‐ 第56話 ‐ ノア
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
女の子は二歳くらいだろうか。それなのに、安定した足取りで凱の元まで歩いてみせた。よたよたと、赤子のようには歩かなかったのだ。
父親は心配そうな顔で娘を見守っている。
何も発せず、暫くの間女の子と凱は見つめ合った。
何か様子がおかしいと、俺とケイトは同時に察した。
「……美生なの?」
凱が女の子に云った。
女の子は小さな口を開ける。
「そうだよ。遅くなってごめん」
まさか。そんなはずはない。
直ぐに凱の元へ駆け寄る。
ただの小さな女の子だ。肌の色も、瞳の色も、髪の色も、全てが明らかに違う。美生の面影など一切ない。では何故、そんなことを云う?
「勇魚、ケイト、遅くなってごめん。あたしもいろいろあって……」
どうして名前を。どうして……。
お前はあの時俺たちを守って海に散ったはず。そこにいるはずなど……。
「……本当に、美生なのか?」
「うん」
「……じゃあ、その人は……」
俺は父親だと思っていた男のことを訊ねた。
「あたしのお父さんだよ」
訳がわからない。一体、何がどうなって美生がこんな姿になってしまったというのか。
「……あの、僕も娘の言うことを信じ切れていない部分があったんです。それでも、妻が亡くなって僕にはこの子しかいなくて……。この子の言うことを信じて、あなたたちに会いに来ました。この子に会ったあなたたちの反応を見て確信できました。全て本当に起こっていることなのだと……。できればあなたたちの口からも、この子のことを聞きたいです。父親として」
驚愕する俺に男は話した。父親を主張する男から嘘は感じられない。
つまり、何処かの家庭の子どもに、美生の魂が乗り移ってしまったということだろうか。
「私たちも詳しく聞きたいです。兎も角、美生さん、生きていてくれて良かったです……」
言葉が出ない俺に代わり、ケイトが父親に返事をする。
この小さな子どもは、本当に美生なのだ。
開口一番に凱が『美生』と云ったことが、信じるに値する理由だった。
同じ力を持った二人の間には、特別な絆があるように感じる。美生が生きていることを深く望んでいる俺たちにとって、目の前のことを信じてしまうのは浅はかなのかもしれない。しかし信じるに値するもう一つの理由が、この父親にある。
父親は終始複雑そうな顔をしている。育ててきた娘の人格が急に変われば、無理もない。娘の云うことを信じて会いに来たと云ったが、当の本人が飲み込み切れていないようだった。
「……本当に、美生という名前だったんだね……。君が、エルのお腹にいたときからノアと呼んでいたから、少し変な感じがするよ……。もう日も暮れます。南に車を走らせたところに僕の別荘がありますので、どうぞついて来てください」
娘でない娘に『君』と呼ぶ。その変な感じを、俺も受け取った。
何だか、俺たちが美生を、娘を奪ってしまったような、複雑な気持ちに駆られた。
琵琶湖沿いにある別荘地に、美生の父親の家があった。暖炉のある暖かくて広い家だ。
この辺りは資産家が多いというので、この父親もそうなのかもしれない。
慣れた手つきで暖炉に火を付け、暖かい緑茶を入れ始めた。コーヒーや紅茶を出されるのかと勝手に想像していたが、父親は随分と日本に馴染んでいるようだった。
美生には取手付きのストローマグに入った麦茶を渡した。その親子のやり取りを見ただけで、この父親は美生をあくまでも自分の娘として育てているのだとわかった。
「僕の名前はザックと言います。この子の、ノアの父親です。ノアから既に皆さんのお話は聞いています。大鳳教という宗教団体に命を狙われていることや、凱君のような特別な力を持った人のことを」
ザックは丁寧に話し始めた。
「あの、失礼ですが奥様は」
ケイトは臆することなく訊ねた。
「妻のエルはこの子を産んだと同時に亡くなりました。つい二週間前のことです」
それは気の毒に、と思った感情の直後、おかしいことに気づく。
「今なんと?」
「ノアは二週間前に産まれたばかりです。本人が言うには、自分が死んだ日にエルから産まれたと言っています」
「いやでも、だったらなんで赤ん坊じゃないんだ?」
「本当のことだよ。勇魚」
父親に詰め寄る俺に対し、美生は冷静に答えた。美生とは違う、ノアという子どもの声のはずなのに、頭の中では美生の声で聞こえた気がした。
「本当なの。あの時、死ぬ直前に強く『生きたい』って思ったら、どういうわけかノアとして産まれたの。あたしは生後三日目で言葉を話して、七日目で歩けるようになった。頼れる人はお父さんしかいなくて、全てを話した。お父さんは全て信じてくれて、一緒にあんたたちを探してくれたの」
そんな奇跡が本当に存在するとは誰もが思わない。
工場で凱を見つけたとき、美生の体が再生したときも、そう思っていた。
「ノアの言う通りですよ」
ザックの目は窪んでいて、隈があった。自分の妻が亡くなり、産まれたばかりの娘は別の人格を持っているなんて、計り知れない心境だ。
「僕にはもうこの子しかいませんから、娘が必死に訴えることを信じて力になろうと思ったまでです……。あなたたちもノアを探していたのでしょうが、もし、ノアが危険な目に遭うというのなら、僕は父親としてこの子をあなたたちに渡すわけにはいきません」
父親の目が、父親の権利を訴えかける。
「……ですが」
そう云ってソファから立ち上がったのはケイトだった。
「その気持ちもお察ししますが、美生さんはあなたと共にここにいても、命を狙われることに変わりはありません。私たちは武器を取って守ることができます」
「この国は武器なんて取らないはずです」
「それは一部の甘い考えです」
「中身は違っても、黙っていればこの子はノアとして生きられます」
「再生の力に、そんな急成長する子ども、噂が立てば大鳳教は被検体として見逃しません。格好の餌食ですよ。あなたは考えが甘い」
「ケイト!」
俺が止めに入り、ザックは倒れ込むようにソファに腰を下ろした。
これは簡単な問題ではない。珍しく美生は黙ったままでいる。美生なら誰よりも早く云い争いを止めに入りそうなのに。
「……この子は美生じゃない。ノアです……。僕とエルの娘です……」
ザックは目を抑えた。
「……出過ぎたことを言いました。申し訳ありません……」
ケイトの云うことも、わからないでもない。しかし心の弱った父親には酷な発言だった。
ザックは湯呑を持って、ソファから立ち上がった。
「二階を自由に使ってください。シャワーもベッドも全て揃っています。僕は少し、休ませていただきます……」
そう言い残し、ザックは別の部屋へと籠ってしまった。




