‐ 第6話 ‐ 地下三階の恐怖
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
――……ガ……チャ……――
低く鈍い音がして、取手がひとりでに下がった。俺は懐中電灯を冷凍庫に向けただけで、触れてなどいない。
目の前の出来事に目を見開いていると、冷凍庫の扉がゆっくりと開き、途中で止まった。
中の冷気が一気に外へ出た。鼻の奥まで凍るような、ツンとした冷たさを感じる。
中から何か出てくるのかと思い、俺も女も後退さったが、女はほどなくして途中まで開いた扉に手をかけ、冷凍庫の中を恐る恐る覗き込んだ。
一体中に何があるというのか……。取ってきてほしい物とは、何なのか。
「子どもがいる!」
女はそう声を上げ、すぐさま冷凍庫の中へ身を乗り出した。
(まさかだろう……)
だが、女が抱き締めるようにして外に引き摺り出したのは、間違いなく、子どもだった。凍り付いた裸の子どもだった。
一体どういうことなのか。何故こんなところに子どもが入っているのか。
全く訳が分からない。
子どもは七歳から九歳くらいだろうか。髪一本生えていない綺麗な坊主頭で、肌は異常なほどに白い。体中が霜に覆われている。その異様さは、同じ人間と思えなかった。生命というものを一切感じなかった。まるで、死体のようだ。
「……う…………」
「お、おい……!」
驚いたことに、女に抱かれた子どもは小さく呻き声を上げた。ということは、まだ生きている。
体温を取り戻しつつあるのか、体を覆っていた霜が冷凍庫と同じように溶け始めた。
「……誰ぇ?」
寝起きのように、子どもは自分の目を擦り、喋った。凍っていた睫毛から霜がちらちらと落ちる。
「良かった。取り敢えず生きてるのね」
目覚めた子どもに狼狽する俺だが、一方で女は子どもが目を開け、声を発したことに一安心したようだった。
安堵した矢先だった。
俺の頭の横を何かが掠め、それは冷凍庫を貫いた。今度は何事かと、振り返る。
「何を、やっているんだい……」
入口に立っている小柄な男は、銃を握りしめていた。その手は震えており、顔は青ざめている。
確実に今、俺はとんでもないことに巻き込まれている。
見慣れない銃を自分に向けられてそう確信した。これはただ事ではない。俺の頭からは微かに焦げた臭いがする。恐る恐る触れてみると、髪の質感がそこだけ変わっていた。あと数ミリ弾丸がずれていれば、俺の脳みそは飛び散っていたのだろう。そんなことがあり得たのだと思うと、恐怖で声も出ない。
「腰野さんこそ、なんでそんなもの持ってるんですか? そんなもの、持てないはずでしょ」
恐怖で声も出ない俺と違い、女は冷静に、且つ目上であるこの男を叱るように云った。
腰野と呼ばれた男は女と同じ作業着を着ていた。それはごく普通の一般市民である証拠であり、銃を所持できないことを現わしている。見るからに銃が似つかわしくない上、震えが止まらないでいる腰野の手を見ると、初めて撃ったのではないかと思われる。
「これはその……ここでは特別許されているんだ。そんなことよりっ、その子どもを冷凍庫に戻してすぐにここから出なさい。見なかったことにするから……! 頼む! そうしてくれ!」
腰野は酷く怯えた目で訴えかけた。腰野の視線の先には子どもがいる。対して子どもは不思議そうな眼差しで腰野をじっと見ていた。俺も女も子どもも、腰野が何故そんなことを云うのかわからない。尋常でない腰野の様子が理解できない。
「……そんなことより、銃を下ろしてくださいよ。危ないでしょ」
女は子どもの前に腕を伸ばし、守るようにして腰野に命令した。銃を持っている男に大した度胸である。決して煽らず、諭すように命令した。だが、危険すぎる。
「そ、そいつを冷凍庫に……」
「腰野さんが撃ったから、さっきので扉が壊れましたよ」
云う通り、冷凍庫の取手が不格好にぶら下がっている。
「あっ……あぁどうしよう」
腰野は両手で自分の頭を抱えた。
その瞬間、女は近くにあった椅子を腰野へ向かって投げ、子どもを担ぎ上げて部屋を突破した。
「え⁉ おい! ちょっと!」
思わず俺も後に続いて部屋を出た。
兎に角、一心不乱に階段を駆け上がる。
「なんなんだ! どうしたっていうんだうちの会社は! その子どもどうするんだ!」
「わかんないけど子どもは守んなきゃでしょ! だってどう考えたってやばいじゃん!」
やばいのは勿論わかる。だがこの女の行動力もやばいだろう。銃を持った男相手に、よく咄嗟にこんな行動がとれたものだ。
「ねーねー、僕走れるよ」
「えぇ⁉ んじゃあ自分で走って!」
パニック状態の大人二人に対し、子どもが一番落ち着いていた。
女は子どもを肩から下ろし、手を引いて走った。その勢いで子どもは人形のように引っ張られる。
地下二階まで上がったところで、必死に駆け上がったせいで足が止まってしまった。この階段は長い上に、状況がさらに長く感じさせる。
俺も女も呼吸が荒い。恐怖が混じって上手く呼吸を整えられないでいる。
無理やり足を動かした。膝に手をつき肩で息をする女を置いて、俺は階段を一段上がった。
「ちょ、ちょっと」
女は荒い息で俺を呼び止めた。
「……悪い。でも俺は部外者だから」
これが精一杯の言葉だった。
罪悪感から出た言葉ではなく、階段を駆け上がった息苦しさからの精一杯の言葉だった。
だって俺は、ここまで自分の地位を築き上げるために様々な屈辱に耐え、努力と正しい選択を怠らなかった。この行動に罪悪感なんて感じる必要もないのだ。選択を誤り、今まで培ってきた全てが無駄になるなんて御免だ。――ここから出られれば、きっとまだ、どうにかなるはずなのだ。
上から誰かが来る。
階段を下ってくる、ギュッギュッ、という安全靴の音が聞こえる。
音は次第に大きくなり、俺たちの前に現れた。暗さにも目が慣れ、誰だかわかるまでそう時間はかからなかった。
「工場長!」
俺は現れた工場長に助けを求めるため、階段を上がろうと、右足を上げた。
すると、工場長は背中に隠し持っていたものを無言で俺に向けた。
機関銃だ。
何故工場長までもがそんな物騒なものを持ち、俺に銃口を向けるのか。そう疑問に思ったほんの僅かな時間は、時が静止しているように感じた。
工場長は躊躇なく撃ち放った。
「なんでだよぉ!」
転がるように急いで廊下へと逃げた。滑稽な姿だったに違いないが、弾が当たらなかったのだからそんなことはどうでもいい。後ろにいた女と子どもにも命中しなかったのは、奇跡としか云いようがない。
俺たちは一先ず、冷凍庫の保管室に入り身を隠した。
「あぁ、もう……なんなんだよ……」
その場にしゃがみ込み、顔をうずめた。
機関銃を持った工場長は無表情だった。ホラー映画に出てくるサイコキラーのようなあの顔は、とてつもなく恐ろしかった。俺たちを確実に殺すつもりだった。
本当なら今頃、明日の京都旅に備えて柔らかいベッドの上で眠っているはずだったのに……。
女と子どもも、俺の横にしゃがみ込み身を隠した。しかし見つかるのも時間の問題だ。
「ねーねー」
「しっ! 何?」
「なんかグラグラする~」
何かと思えば、子どもは暢気にぐらついた乳歯を指で触っていた。それを見てくれと云わんばかりに女に向かって大きく口を開き、上の犬歯を見せている。
「本当だ。だいぶぐらついてる。抜いちゃえば?」
「痛いかなぁ?」
「一瞬だよ。抜いたげよっか?」
「うん。抜いて」
この状況で、よく歯を抜こうなんて思える。理解ができない。工場長が機関銃を構えて迫って来ているかもしれないというのに。
「ねぇ。あたしが歯を抜くから、その間ちょっとこの子の気散らしといてよ」
女はさっきまでの俺に対する敬語をどこかへやり、命令を下した。完全に舐められている。
「いや、今そんなことしてる場合じゃ」
「一瞬じゃん早くしてよ」
強気な口調で言葉を遮られた。一瞬にしても、今やるべき行動ではない。だがさらに反論して女と揉めている場合でもない。――それに、女の目を見て俺は思ったのだ。口でこの女には敵わないと……。
幸いにも、何故か工場長のあの嫌な靴音は聞こえない。
溜め息をついて、仕方なく子どもに向き合う。
「一体、お前は何なんだ。名前は?」
ついさっきまで生気すら感じなかった子どもは生き生きとしており、坊主頭の、ただのクソガキにしか見えなくなってきた。裸でいるのもどうかと思い、俺は自分のスーツの上着を脱いで子どもに着せてやった。
「ほふほははへはぁ~(僕の名前は~)」
歯を女に指で挟まれた子どもはそのまま喋ろうとしたが、名前を云う前に歯を引っこ抜かれた。見事な早業だった。
「はい終わり」
女は抜けた歯を子どもに渡した。
「わぁ……。抜けた」
「一瞬だったでしょ」
「うん。これいらない。あげるよ」
子どもが自分の抜けた歯に関心を持っていたのは束の間で、女に自分の歯を返そうとした。
「なんでよ。いらないわよ」
「じゃあ、はい。あげる」
拒まれた子どもは俺に歯を渡そうとした。
「いらねぇよ。大事に持っとけ」
「はい。大事に持っとけってさ」
子どもは歯の握りしめられた拳を目一杯女の前に突き出した。
「いらないってば!」
「僕だっていらないもん!」
「も~うるっさいな。わかったよ!」
俺からしてみれば女も十分煩い。
女は根負けして、仕方なく子どもから歯を受け取った。漸く女と子どもは大人しくなり、沈黙が流れた。本来ならばこれが普通だ。
だが俺は何も起きないこの状況に耐えられなくなり、自分から沈黙を破いた。
「そういえばさ、あんた名前は?」
「宇智田美生。あんたは?」
「甫仮。で、お前はなんて云うんだっけ?」
子どもは抜けた歯の部分が気になるのか、まだ口に指を突っ込んでいた。
「凱」
子どもは短く答えた。名前などより自分の口の中に夢中なのだ。
肌は白く瞳の色素もやや薄いが、顔付きからしてこの子どもも恐らく日本人だろう。色素が薄いのは、あんなところに眠らされていたからだろうか。太陽の光すら、知らなさそうな子どもだ。
俺は凱の顔を観察していると、ありえないことに気づいた。
もう一度よく見るために、凱の顔を自分の方へと向けた。
「おい。お前なんで、もう歯が生えてるんだ?」
抜いたはずの歯茎には、既に新しい歯が生えていた。頭を出しているなんて程度じゃない。立派な歯が生え切っていた。
宇智田は自分の手を開いたが、そこには凱に渡された、小さく美しい子どもの歯があるだけだった。