんですがね……。まぁ血は関係ないと思っとります」
先生は愛治の作品を乾かすため、教室に張った紐に全紙を吊るした。
そしてそのまま三歩下がり、作品全体を眺めた。
「……年老いたとはいっても、愛治さんは今年おいくつで?」
「もう百二十七になりますよ。小春さんもまだまだ娘さんだ。先生は……?」
「もうすぐ百四十です。お互い、長生きですな」
日本人男性の平均寿命は九十九歳、女性は百五歳である。この二人の年齢は勿論異常だ。そこまで生きて、死にかけというわけでもない。七十五歳の小春から見ても、元気すぎる老人だった。二人の本当の年齢は、殆どの者が知らなかった。
「いろいろやって命を伸ばしたものの、私ももう死ぬと思うんです。筆を持つ手が震える」
「震え。それは私もわかりますねぇ。あぁここ、確かにこの字のはらい、震えてますな」
先生は一文字指差して、愛治に指摘した。
「先生……。うちの息子たちは碌でもない人間ばかりが集まってましてね。かく言う私も碌でもない人間だったんです。だから居場所を作って、禄でもない人間なりに、危険な子どもを増やさないようにしようと思ったんです。最初の頃はね、上手くいきましたよ。本当の家族のようだった。……だが昨今の子どもたちは、もう私にはわからなくなってきている。愛情だけでは生まれ持った歪みは直せないと、ここまで生きてきても思い知らされる。老いた自分にできることがないまま、心配という気持ちだけでここまで命を伸ばしてしまった。もう私にできることは、何もありません」
先生は作品に目を向けたまま、背中で愛治の話を聞いた。
「ほぉ……。苦労なさってますな。息子さんたちを思う愛があるが故、百二十七という歳を重ねてしまった……。ですが、終わり時を見失った、という感じではありませんね。見つけられたようだ」
先生は振り返り、筆と墨池を洗い終えた愛治もまた、先生の方へ向き直った。
「えぇ、書もこの作品で終わりです。延命手術も継続しない。震えと共に朽ちていこうと思うのです。先日、一番若い息子が亡くなりましてね。ついに共食いまで始めやがった。もう異常性を理解しようと思う気持ちも、闇から救ってやろうという気持ちも、全ての気力を失いました……。良い子だったのに、悪党は極楽に行くことを許されない。せめて私もあの子の後を追おうと決めたんです」
「……誓ったのなら、そのように逝けるよう、残りの余生を生きるしかないのでしょうね。しかし……いやぁ、正直勿体ない。あなたに人を導く力と愛があるのは確かだった。そういう人間に、幹部になってほしかったのですがね……」
愛治は少し笑った。先生との昔の思い出が蘇る。
「はっはっは。それはもう何十年と前にお断りしたはずですよ。それに幹部が年寄りばかりじゃダメだ。若者を理解できる者が必要だ。経験者が言うのだからこれは間違いない。……それから、今のでわかりました。あなたはまだまだ生きられるようだ」
先生は口角を上げた。百三十九歳にしては、美しい顔だった。
「生きられれば、ですね。延命手術にも限界がある。近頃本当に指先が震えるのですよ。指導者なのに、困ったものです」
先生の指の震えがなくなるまでに、愛治は自分が安らかにあの世に逝くことを願った。
長時間の稽古に先生との長話で、すっかり外は暗くなってしまった。愛治は重い書道道具を抱え、一人歩いて帰る。
人通りの多い交差点で、杖をついた老人とすれ違った。きっと自分より遥かに若いだろうに、生涯を立派に生きた老人に見えた。
すれ違って暫く経っても、愛治は老人から目が離せなかった。交差点の向こう側に、老人を『おじいちゃん』と呼び、早く来てと云わんばかりに待つ愛らしい孫がいたからだ。
青信号が点滅しても、愛治はその光景に羨望していた。
「あ」、と誰かが叫んだ時には、愛治の体は宙を舞い、人形のように地面に叩きつけられた。
そのまま後続車が愛治の胴を轢いたものだから、丈夫な愛治の体は完全に動きを停止した。延命手術を受け続けた愛治の肉体から飛び出たものは、臓器だけではなかった。
道行く人は愛治に目を向けるだけで、皆過ぎ去ってゆく。この時代に交通事故などそう起きるものではない。何かのパフォーマンスだと信じている。或いは無関心。また或いは、醜怪な死体への嫌悪感から目を背けていた。
自己責任が欠如した人間が権力で命を延ばし、挙句安らかな死を望んだことへの報いなのかもしれない。
「愛都……」
何とか動いた唇で、愛治が発した最期の言葉は、三枝木の名だった。
タラスではなく、三枝木だった。
それを三枝木が知ることはない。




