‐ 第48話 ‐ どうして
<R15> 15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。
〈〉内はロシア語を表してします。
《》内は手話を表しています。
昨日は一睡もしていない。自分に答えを出すので時間を費やした。それでも鍵を開ける直前まで、気持ちは揺らいでいた。このどうにもならない揺らぎは女と話して決断しようと決め、ドアを開けた。 ――これが、女との最後の会話になるだろう。
女も寝ていないのか、目の下には濃い隈ができていた。
〈喉乾いただろう。飲めよ〉
女の手の拘束を外し、水を目の前に置いた。だが女は手も付けなかった。
〈別に、変なもん入ってねぇって。わかるだろ?〉
俺が持ってきたものなのだから、安全なものに決まっているだろうと、俺は三枝木や沼尻とは違う人間なのだと云い聞かせているようだった。
暫く迷った挙句、女は水を飲んだ。
〈……あたし……お金ないわよ〉
〈知ってるよ〉
〈じゃあ、どうしてあんなこと言ったの〉
〈さぁ〉
〈こんなことになるなら、良くしてくれなくてよかったのに。嬉しかったのに……〉
女はか細い声でそう溢した。
〈俺にも知らされていないことだったんだ。仕方がない〉
〈……そう。仕方がないことなんだ……。あたしと赤ちゃんが殺されて、バラバラにされて売られちゃうのは仕方のないことなんだ! ……そうだよね。私がどうなろうとあなたには関係ないものね! こんな仕事してるんだから、あなたにとってはこんなの普通のことなんだね!〉
女は全てを諦めたように、泣き笑いながら云った。女にはもう俺のことなど、三枝木と同じ人間に映っているのだろう。
〈こんな仕事して生きてて悪いかよ! お前だって、こんなところに金借りる人間なんだ! ガギができたからって急に普通の母親面して喋るんじゃねぇ! 底辺の汚れた人間だろうが必死に生きてるんだ。お前が俺を馬鹿にするんじゃねぇ!〉
女に対してこれほど怒りを露わにしたのは初めてだ。
最初にこの女に会った時からどこか苛立ちがあった。その反面、優しくしたい気持ちが隠れていた。上から目線で哀れんでいたが、本当は同じ立場の人間だとわかっていた。この女にだけは、俺を否定する言葉を吐いてほしくなかった。
〈……なんで産もうと思うんだよ。お前一人ならやり直せたかもしれないのに〉
女は腹の上に手を置き、ぎゅっと服を握り締めた。俺が怒鳴ったせいで、手に大粒の涙が落ちていた。
〈……あなたなら、わかるでしょう?〉
〈なんでだよ。俺は男だし、ガキもいねぇ〉
〈いるでしょう。家族が、妹さんが。……わかるでしょう? だからあなたは生きれらるのよ……。あたしは一人ぼっちだった。必要としてくれる人もいないし、味方もいない。あたし一人なら、とっくに内臓でも何でも売って、死んでるわ。一人でやり直したいなんて思わない……。一緒に、この子と生きていきたかっただけよ……〉
嗚呼、わかるとも。ミラがいて、どれだけ自分が救われているか。
ミラは、『タラス一人なら違っていただろうね』と云った。
違っていただろう。この女が云うような、恐ろしい孤独を味わっていただろう。或いは、三枝木のような人間に堕ちていたかもしれない。
ミラが俺なら、この女を見捨てないだろう。
だから、ミラはわかってくれるはずだ。
一緒に映画を観終わったら、ちゃんと話そう。寄り添ってくれる人がいるのなら、もう一人で背負うのは止めよう。そいつが悲しむことが何なのか、もうわかっているのだから。
〈お前の返済分は、払ったよ。払って、ちゃんと親父に確認してもらったよ〉
〈…………え?〉
〈返してもらえると期待しない。子どもって金掛かるしな。もう二度と金なんて借りるな。ついでに引っ越せ。三枝木に狙われてるからな〉
〈待ってよ。あなたが払ってくれたっていうの? どうして〉
〈早く出ていけ。三枝木が戻ってきたら面倒だ。二人で生きていけばいい。出ていけよ〉
二人でなら生きていけるのを、俺も女も知っている。
また一から頑張るしかない。時間は掛かっても、いつかは故郷にも帰れるはずだ。
全て、ミラがいればの話だ。
〈なぁ……なんの映画だっけ?〉
《えぇ! 今から観に行くのに、知らなかったの?》
コートを羽織り、ミラが「あり得ない」というような顔で俺を見た。
鞄からチラシを出し、俺の目の前に突き出す。
〈『砂に眠る子どもたち』ねぇ。見た感じ感動系だな。楽しみ楽しみ〉
揶揄うように云って、ミラと一緒に家を出た。ミラと二人で歩くなんて、いつ振りだろうか。ミラ自身があまり外出したがらなかった。治安は悪いし学校にも通っていないからだ。俺もそれで安心している部分があった。
「見てあの子、すっごいかわいい~」
すれ違う高校生三人組に、そう云われているのが聞こえた。三枝木以外の目から見ても、ミラはそう映るのだ。ミラは自分のことだとわかっているのかどうか、わからない。俺が「お前のことだぜ?」と教えるのも変だし、知らせる必要もなかった。
映画館に着いたところで雨が降ってきた。映画が終わる頃には、止んでいるといい。
《映画、どうだった?》
〈うん。まぁまぁだな〉
《まぁまぁ? 感動しなかった? おじいさんになっても会いに行くところとか、私泣きそうになったんだけど》
〈そうかぁ? 主人公が、俺はどうもなぁ……。ていうかお前、泣きそうっつーか泣いてたし〉
《何よ、見てたの。もっと集中して観ていたら、タラスだって絶対泣いてたわ》
映画館の中は、案外客が多かった。ミラのように感動して、啜り泣く声もよく聞こえていた。
映画を観ながら、俺はロシア人女のことを考えたりしていた。忘れてしまいたかったが、自分の意志とは関係なく頭に浮かんできてしまうのだ。映画の邪魔だった。目を閉じてみても消えなかった。時間が解決してくれるまで、背負っていくしかないのだろう。
〈飯食いに行こう〉
ミラに話さなければならない。外はまだ小雨が降っていた。
――腕時計が鳴る――
発信者は三枝木だった。俺はミラから離れた場所で電話に出た。
「タラス大変だ! 直ぐに事務所に来てくれ! 親父が倒れた!」
三枝木の声は珍しく動揺していた。
俺たちの組織は人間の屑のような連中の集まりだが、親父は違っていた。三枝木や沼尻のような悪魔的人間ではなく、人徳のある人間だった。歳のせいか、最近体を壊しやすかったのは知っていた。親父にはロシア人女の件で手を煩わせた。行かないわけにはいかなかった。
電話を切りミラの元へ戻ると、眉を八の字にして心配そうな顔をしていた。
胸が痛くなるのを堪える。
〈悪いミラ。職場に呼ばれた……。一人で帰れるか?〉
《一人でくらい帰れるに決まってるでしょう。気を付けてね》
ミラは心配そうな顔をするのを直ぐに止めてそう云った。俺が困るとわかっているのだ。
〈寄り道すんな! 早く帰れよ!〉
俺たちは傘なんて持っていない。
ミラは頭の上に鞄を持って雨を凌ぎ、家の方向へと小走りで去って行った。
ミラが角を曲がるのを見終えてから、俺は急いで事務所に向かった。
事務所に入ると、暗い表情の三枝木が壁にもたれて俺を待ってくれていた。
「お前また濡れてんじゃん……。そのまま上がるな。拭くもの取ってくるからちょっと待ってろ」
「親父は?」
「部屋にいる。先生に来てもらったんだ……」
三枝木はいつに無く弱々しく、優しい気がした。恐らくは誰よりも親父を慕っているからだろう。
つい、拭くものは自分のハンカチがあると言いそびれた。
…………ハンカチを俺が常に持っていることくらい、三枝木は知っているはずだ。血で汚れた自分の眼鏡を人のハンカチで拭く奴が、どうして急に優しい……?
そう思った時には、タオルで口と鼻を抑えられ、眠らされていた。
腹に鈍痛を感じた。顔をタオルで抑えられた拍子に、三枝木に腹を殴られたのが最後の記憶だ。
目を開けると、女が拘束されていた監禁部屋にいるとわかった。そして女と同じように俺は拘束されている。
三枝木は俺の目の前で椅子に座っていた。女と話した時は、ここに椅子なんてなかった。わざわざ自分が座るために持ってきたのだろう。果てして何のためか。俺が何をしくじったのか。三枝木が気に食わないであろう心当たりはロシア人女のことしかなかったが、俺が直接親父とやり取りをしたから解決したはずだった。
「……親父は?」
「親父? いつものお習字の時間だろ。それよりお前、やばいことになったぜ?」
「……あの女のことなら、解決したはずです……」
「してねぇよ? 女のことには間違いないが、もっとやばいことになった。親父に知れたらまずい。流石にただでは済まされねぇよ。だからこうしてるんだぜ?」
三枝木はいつもの調子でにこやかに話した。「やばいことになった」と云っても、三枝木に焦る様子は感じられない。――もっとやばいこと――なんだ。
黙って三枝木を見つめると、さぞや嬉しそうに口角を上げた。
「お前が逃がしたあの女なぁ、沼尻の薬を全部盗んでいきやがった」
三枝木の口から出た言葉の意味がわからなかった。
何故だ。そんなわけあるか。
「……嘘です。たとえ盗まれてたとしても、あの女が盗んだっていう証拠は」
「証拠はあるんだ。うちには優秀な元お巡りさんがいるだろ? あいつただでさえ几帳面で潔癖なのに、自分たちの商品が盗まれて犯人がわからないわけがない。指紋まで沼尻は調べたんだぜぇ? ククッ」
三枝木は堪え気味に笑った。
「お前があの女の隠してた金を無理やり回収したから、あの女自分の金全部無くなっちゃって、盗みやがったんだよ。あぁいう女はいざとなりゃ何するかわからない。薬売れば金になるからさ。価値も知らないくせにありったけ持っていきやがって……。なぁタラス……。女が盗んだ薬、一体いくらになると思う?」
三枝木は息が掛かるほど、自分の顔を俺に近付けた。
――そういう、ことか――
指先が震えてきた。こんなことは予測できなかった。信じられなかった。しかし長年三枝木と一緒にいたからわかる。――三枝木は嘘をついていない。
「……本当に親父には言ってないんだ。親父、お前には甘いからさ、言ったら兄貴分の俺がやばいことになるだけなんだよ。昔からいつだってそうだ。お前も妹いるならこの気持ちわかるだろ? わからねぇ? お前ら育ち良さそうだもんなぁ」
「…俺の臓器で薬代賄えるなら、どうぞやってくださ」
「賄えないんだよなぁ!」
「! ミラには何も!」
「するに決まってるだろうが!」
三枝木は声色を変えた。
俺の震える指先を見た。見られてしまった。
「二人でも足りるかどうかだよ。妹のところには沼尻が向かってる。もう着いてる頃かな」
「お願いします! ミラだけは手を出さないでください!」
「手を出すよ。仕方ねぇじゃん。お前が悪いんだぜ? 中途半端に人を助けようとするからだ。俺みたいに後先考えて手を差し伸べてやらねぇと……。ククッ。こんなこと言ったら、俺が最初っからお前をカモにしてたみたいに聞こえっけど」
三枝木は、人の皮を被った悪魔だ。
どうすればいい。俺一人の命で足りないなんて、どうすればいい。なんで薬なんか持って逃げたんだ。どうして……。二人で生きていく金が必要だったからっていうのか。
「今までありがとうなタラス。一杯役立ってくれてさ。…………でも、お前……俺のこと馬鹿にしてたよな?」
「……は?」
その瞬間、頬を思い切り殴られた。
「『は?』じゃねーよ。馬鹿にしてたんだろ? 俺は学もなくて英語も喋れねぇから。そうだろ?」
「なん」
否定の言葉を発する前にまた殴られた。そんな風に思ったことはなかったのに。
ボロアパートの血だらけの男と同じように、三枝木は俺に跨り、どんどん殴るスピードと威力を高めていった。殴る理由なんて何でもいいんだ。
何か罵倒の言葉を浴びせられているが、鼓膜が破れたのか、わからなかった。
俺が何をしたというのか。ただでは死なせてもらえないほど、俺は罪を犯したのだろうか。ただミラと二人で生きていきたかっただけなのに、こんなはずではなかったのに。
これではまるで、あの男と一緒ではないか。
いや、一緒ではない。もっと惨めで、もっと哀れな人生だ。
「――聞いてんだよ!」
突然頭が真っ白になり、三枝木の声がはっきりと聞こえた。死んだのかと思ったが、三枝木の声が聞こえているのだから、そうじゃない。
死ねない。ミラだけは殺されて堪るか。
「そうだよ」
「……あぁ?」
「『思ってた』って、言ってんだよ。もうずっと前から思ってたぜ? 頭が悪くて、親父に構ってもらえない、イカれることしかできない屑野郎だってさ。俺だけじゃねぇや。皆思ってたよ。ハハハ……。皆お前のこと指刺して笑ってんだよ! 馬鹿な奴! ハハハハハハハハ」
最後に見た三枝木の顔ときたら、傑作だ。三枝木だって俺に振り上げる拳が震えていた。
本当に哀れな奴だ。でももう、誰が誰よりは哀れだとか、哀れじゃないとか、考えるのは止めようと思う。そう考えることこそ哀れだったのかもしれない。ミラやあの女はそういうことを、考えなかったのかもしれない。
まだ死ねない。まだミラに謝っていない。
故郷にも、連れて行ってやれてない。




