‐ 第57話 ‐ 父
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
これでもかと精一杯に爪先立ちをして、ドアノブに手を掛けた。この部屋まで歩いてくるのにも、たくさんの歩数が必要だ。
二十五歳だったあたしの景色とは、何もかも違って見える。しかしそれはその日だけのもので、明日になればまた違った景色になる。あたしは毎日大きく成長する。元のあたしに近付こうとしているのかもしれない。
「お父さん」
そう呼ぶと、お父さんはホログラムを消した。きっとまた、エルを眺めていたのだろう。ホログラムのエルはまるで生きているかのように、腕時計の上で華麗に踊る。
「何だい?」
「来ただけだよ」
お父さんはふっと、優しく微笑んだ。その顔は疲れ切っていた。以前会った時よりも、老け込んだように思える。あたしがザックをこんな風に変えさせてしまったのだ。
「いいんだよ。あの人たちと一緒に二階で寝ておいで。ずっと会いたかったんだろう?」
「……いいの?」
「当り前さ。一人で上がれるかい?」
「うん……」
何故この人はこんなに優しいのだろう。これが父親というものなのだろうか。
胸がチクチクと痛む。あたしの体は成長するが、もう再生する力はなくなっていた。
勇魚のベッドに上がろうとするが、手足が短いものでうまく上がれない。
困っていると、後ろから脇を抱えられた。お父さんかと思ったら、凱だった。
「本当に小さくなっちゃったね美生」
「凱……は、随分大きくなったね」
凱はあたしを勇魚のベッドの上に下ろし、凱自身も勇魚のベッドに上がり込んだ。
ケイトは眠っていなかったのか、直ぐに起き上がってこちらに来てくれた。
口を開けて気持ちよさそうに眠る勇魚の頬を、ケイトが手の甲で叩いた。起こすために軽く叩いたつもりなのだろうが、その威力は案外強く、勇魚は即座に目を開いた。
「こんな時によく眠れますね」
「んぁ……。久し振りのベッドだぜ? しかも良いベッドだ……流石金持ちだぜ……」
「起きてください。皆あなたの元に集まっているでしょう」
ケイトは二度寝しようとする勇魚の頬をもう一度叩いた。
「おぉ、お前らいつの間に俺のベッドにいたんだ。しかし美生、お前ほんとにチビになったな」
「明日になったらまた大きくなってるよ。そんなことより話したくて、あの日のこと」
勇魚は漸くベッドから体を半分起こした。
「話って、さっき話した通りじゃないのか?」
「もう少し詳しい話。ファンタジーみたいだけどね、信じて聞いてほしい」
「大丈夫だ。もう既にファンタジーだ」
勇魚もケイトも凱も、話す前から既に信じている、という顔をした。もう多少のことでは驚かないだろう。
「あたしがヘリと一緒に岩場にぶつかる少し前、もう再生することはないだろうって、何故だかわかった。あたしは死ぬ直前まで生きたいと強く願った。その時、どうしてかはわからないけど、ある夫婦が頭に浮かんでしまった。淡路島でケイトと出掛けた時に、あたしがたまたま出会った夫婦、それがザックとエル。エルのお腹には赤ちゃんがいた……。あたしはこの夫婦から産まれたいと願ったわけじゃない。でも何故か夫婦のことを思い出してしまって、産まれてしまった……。エルとお腹の赤ちゃんを殺したのは、あたしなんだ……」
「そんなっ……。でもザックの奥さんが死んだのは、お前のせいじゃないだろ」
「あたしはね、元のあたしになるために、急成長してるんじゃないかと思う。それって何だかエルの命をあたしが吸い上げて成長してるみたいで……。生まれながらに二人の命を奪って、他人の家庭を壊して……。それなのにお父さん、ザック、あたしを娘だと思いたいって。違うのに、エルと赤ちゃんを殺したのはあたしなのに、優しくしてくれる。どうすればいいかわからない。お父さんに償いたい。でも、あたしが一緒にいるのは違う気がする……」
子どもになっているせいだろうか。あたしは酷くしゃくり上げて泣いてしまった。こんなみっともない伝え方はしたくなかったのに、皆の顔を見ると溢れ出てしまった。これでは慰めてほしい子どものようだ。
「……辛かったですね。それに、深刻な問題です。今の話を聞いていると、美生さんは償うためにザックさんの娘になるか迷っているようですが、私は家族に償いが必要だと思いません。美生さんとザックさんは、本当の家族になるのは難しいかと……」
「でも血は繋がってるんだ。美生はどうしたいんだ? 俺は何だか、美生がここであの父親と暮らす第二の人生があってもいいんじゃないかと、選べるんじゃないかと思うんだ。だってお前は充分……」
「俺は、美生と一緒にいたい」
勇魚の話の途中で、凱がポツリと、寂しそうに口を開いた。
「ありがとう。でも、あたしにはもう自分を再生する力も、誰かを再生させる力もないの。だから皆の役に立てるかわからない。体もこんなだし、必ず足手纏いになる」
「え? そうなのか?」
どうやら皆、あたしに再生の力がまだあると思っていたようだ。再会して直ぐに話した気がしていたが、話していなかったみたいだ。
「だったら尚更、あの父親と暮らす方が安全なんじゃないのか? いやでも、母親と姉貴はいるんだったな。ややこしいな……。兎も角、静かに暮らせばもう尾澤たちから狙われることはないんじゃないのか?」
ケイトの方を見た。
「そう、ですね。再生の力が無くなったのなら、もう、美生さんが戦う必要はない……」
ケイトは何か云いたげだったが、口を閉ざした。何故だろう。ケイトらしくない。
「なんだよ。もうはっきり言い合おうぜ。あんたももう雇われの身じゃねぇんだから」
勇魚がケイトに云う。
ケイトは口を開けてからも少し躊躇し、慎重に話し出した。
「……言っても、美生さんを困らせるだけですが、率直に私は、『寂しい』と思いました」
ケイトはあたしと目を合わさなかった。気恥ずかしそうな、申し訳なさそうな、不器用な表情だった。ケイトがそんなことを云うとは、云ってくれるとは思わなかった。
「よく言った。ちなみに俺もだぜ。凱もなんだろ?」
凱は頷く。
「美生さんがいないことで、私たちは『寂しい』という気持ちを持っていることだけ知っておいてください。同時に、もうあんな目に遭ってほしくないとも思っています。私たちは明日ここを離れます。どうするかはやはり、美生さん自身が答えを出してください」
四人が一斉に集まったベッドの上で、絆があることがわかった。大人二人に子ども二人の、家族でもないおかしな構図だが、そこに絆は確かにあった。
凱が欠伸をした。
「もう寝ようぜ。二歳児は寝かしつけがいるのか?」
「ふざけんな」
あたしはベッドから片足ずつ下りた。ケイトの隣の空いたベッドで眠ろうかと思ったが、あたしは考え直した。
「今日はやっぱり、お父さんのところで寝る」
上がってきた階段を一段ずつ降りる。
寂しく思ってもらえる人がいることは、この上なく幸せなことだ。
つたない字で、お父さんに手紙を書いた。
やはり私はここにいられない。あの時凱を守ろうと誓ったからだ。だからもう一度、生まれることができたのかもしれない。
昨日の夜、お父さんの部屋を覗くと、日本酒の空き瓶が置いてあった。たくさん飲んだのか、よく眠っていた。あたしが産まれてからずっと眠れていなかっただろう。酒の力だとしても、眠ってくれて良かった。このまま出て行くことができる。少しの間だとしても、こんなに優しいお父さんの元で育ったことは、幸せなことだったと思う。あたしには無かったものだから。
罪悪感に苛まれながら、起こさないようにドアを閉めた。
「ノア!」
音も立たぬほど静かにドアを閉めたはずなのに、お父さんは直ぐに玄関のドアを開けて飛び出してきた。
どうしてわかったのだろう。
どうして。
「ノアおいで!」
そのまま振り返らずにケイトの車に乗ることは、あたしには不可能だった。
「ごめんねお父さん、美生なんだよ。たくさん苦しませてごめんね」
「あぁわかってるよ。本当は、お父さんなんて思えないんだろう? でもやっぱり君は僕の娘なんだ。君を美生とは呼べない。どうしてもあの人たちと行くんだろう? だったら、全てが終わってからでいいから、戻ってきてほしい。ノアの成長がみたい。君が自分のことを話してくれたとき、父親はいなくて母親に育てられたと言っていただろう? 不謹慎だけど、少し嬉しかった。まだ父親になれる余地があると思った。でも君の人生だから無理は言わない。戻りたくなったら、いつでも戻ってきてくれたらいい……」
お父さんはあたしの小さな手を自分の頬に押し当てた。涙で濡れていた。
「ありがとう。お父さんは、お父さんだよ。不謹慎なんかじゃない。そんな風に思ってくれて、あたしは嬉しい。絶対戻ってくる。大きくなりすぎて誰だかわからなくなる前に、絶対に戻ってくるから」
お父さんはなかなか離さなかったあたしの手を惜しむように離し、頭を撫でてくれた。
玄関から車までの距離が、昨日より短く感じた。
帰る場所が与えられているという事もまた、幸せなことなのだ。




